はなくそモグモグ

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『君たちはどう生きるか』を観てガチ泣きした男

 

形あるものには必ずおわりが来る

当然、ボジョレーヌーボーのキャッチコピーのように引退宣言を繰り返す宮崎駿、にも。

 

1997年 もののけ姫 公開後インタビュー 「これが最後の作品となる」
2001年 千と千尋の神隠し 完成披露試写会 「長編はもう本当に無理です。体力的に。」
2008年 崖の上のポニョ 制作中 「体力的にも最後の長編になる」
2013年 風立ちぬ 完成後記者会見 「今回の引退は本気」「僕の長編アニメーションの時代は終わった」

 

今作はそのおわりの一端を垣間見えたように思う。

 

まず、物語にはロゴス(論理)とパトス(情緒)がある。

パトスを排除した純然たるロゴス、これはSFやミステリーに代表される。

そこからパトスの量を増やしていくと、一般的な大衆作品となる。

そこからさらにロゴスを排除した夢遊病的な非論理世界、それがジブリの世界観だと思っている。 

 

当ブログをご覧になられている方ならおわかりだと思うが、私はロゴス派閥なのであまりジブリ作品を楽しめていない。

ロゴスのふりをしたパトスであるエヴァンゲリオンもあまり合わないように、あの辺りのアニメ監督界隈の作品にはそんなに熱を持って追ってもいない

 

では何故今作を見に行ったか、一言で言えば『逆張り』である。

広告代理店の力を借りない戦略を取るエンタメは無条件で応援したい、そういう投票の意味も込めて見に行った。

しかしながら、ぼくの想像していたパトスとは違った。

非常に暗示的なロゴスを感じる、予想を裏切る作品だった。

今作でロゴスの使い手になったのか?それとも、ジブリは最初からロゴスだったのか?

ぼくにはわからない

過去作もいつかじっくり見る必要があるかもしれない。

 

パトスの使い手

ジブリ作品がロゴスによる構築を放棄しているのには理由があると思う、それは宮崎駿という人間がいついかなる時も子供を見ているからだ。

子供の頃に見た特撮やアニメを大人になって見返すと、当時はわからなかったロゴスとパトスが物語に脈のように張り巡らせていることに気づく。

しかし、それは子供にはわからないのだ。

だからこそ、子供にはわかり得ないロゴスを徹底的に排除しているように思う。

最も、子供はパトスも理解できないのだが

ただ、メタファーのようなパトスがあることはかすかにわかる。

それが意図して作られたものなのか、結果としてそこにあるのかはわからない

なぜなら金曜ロードショーで流し見するくらいの熱量しか持っていなかったからだ。

 

子供を描く欺瞞性

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「ロリコン」「ショタコン」「異常性欲者」といういわれのない誹謗中傷を受けている日本を代表するアニメ監督達、彼らの作品に登場する非常に繊細に表現された少年少女を僕は映画を通してみている時に、やはりそこには虚構を感じるのだ。

つまり、『大人から見た子供』という虚構である。

快活で感情的で表情に表裏がないイノセントな存在・・・

ただ、トトロでは母の役割を担おうとするサツキの葛藤や、魔女宅では責任を通して心が少しだけ大人になる瞬間が描かれていたり、ディテールを削ぎ落としたデフォルメはされていないという点に注意されたい

だが、それを踏まえても外から見た子供の姿というのが従来のジブリ作品のように思う(エアプだけど)

しかし今作では宮崎駿が「自分の少年時代をトレースした」とかどっかで言ってたように、主人公の眞人は子供を内側から描かれている。

つまり子供の本質とは

大人と変わらず嘘をつくし、悪意を持って人を攻撃するが自分が責任を問われないやり方を知っているし、大人の表情から感情の機微を察して振る舞いを変えられるということだ。

宮崎駿はそれを知りながら、『大人から見た子供』を描く虚構に欺瞞性を感じていたのではないか?というのが本作を通して伝わってきた。

子供の悪意を描いてしまえば、それは『子供向けの作品』ではなくなる。したがって、『大人から見た子供』を、綺麗な石で積み上げなければならない。

これを広告や事前情報のない環境だからこそ『内面から見た子供』を描くことができたのではないかというふうに思う

にしても少年の着替えシーンをあんなにねっとり描く必要はあったのだろうか・・・

 

