はなくそモグモグ

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ゼルダは黒人にすべきか

2週間位前のトピックなんですが、当時はあんまり興味なかったんでスルーしてたんですけど今になって突然なんか書きたいことがあったんで記事にしました。

例によって長くなると思いますが読んでくれたらありがたいです。

とはいえ、僕もそこまでゼルダの伝説シリーズや人種問題に詳しくないので、この記事における私見のほとんどが知識がない故の推定を根拠に成り立っているのでそもそもの前提が間違っている可能性が高いことに留意していただきたい。

 

※本記事において現代の日本のゲームに対する批判とも取れる表現がいくつかありますが、個人的に現代の日本のゲームを僕は個人的に好きではないことは事実です。

しかし、それとは別に現代の日本のゲームがナラティブとしての価値を創出したことは正当な進化であるとも思っています。

 

 

 

ゼルダの伝説が表現したかったもの

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ロジェ・カイヨワという社会学者は『遊びと人間』という著書で人間の遊びを4つに分類しました。

アゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリー(模倣)、イリンクス(陶酔)に定義されるのですが、大体のゲームはこの4つに分類されます(逆に言えばこのいずれかの指針を示せなかったゲームはクソゲーである可能性が高い)

今流行っているFPS等ではエイム能力や位置取りなどの立ち回りで相手より高いスキルを示すことに価値を見出すのでアゴン(競争)に分類されます。格闘ゲームや対戦要素のあるパズルゲームなどもこれに含まれていて、対人ゲームに関わらず、オフラインゲームに関してもアクションゲームを始めとして多くのゲームは「そのスキルをゲームに示し(競争して)ステージをクリアする」という構造を持っています。

ゼルダもアクションゲームの一つとして「競争(アゴン)」の性質を持っていると言っていいでしょう。

 

ここで問題なのが、RPGです。

RPGというと多くの日本人がターン制バトルの戦闘システムをベースとしたドラクエ的なゲームを想像しがちですが、本来RPGの意味するところは「架空の人物の立場で問題解決、およびそれを達成する選択を行う」ことにあります。

 

例えば、中世のある国で暴虐の限りを尽くす悪王がいたとします。あなたはその国王に仕える騎士です。そしてあなたはある日、クーデターを企む革命軍に仲間にならないかという説得を受けます。

・あなたが国民のためを思うならば国王を暗殺するべきだ。

・あなたが騎士である立場を尊重するなら革命軍の存在を国王に報告するべきだ。

暴君に仕える騎士という立場で、あなたはどのような選択を取りますか?

というのがロールプレイングゲームの本質なわけです(暴君に仕える騎士というロールをプレイしている)

同じような立場を持つプレイヤー幾人かが集まり、それぞれ自分の立場で利益を最大化していくという元々テーブルトークRPGでやっていたものをコンピューターで再現しようという流れでRPGがビデオゲームに落とし込められるようになったわけです。

 

その流れで行くとRPGというのは少し特殊で、ある役職を持つ知的生命体になりきる(ミミクリー)という性質を持ちながら、その立場で自分の利益を最大化する(レベルを上げる、お金を稼ぐなど)ための選択をするといった競争(アゴン)の性質を持ちつつ、しかしその選択によって何が起こるかがわからないという運(アレア)の要素もあります。ゲーム内で勇者として人々の誉れを得るといった陶酔(イリンクス)の要素もあるかもしれません。

単純な《なりきり(ミミクリー)》と《ロールプレイ》は遊びの存在としては別の評価軸にあるということです。

 

そこで問題なのが、それをプレイヤーが、ないしは作り手がそれを区別できていないことにあります。

《ロールプレイ》においては「プレイヤーがある立場によって選択する」することが重要なのですが、当時のApple IIやファミコンのハードスペックではプレイヤーの選択によってゲームが複雑に展開するということが再現できませんでした。

コンピューターRPGの進化の歴史では「スペックで再現できなかったもの」が日本に輸入される過程で「存在しないもの」になってしまいました。

その結果、現在の日本のRPGには「プレイヤーがある立場によって選択する」という性質が失われ「シナリオを追う」ことが重視されています。

ゲームジャンルを定義するのに「洋アクションゲーム」「Jアクションゲーム」であったり「洋恋愛ゲーム」「J恋愛ゲーム」という区別がないのに「洋RPG」「JRPG」という区別があるのはそのためです。

 

ロールプレイングは「王を殺すか殺さないか」という選択を暴君の騎士という立場で考えることをコンセプトに持ちます。

逆に「国民の不幸が許せなかった騎士が国王を暗殺する」という筋書きはナラティブ(物語)であり、国王を暗殺するために活動する騎士をプレイするのは「なりきり(ミミクリー)」なわけです。

JRPGは"ロールプレイング"という名を関しながら「なりきり(ミミクリー)」という要素が強いという特徴があります。

 

余談ですが「マルチエンディング」や「ルートが分岐する」みたいなのをゲームデザインの売りとして宣伝しているケースもありますが、これも完全に本来のRPGを理解していない証拠ですよね。

RPGにおいては「プレイヤーがある役職にもとづいて何らかの判断をし、その結果としてイベントが発生する」ことが大切であり、RPGにおけるシナリオとは

◆どうやって山に向かったか?