現実と現実逃避

今作が賛否ある理由の一つとして、前半がつまらないというのが挙げられている。

最序盤は画を動かして火事のシーンを描いたりしてあえて動きを作っているところから作り手としてもその自覚はあると思われる。

僕もこの手の評論家ごっこをするなら映画の尺の時間感覚をもっと測って養わなければなとは思うのですが、この映画は主に2つのパートに分けられる。

前半の現実パートと、後半の異世界パートだ

このつまらないと言われがちな前半パートは体感40分~1時間くらいある(全部で2時間4分)

しかし、このつまらなさは意図して作られている。

変わらない景色、同じことの繰り返し、そして集団の一員として『役割』を求められる。

現実の倦怠感を表しているからだ。

 

母親の久子が死に、父は母の妹を孕ませる。なんとも複雑な状況。

新しい母(実母の妹)である夏子もまた、「眞人と良好な関係を築く」という役割を与えられている。

馬車(人力車?)の中で二人は密着して座るが、心の距離は圧倒的に離れている。

夏子は明るくフレンドリーに振る舞うが、眞人は全く愛想よくない。

そんな中、夏子は「新しい命よ」と言わんばかりにお腹を触らせ、弟の存在を知らせます。

 

このシーンは印象に残った人も多いと思いますが、このシーンに「エグみ」を感じる人間にこそ、この映画を通して見てほしいという意図を感じます。

つまり「新しい命が必ずしも肯定されるものではない」という共感をセットアップし、最後のシーンでは「新しい命を肯定する」という流れに持っていきたいからです。

 

まず、ここには明確なポイントがあります。

「眞人と良好な関係を築く」という役割を夏子が持っているように、眞人も「夏子と良好な関係を築く」という役割を強いられています。

前項で話した通り、眞人は子供だからといってその力学に気づかない訳ではありません。明るく振る舞う夏子の笑顔の裏から「フリでもいいから良好な関係を築いてくれ」という心理的圧力を感じながらも、それを暗に拒否します。

 

それを夏子は『大人から見た子供』として解釈するからこそ、「フリでも良好な関係を築けない程度には心がまだ発達していない子供」としてお腹を触らせるのです。

眞人が高校生でものの分別ができてそうであれば、このように強引に触らせたりはしないでしょう。

 

眞人はその胎動を手で感じ取り、ギョッとする表情の中に『悪意』を認めます。

つまり、家族の中に本来あるはずの「自分のスペース」のうちのいくつかが弟の領土として明確に白線を引かれたという疎外感です。

 

そして、家についても実父は即座に仕事に出かけ、夏子と二人きりにされます。

その後、転校のシーンも同級生と馴染めず喧嘩になり、父親の仕事帰りを覗くと夏子と父が男女の関係になっているのを見て、音を立てずに部屋に戻るシーンなど

『自分の居場所が侵されていく』という状況をねっとり描きます。

 

順番が前後したかもしれませんが、同級生との喧嘩の後、自分で石を使って頭をえぐり『被害者』として家族に居場所を作ろうとします。

これはすっ飛んできた父の「誰にやられたんだ?」という質問に答えないことによって、『加害者』にならない純粋な『被害者』となれるわけです。

 

このようにして自分の住む世界から孤独感を感じるほど、塔の存在が大きくなっていきます。

この塔は後半の異世界に繋がるところでもあるのですが、

勿体ぶるのもあれなので先に結論から言います。

あの異世界は『メタフィクション』の比喩です。物語か哲学書か、自伝でも何でも良いのですが。

 

その導線として、眞人は散らばった本の中から『君たちはどう生きるか』を見つけるシーンが有り、その本のメモ書きとして「眞人に読んでほしい」的な母のメッセージを見つけます。(詳しい内容が思い出せない)

そこに母の存在を認めた眞人は没頭するかのように本を読みます、今は亡き母がこの本を読んだ時と同じ気持ちになれるからです。

 

眞人が夏子を暗に拒絶するのは、夏子を母として認めてしまうと、自分の居場所が侵襲された気持ちになる以上に、その家族にいたはずの母がいなくなってしまうかのように感じているからです。