 →人と会話をして人脈を広げ金持ちと交渉して馬車を得た!

 →盗賊と手を組み、馬車を盗んだ!

 →馬車にこっそり忍び込んで気づかれずに移動した!

◆盗賊が持っている宝箱をどう手に入れる?

 →殺してうばいとる!

 →交渉してトレードする!

 →こっそり盗む!

これらの問題解決の過程にプレイヤー固有のドラマが生まれるわけです。

したがって戦闘というのもあくまで問題解決の手段の一つにすぎず、TRPGではステータスは戦闘に関わるものだけでなく「交渉力」であったり「隠密」といった能力値があり

「攻撃力と防御力を見た感じこの敵には勝てなさそうだけど、交渉力はこっちのほうが上だからトレードで手に入れよう。」といった戦闘以外のゲームクリアの戦略を臨機応変に立てる事が重要になります。

しかし、ダンジョンズ&ドラゴンズ(以下、D&D)というTRPGが戦闘とダンジョン攻略に焦点を当てた設計になっていて、

ゲーム容量の関係でTRPGの全てを再現できなかったために戦闘に焦点を当てようとコンセプトのもとD&Dを参考にして作られたコンピューターRPGの始祖とも言える「ウィザードリィ」「ウルティマ」から

それが日本に輸入されファミコンソフト「ドラゴンクエスト」、そしてそれを参考に作られた「ファイナルファンタジー」という過程で、本来は「戦うかどうかを判断する」ための戦闘ステータスだったものが、とりあえずステータスを上げてボスをぶん殴ってシナリオを見るという構造になっていきました。

これらは、ステータスという要素でプレイヤーに判断の余地を与え、生き延びる選択をするというアゴン(競争)の性質が失われ、「勇者はここでドラゴンを倒して村人に称賛されるに違いない」というナラティブの側面(今後どうなるかは決まっている)によってこれだけステータスがあればボスを倒せる(シナリオの続きが見れる)という基準のような位置づけになりました。

「にげる」というコマンドも形骸化してますね。

これらはJRPGというジャンルが登場人物になりきるというミミクリーの性質に特化したため。

 

逆に、洋RPGに一本筋のシナリオが存在せず、交渉や盗むといった問題解決手段を持ち、戦闘システムが素朴(戦闘は問題解決の1手段に過ぎないため)といった特徴があるのも、TRPGの本来のコンセプトにもとづいて設計されているからです。

そのため、「マルチエンディング」や「ルート分岐」という言語化はゲーム体験をナラティブとして捉えており、そのゲームが強くミミクリー的性質を持つことの証左になります。

 

これ話が脱線しているように見えるでしょ?

ちゃんと着地するので安心してください。

というのも僕の意見に至るまでの前提知識が多くて、その共有をしている感じです。

 

つまるところ、JRPG(に関わらず日本の多くのゲーム)はナラティブ的ミミクリーの性質を持っているということです。

 

そしてゼルダの話に戻るんですが

その観点から行くと、初代ゼルダは本来の意味でのRPGに近い性質を持っているわけです。

話が長くなるので多くは語りませんが、マリオでは帽子をかぶることにより向いている方向がわかります、そして左に配置しているので右に進みます。そして、ジャンプを覚えないと最初のクリボーに当たってしまいます。

つまり、クリボーを突破した時点で語らずともプレイに必要な技術は説明されたことになるわけです。といった心理的デザインを駆使することでプレイヤーは開始数分のうちに何をするゲームなのかを理解します。

しかし、初代ゼルダの伝説では逆に何をすべきかを説明しないというスタンスを持っています。(実は心理的に一番近いマップに剣があるという誘導はあるのですが)