だからこそ、アオサギは眞人に問います「母は生きていますよ」と

これは先程の本のメタファーです。母が読んだ本を読むことで、母自身が当時その本を読んだ気持ちを追憶できるように、塔という作品(メタフィクション)を通じて、母の存在を見出すことができるのです。

 

この塔(メタフィクション)は現実が充実している人には認知されません。

共感力の低そうなパターナル全開の昭和の男みたいなステレオタイプで描かれた眞人の父のようなリアルが充実している人間にとって、作品(メタフィクション)は存在すら目に入らないのです。

とあるゲーム実況者が「恋愛は現実で楽しもうと思いまスゥゥ」というとんでもない理由でギャルゲーの実況を打ち切っていましたが、よく考えれば理にかなっています。

現実で充実した恋愛ができている人間にとって恋愛ゲームは目にも入らないのです。

 

また、タバコに現を抜かしているおじいちゃんおばあちゃんにも同様に、作品による現実逃避は選択肢に上がらないのです。

 

このようにして、眞人が現実世界で疎外感を強く感じれば感じるほど

『お待ちしておりますぞ』

という現実逃避の誘惑を受けるわけです。

これは現実の責任を放棄して、作品(メタフィクション)に現を抜かせ。という誘惑です。

これは我々現代人には耳が痛いのではないでしょうか、そういう辛い現実に効く鎮痛剤のようなコンテンツこそが、あの異世界なのです。

 

夏子も同様にして、眞人とうまく関係を気づけないことに「現実の辛さ」を感じます。

彼が自分を拒絶すること、血だらけになって帰ってきて問題を持ってくること、塔に興味を持ち現を抜かそうとしていること

やがて彼女は体調を崩し、安全に我が子を生むことができるのだろうか?という一抹の不安が情緒不安定をピークにします。

 

彼女はアオサギに取り込まれる眞人を一度は弓矢で追い払うものの、最終的に自分が取り込まれます。

「なぜ夏子が塔に行ったのかよくわからない」的な感想を散見したが、ここまで読めばおわかりだと思います。

夏子もまた、現実の生きづらさを感じメタフィクションに現実逃避したのです。

 

メタフィクションを下の世界とする

この異世界の大きな特徴は、時間が捻じ曲げられていることでしょう。

子供の頃に一度行方不明になった眞人の母がその当時の年齢で異世界に存在していたり、現実ではおばあちゃんの姿だったキリコが、この世界では若い女性として肉体労働をしています。

僕はノーラン作品のような時間という概念がぐにゃぐにゃに捻じ曲げられている作品が大好物なので視聴は苦ではなかったのですが、ここが理解の難しさを加速させているように思います。

 

ですが、この記事ではこの異世界を「メタフィクション」だと定義したので、この時間の関係性を以下のように説明できます。

・この塔(メタフィクション)を消費した年齢、その当時の思念が存在している。

つまり塔が"本"だったとすると、その本を読んだ年齢のままその感受性でその世界に存在しているということです。

ですが、説明がつかない部分もあります。大量にいる「死人」の存在です。

「ここは死者の世界だ」とか言ってた気がしますが、この死者も同様にこの本(=塔=メタフィクション)の読者です。

 

例えば、シャーロック・ホームズ作品は1900年前後に書かれて今日に至るまで楽しまれていますが、その読者の大半は死んでいますよね。

ホームズ作品の読者を思念体として書き出せば、その大半は死人となります。

そして、キリコのように現在も生きている人間は、生きた思念として当時の年齢でそこに存在している。

というふうに解釈しました。

 

とすると更にこの解釈には矛盾が発生します。

眞人の母の存在です。

彼女は死んでいるので「死人」としてUnidentifiedな人物として描かれないと整合が取れません(ご都合主義でも良いとは思うが)

しかしながら、キリコはキリコとして異世界で暮らしているが、久子は『ヒミ』として存在しています。

 

ここで第三の分類が措定されます

「その物語の登場人物」としてのキャラクターです

 

したがって

分類①:その物語の読者(まだ生きているので当時の姿(気持ち)を思い出せる)

分類②:その物語の読者(すでに死んでいて姿形が曖昧)

分類③:その物語の登場人物

 

の3種類が異世界には存在しているのではないでしょうか。

ただ、ラストでヒミとキリコは同じ扉で帰るので、そこに厳密なロゴスがあるとは僕も思いません。

なんとなくの雰囲気です。宮崎駿本人も自分でもよくわからないとか何とか言っているので。

 