両ゲームの開発者である宮本茂氏はこう述べています

初めて「ゼルダ」を作った時、「スーパーマリオ」とか、当時出てきたゲームを遊んでクリアするということに慣れていた人が多くて、モニターを取ってみたら「このゲームはいったい何をして良いのかわからない」という意見が多かったので、そのときはまだリンクは剣を持っていたんですけど、じゃあ剣も外して本当に何もわからないことから自分で考えて遊ぶと言う風にわかりやすくしようと思って、剣をおじいさんがくれると言う風に変更した歴史があるんです。

宮本茂氏、「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」を大いに語る - GAME Watch

そして初代ゼルダのマップでは、ゲーム開始時からほぼ全てのマップにアクセスすることができ(ゲーム開始時に行けないのは2つのマップと2つのダンジョンのみ)

どのマップに行くか、どのダンジョンから攻略するかなどの順番は決められておらず、全てプレイヤーに委ねられている。(もちろんクリア難易度や情報の開示などの設定によって想定された攻略の順番はあるが、要はそれに逆らうプレイをゲームはロックしないということ)

2003年のSuperPlay Magazine(イギリスのゲーム雑誌)4月号では宮本茂氏は次のように語っている

ゼルダの伝説はプレイヤーに次に何をすべきかを考えさせた最初のゲームだったので、私たちは非常に緊張していたことを覚えています。新しいコンセプトによってゲームが退屈し、ストレスを感じるのではないかと心配していました。(日本語訳)

Interview:SuperPlay April 23rd 2003 - Zelda Dungeon Wiki

つまり、プレイヤーにとっては馴染みのない謎の少年リンクを操作し「自分の判断によって冒険の筋書きを決める」というロールプレイングの性質を持っています。

ファミコンというロースペックハードの中に海外のRPGが理想とするオープンワールドの理念は成立していたんですね。

(これが海外勢の日本のレトロゲー信仰と後にJRPGと日本のゲームが揶揄される由来と歴史になります。)

 

これが後のゼルダシリーズではナラティブ的文脈のシナリオが掘り下げられ、冒険の順番がロックされたりと、アクションゲームとしてのアゴン(競争)の性質とは分離してミミクリー的側面が強くなっていきます。

 

それに対して宮本氏は

岩田
『そもそも宮本さんは『ゼルダ』をつくるとき、
ストーリーに関しては
どのように考えているんですか?』

 

宮本
『ゼルダにとってのストーリーというのは
シリーズを何本もつくり続けていくと、
つじつまが合わなくなりますよね。
そのつじつま合わせのために、
ものすごく無駄な時間を、じつは使ってるんです。
なので、お客さんが
「もうそんなことはどうでもいいから」
と言ってくれたら、すごく楽になるんですけど(笑)。

 

岩田
『(笑)
宮本さんとしては、物語づくりに時間を費やすより、
ゲームづくりのほうに
エネルギーを注ぎたいと思っているんですよね。』

 

宮本
『そうです。』

 

社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』宮本 茂 篇|ニンテンドー3DS|任天堂

 

宮本
毎回、舞台設定が違っても、
いつもおなじみのキャラクターが出て役を演じる。
まあ、『マリオ』がそういう構造になっているんですけど、
『ゼルダの伝説』のほうも、
リンクとガノンとゼルダの関係性を保ちつつも、
どんな舞台でもOKですよ、みたいになれば
すごく楽なんですよね。

 

岩田
『でも、シリーズをこれだけ重ねてくると、
なかなかそうもできないですよね。』

 

宮本
『そうなんです。とくにゼルダのようなお話は
あまり興ざめなこともできない、ということで、
『時のオカリナ』では、
過去のシリーズとのつながりも考慮しながら
話を決めていったんです。』

 

社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』宮本 茂 篇|ニンテンドー3DS|任天堂

のように述べており、

根本的にはゼルダシリーズ共通のコンセプトである「謎に対する追求」であったり「自分の意志で冒険するワクワク感」といったゲーム体験へのプライオリティ(重要度)が一番高く、「剣と魔法の物語(英語圏から見たゼルダのナラティブ)」や「勇者と姫と魔王(日本人から見たゼルダのナラティブ)」という物語要素は主にならない。

というのが開発者である宮本茂氏の見解であり

そのためには、初代ゼルダがプレイヤーを盾も剣も持たない状態で何の説明もなくオープンワールドに放り出したように、リンクは何者でもないことが重要なのである。

 

日本人のミミクリーと外国人のミミクリー

ここで外国人と大雑把なくくりで話していますが、僕が英語のゲームや英語の掲示板とかサイトとかを見た印象なので、ここでいう「外国」「海外」といった表現は国外全般を指すというより、英語圏(とはいっても国籍すら意識して触れてないので、アメリカとかイギリスでもない)みたいな非常な曖昧な定義になってます。