とすると、この異世界にはもう一つの特徴があります。

それは『ペリカン』と『インコ』です。

この異世界では奇妙な振る舞いをするので印象に残ります。

僕の抱いた違和感はこれらは「鳥類に統一されている」ということです。

アオサギも含めて、です。

 

これには何らかの理由を認めることができます。

僕が思うに、異世界、物語としてのメタフィクションに対する『解釈』の態度です。

ペリカンは丸呑みしかできません

そしてインコはオウム返しします

2つの共通点は「歯がない」ということです、これはアオサギには歯があるので明確に意図されているように思います。

つまり、このメタフィクションの「原作を神聖視し、作中のフレーズをオウム返しするインコ」と「作品を丸呑みし咀嚼をしないペリカン」という質の低い『読者』として悪意を持って描かれています。

インコ大王はそれとは別に「その物語の登場人物(分類③)」だと思われます。

 

このようにして構成される世界を、作中では「下の世界」と呼ばれています。

これはあくまでメタフィクションが、現実世界に立脚した下位クラスであると宮崎駿は暗に言いたいのではないでしょうか。

 

子供の減る現実社会をどう見ているか

ワラワラの解釈には正直困っています。

作中では『新しい命』として表現されていますが、この異世界がメタフィクションである以上「クリエイティビティ」「若い才能」のメタファーとも取れるからです。

このワラワラが生まれようとしているのを、ペリカンが食いつぶすシーンがありますが

これも、高齢化社会の暗喩(高齢者福祉に予算が投じられ、少子化が加速する現代社会)なのかアニメ業界の暗喩(若いクリエイターが安い単価で買い叩かれ、長時間労働させられることにより、自分の作品を作ることができない)なのか

 

――先ほどの講演で「子どもたちをナショナリズムから解放したい」とおっしゃいましたが、今後は地域社会に根ざした映画を作るつもりか、グローバルな映画を作るつもりかどちらですか?

宮崎 「世界の問題は多民族にある」という考え方が根幹にあると思っています。ですから少なくとも自分たちは、悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません。

 「あらゆる問題は自分の内面や自分の属する社会や家族の中にもある」ということをいつも踏まえて映画を作らなければいけないと思っています。

 「自分の愛する街や愛する国が世界にとって良くないものになるという可能性をいつも持っているんだ」ということを、私たちはこの前の戦争の結果から学んだのですから、学んだことを忘れてはいけないと思っています。

悪人を倒せば世界が平和になるという映画は作らない――宮崎駿監督、映画哲学を語る(前編):“ポニョ”を作りながら考えていたこと(2/4 ページ) - ITmedia ビジネスオンライン

 

ただ、ペリカンそのものを社会の劣化の原因として悪役化することはせず、ワラワラを食いつぶさざるを得ない事情のようなものをあえて口で語らせます。

 

この辺が、宮崎駿はどこまで描いたのか?がわからないですね。

徹頭徹尾「作家論」なるものを描いたとしたならば、一貫性のある説明はできるんですよ。

夏子が子供を生むということそのものも「創作のメタファー」ということにできます。

しかし、この映画は半分ぐらいの尺を取って気だるい日常を描いてきているので、地に足がついた現実世界をどう生きるか?ということもテーマの一つだと思うんですよね。

つまり直接表現として「子供を産まなくなった社会」を指している可能性もある。

もしくはその両方の可能性もあります。

僕は両方だと思います。

 

このあたりから、宮崎駿が「社会も国もそれを構成する人民の思想も教育も全部クソ」だって価値観を僕と共有しているような気がしてものすごくシンパシーを感じましたね。

 

生と死と

このようにあらゆるメタファーを散りばめられていますが、結局はジブリジブリした軽快なアクションを純粋に見てもらいたいような気がします、従来どおりに。

 

終盤、この異世界の創造者という大おじ様が出てきます。

これは物語のセットアップ段階で「この屋敷には過去に本の読みすぎで偏屈になった人がいた」みたいな説明がされてました。

ちなみにこの設定をそのまま説明するみたいなシーンあんまり好きじゃないです。

・この世界が作られた世界であること

・丁寧に石を積まないといけない

・大おじ様には石を積む時間も余力も残っていない

・この世界の創造を担えるのは血縁者だけ

といった、この世界がメタフィクションであるという前提を踏まえれば、直球すぎる暗示がこれでもかと出てきます。

 

大おじ様「バランスよく積んでほしい」

眞人「置きにいった石は墓標と同じだ」

大おじ様「それがわかるお前に継いでもらいたいのだ」

 

こんな感じのセリフがあったと思うのですが、このシーンでびっくりしすぎて10分くらい口開けたままポカーンとしてましたね。

僕はここで気づきました、この作品が暗示まみれの「ロゴス」によって構築されているということに。

ジブリはパトスだから雰囲気だけ吸収するものという前提をひっくり返されました。

 

『この13個の石を、3日に1回積んでくれ』

映画が終わったあと、もちろん真っ先に調べたのは宮崎駿の監督作品数ですよね

・ルパン三世カリオストロの城
・未来少年コナン 巨大機ギガントの復活
・風の谷のナウシカ
・天空の城ラピュタ
・となりのトトロ

・魔女の宅急便
・紅の豚
・もののけ姫
・千と千尋の神隠し
・ハウルの動く城

・崖の上のポニョ
・風立ちぬ
・君たちはどう生きるか

今作で13。

この3日という数字がスタジオジブリ設立から39年(÷13で3)とするのは流石にこじつけだと思う。なぜなら13作品目というのは作る前から確定しているが公開が2023年になるとは限らないからで

この3日という数は監督に近しい人間にしか分からない変数だと思われます。

 

宮崎駿周辺の人間関係については全く詳しくないので、それがわかる人のために僕が咀嚼した部分を書き連ねますが

 

まず、この塔(メタフィクション)がスタジオジブリとアナロジー関係にあるということですよね。

そしてこの塔を継げるのは血縁者しかいない。

しかし彼の息子は

・それがわかる者であるが本人が断った

・それがわかる者でないために継がせない

であるために、塔(≒スタジオジブリ)は崩壊する運命を迎えるということです。

そして大おじ様(≒宮崎駿)はそれを受け入れているという構造になっています。

 

個人的に面白かったのは、こんな感じの物理法則を無視した積み方をしてて、これはジブリ作品が「ロゴスではない」ということを暗に伝えてるのかなと思ってニヤリとしました。

 

その類比構造に気づいたために、『もう積み木のバランスを取るので精一杯』『あと一つおけるかどうか』みたいなセリフが、宮崎駿の本音なんじゃないかと重なって正直半泣きになってもうてます、この時点で。

 

僕的にはこのあたりの「綺麗な石」の意味がよく分からなかったのですが、これは素直にコンプラとかポリコレ的な表現規制概念ということでいいのかな

石の拒絶、というのもある種不貞を働いているようなものであり、連れ子を大嫌いと言った夏子や自分の頭をかち割って何者かのせいにする姑息な眞人も、こういうキャラクターの心理的な隙を叩く世論的なものを反映していると読み取るのは深読みが過ぎるような気が自分でもしてます。

だからこそ、綺麗な石でコンプラ的なバランスを取れという大おじの指示に対して、「自分子供だからといって全然イノセンスじゃないですよ」というマジレスをする眞人。

この石を積むという暗示的表現と対比させるために、頭かち割った悪意の象徴として血の付いた石を布石として置いてるのは流石ガチプロの脚本力だなと感心しました。

 

これらは「心理的な潔癖を自分や他人に強要してんじゃねぇ」「誰しも悪意は抱えてるんだからまずはそれと向き合え」という現代人批判のようにも思えます。

 

そしてそれを拒否するインコ大王、彼はインコすなわち烏合の衆の承認を得た権威的存在です。

彼は自分の権威性の維持のために、塔の崩壊を拒みます。

そして「3日あけて積め」と言われていた積み石を一気に積んでしまいます。

「こんなものさっさと積んでしまえ」と

 

これはスター・ウォーズとディズニーの関係を想像してもらえれば、理解しやすいです。

塔すなわち、その作品のもつ権威性を維持するために権力(≒インコ大王)新作を粗製乱造します。

しかしそのクリエイティビティの介在しない工業的な生産行為がその作品の価値を根本から崩壊させるのです。

 