とにかく英語で観測できるコンテンツやサイト、プレイヤー(レビュー)を総称して「外国」「海外」と読んでます。

 

多くのビデオゲームはその系譜を辿っていくとボードゲームに帰結します。

特に、RPGは辿っていくと全てがダンジョンズ&ドラゴンズに帰結すると言ってもいいでしょう。

そしてボードゲームを辿っていくと何があるのか

今のようにスマホもパソコンもない時代、暇な人間はどうやって時間を潰していたか

ある人は「軍隊を指揮する将校をやりたい」と思った。

その人は紙に方眼を書き、別の紙を折って戦車のユニットを作った。

相手の分も作り、大砲は3マスまで届くようにしよう、当たったら戦車は破壊され、全てのユニットが破壊、もしくは指導者を拘束することでゲーム終了と

しかし、大砲が当たったかどうかをどう判断すればいい?

FPSならプレイヤースキル(当たったかどうか)をエイムで示せばいいが、当時にはコンピュータがなかったのでサイコロを振ろう。(そのサイコロが時代を超えてビデオゲームの乱数となり、アクション要素になるわけです。)

 

この辺のルールをゲームバランスの完成度を目標に整備したものがボードゲームになるわけですが、ボードゲームの説明書などには最初に必ずこのような一文があります。

「あなたは潰れかけの会社を経営する社長となって、交渉や売買を駆使して富を築いていきます。」

「あなたは牧夫となって羊が逃げないように柵を整備したり狼から厩舎を守ります。」

など、これらの説明はプレイヤーがゲームに没入する取っ掛かりにはなりますが、本質的にゲームする上で必要のない情報です。

おそらく前者はワーカープレイスメントゲームで、お金を模したコンポーネントで経営者の気分になるだろうが、おおよそはコマを配置して数値を最大化すればいいわけです。後者はタイル配置や陣取りのような要素があるゲームで、緑の背景で柵タイルを配置したりすることで雰囲気は農場のようになりますが、求められることは大局的に状況を把握して適切な対処をすることです。

といったように、ゲームをプレイする上では本来必要でない知識やデザインを駆使してボードゲームやビデオゲームはプレイヤーの没入を狙ってきます。

 

横スクロールアクションゲームも、あくまでスパイスとして「さらわれた姫を救う」というナラティブ的な意味を与えますが、プレイヤーがやりたいことはは難しいステージをアクションスキルでクリアすることであり、姫を助けることではありません。

 

にもかかわらず、ゲームが没入(ミミクリー)をデザインするのは、ボードゲームの成り立ちに「軍隊の将校になりたい」という原初的欲求があるためです。

 

つまり、ビデオゲームの設定するゴールとして

①ある役職に深く没入し、なりきることのできるゲーム

②ルールの整備された競争し甲斐のあるゲーム

③TRPGのゲームマスター的役割をコンピューターで再現する

 

僕自身ゲームカルチャーの専門家ではないので適当な分類ではありますが、洋ゲームはおおよそこの3つに分類されたゴール目標を持つという性質を説明できるかと思います。

逆に、国内外問わず叩かれるゲームはこの3つを意識していないか、そもそも設定できていないことが多いと思います。(たちが悪いケースは、そのゲームのナラティブを評価する層が一定数いると、ゲームの側面を評価してクソゲーと言う派閥と、ナラティブだけを見て神ゲーと評価する派閥の不毛な争いが発生する点。)

 

①は海外のゲームだと『Farming Simulator』という有名な農業シミュレーションをはじめとして「特定の職業になりきる」というコンセプトを持ったものが存在します。

日本のゲームではシミュレーションと言っても、②のようなゲームとして面白いことが前提になってルール整備のデザインに注力されがちですが、海外のものだと、より「労働に近い」という①のミミクリー的を評価されることもあります(故に、ゲームとして遊べるものではないものが多い)。

もっというと


Deadliest Catch』というベーリング海でカニ漁をするだけのシミュレーションゲームだったり(このゲームはテレビ番組のゲーム化という側面もある)

Flipper Mechanic』というアナログのピンボールマシンを修理するだけのシミュレーションゲーム

 

といった、それもうそういうバイト探したほうがいいんじゃね?みたいなものまでシミュレーションという形でゲームになっています。

フライトシミュレーターもプロのパイロットが解説するくらい完成度が高いですし、海外ゲーマーの中には物語のキャラではなく、特定の役職というクラスに対するミミクリーに遊びを見出しているケースもあります。

 

日本ではミミクリーはどういった位置づけになっているのだろうか?