つまり、

・後継者がいない

・石を積む事ももうできない

・資本家が粗製乱造しても維持できない

宮崎駿は詰んでいるわけです

彼にはもう、崩壊する塔を眺めることしかできない。

 

そのようなことを考えながら、ラスト塔が崩壊するところで普通に泣きました。

 

現実を生きろというチープなテーマ

メタフィクションのメタファーである塔が崩壊して、眞人や夏子は現実を生きることを肯定するわけですが。

このテーマ性自体は、シンエヴァやユアストーリーといった賛ある作品たちと要するに同じことを言っていますよね。

 

僕が月曜日にこの作品を見て、金曜日に感想を書いているわけですが、この間に多くのことが記憶から抜け落ちるように、メタフィクションから抜け出した他のキャラクターも異世界の記憶が抜け落ちていきます。

現を抜かすような作品も距離を置けばやがて忘れるんだから、ということを意味します。

 

しかし、石の一つでも持ち帰ることができたなら、あなたの現実を幾ばくか豊かにしてくれるかもしれません。

ということを言っています。

 

まぁ、僕はユアストーリーやシンエヴァを叩いている側の人間なので、この帰結自体を肯定することはできませんが、

宮崎駿が自分の塔を破壊してまで現実を肯定しようとした理念は理解できるんですよね。

つまり、彼はどこまで行っても「子供」を見ているんですよ。

だからこそメタフィクションを積み上げている自分に矛盾を感じている。

 

つまり、どういうことかというと

この作品を「親目線」で見た時に違和感を感じませんでしたか?

子供が刃物を持って竹を削って弓矢を作ったり、その弓矢を森の中で飛ばしまくったり家の中で打ったり、魚を切るシーンでは自分の方に刃物向けて力入れたら抜きのときに自分に刺さっちゃうでしょ?と刃物の扱いにヒヤヒヤした人もいるのではないでしょうか?

しかし、これを「危ないからやめさせよう」とする社会自体がもう思想的に劣化しているということなんですよ。

 

子どもたちが字を覚える前に覚えなければいけないことがいくつかあって、これは石器時代からやってきたことです。自分で火をおこして、燃やし続けて消すことができる、水の性質を理解している、木に登れる、縄でものをくくれる、針と糸を使える、ナイフを使える。これだけは国が責任をもって子どもたちに字を教える前に教えなければいけないと思っています。

と本人も語っているように、子供はその「身体性」を持って世界を学ぶ必要があるわけです。

その身体性で世界を理解すべき年齢に椅子に座らせて閉じ込めて紙とペンしか動かさないというのは僕も虐待に相当すると思います。

ですが、「火とか刃物を扱わせてもし怪我でもしたら誰が責任を取るの?」という管理社会のロジックを崩せないので、子供から身体性なるものはどんどんと奪われて行くわけです。

 

ペリカンによって公園で球技ができなくなったように、子供はサッカーボールを蹴るかわりに、サッカーアニメを見るようになります。

この身体性のバーチャル化こそがゲームやアニメなわけです。

外で体を動かして世界の理を理解する時間を、アニメやゲームで仮想体験しているのが現代のゼロリスク安全志向社会なわけで、宮崎駿自身もアニメーターとしてそのバーチャライズに加担しているわけです。

 

実際に子どもたちを取り巻いている環境は、私たちのアニメーションを含め、バーチャルなものだらけです。テレビもゲームもそれからメールもケータイもあるいはマンガも、つまり私たちがやっている仕事で子どもたちから力を奪いとっているのだと思います。

これは私たちが抱えている大きな矛盾でして、「矛盾の中で何をするのか」をいつも自分たちに問い続けながら映画を作っています。

でも同時にそういう子ども時代に1本だけ忘れられない映画を持つということも、また子どもたちにとっては幸せな体験なのではないかと思って、この仕事を今後も続けていきたいと思っています。

 

その自覚があるからこそ、崩壊する塔を横目に現実に戻っていく視聴者の構造を肯定できるわけです。

ある種その崩壊を望んでいた側面もあるのかもしれません。

だけど石の一つくらいは持っていてほしい。

 

そういう願いが込められているのだと思います。

君たちはどう生きるか

個人主義で社会を劣化させてないで子供作れ

という説教を感じました。

以上です。