先程「ナラティブ的ミミクリー」と表現したように、日本人のなりきりは物語の特定のキャラクターになりきるという性質を持っています。

コスプレはそのミミクリーの代表的な例と言えるでしょうが、英語でも通じるcos-playは元々コスチューム・プレイという和製英語なのだ。

もともとアメリカにもハロウィン(Halloween)やマスカレード(masquerade)という仮装文化があったが、それは特定のキャラクターになりきるわけではなく、あくまでミイラやゾンビといったクラスへのなりきりにすぎず、本格的にナラティブキャラクターへのなりきりが始まったのは60年代後半『スタートレック』や『スターウォーズ』のファンが登場キャラクターへの仮装をしてSFイベントに出たことがコスプレ文化のルーツと言われている。それもコンテストとして仮装の完成度を競争(アゴン)する要素を含んだため、本格的に創作物のキャラクターになりきるという文化は日本によって醸成されたものと言っていいかもしれない。

 

ここで大きな特徴は、日本人の多くが持つミミクリー観として、なりきる対象と自分は完全に切り離されているという点でしょう。

これはコスプレだけではなくゲームプレイにもその傾向が見られる。

本来ゲームにおける勇者とは、世界を救うという目的だけが与えられた冒険者であり、魔王を倒す手段や過程についてはプレイヤーに委ねられていることがゲームの肝であった。

そして自由度を奪う要素(透明のかべによって進めないマップや制限された選択肢)は技術的な問題で解決できないものであることが多い(故に洋RPGでは時代とともにその手の要素は解消されつつある)

しかしJRPGでは予め勇者とされる人間の名前も、過去も、見た目も全てあらかじめ決まっている。そしてプレイヤーの選択であったとしても、未来に起こる出来事ですら変えることはできないのだ。

 

これは国内外でのミミクリー観の違いから来るものではないか、と僕は考える。

 

つまり、外国人(この言葉が指す対象は初めに行ったとおり英語圏の人間にとどまる)の考えるミミクリーには「あなたが勇者だったときにどういう選択を取りますか?」という「勇者としてのクラス」だけが設定され、「あなたという個」が尊重されている。

しかし日本人の考えるミミクリーには「あなたは勇者という人間が取った選択や人生を追体験してください」という「勇者という架空の人物の個」が設定され、「あなたという個」は尊重されない。

 

日本人が行うコスプレには「滅私」がテーマとなる。(リオネル・メッシとは関係がない)

つまり、登場人物の仕草や口調をいかに真似できるかが重要で「いかに自分の人格を殺せるか」というところに完成度が現れる。

そしてコスプレが叩かれるときは「似ていない」ことよりも「コスプレイヤーがそのキャラについて詳しく知らない」ことが問題になりがちである。(某掲示板は似てる似てないの評価軸を持ち出しがちだが)

それは「コスプレイヤーの個」よりも「その物語のキャラクターの個」が尊重されているからに他ならない。

対象のキャラクターの髪色が自分と違っていれば染めるし、性別や人種が違っていたらそれに合わせて自分の体に手を加える。

と言ったように、日本人は登場人物のキャラクターの個を自分自身よりも尊重する性質があるのでそこに政治や文化が介入するとややこしいことになる。

例えば、創作物より自分自身(あるいは他者)の個を尊重するフェミニストが、女性キャラクターの服装にケチをつけたとする。例えそれが男性優位社会を裏付けたり、女性の性的消費に繋がるものであったとしても、「男性優位社会の側面を持つ世界観や、そこに生きる創作キャラクターの個」をオタクは尊重するので争いが起きる。

しかもこの例で出てきたオタクは例のフェミニストと同じ思想を持っていたとしても、同じような論争が起きる。オタクにとっては自分自身の主義主張よりもキャラクターの人格やそこに住む世界のほうが大事だからだ。

と言ってもオタクはそのナラティブが持つ世界観に潜む男尊女卑を肯定しているわけではない、自分や相手の主義主張というレイヤーの上にナラティブの世界観を位置づけているだけなのだ。

 

つまり日本人におけるナラティブとは、自分達の住む世界とは平行線上に存在しており、それ自体が自分自身と交わることを嫌う。

対してアメリカ人のナラティブとは、自分自身の延長線上にあり、物語を構成する世界観のほぼ全てが現実の社会問題に相同するものであると考えている。

だから共産主義者は常に悪役であり、独裁者は負けなければならない。それが全く架空の地図で行われた出来事であったとしてもだ。

 

故に日本のオタクとポリティカル・コレクトネスは非常に相性が悪い。

ポリコレ勢力はアニメキャラの人格を尊重しないし、オタクはポリコレ勢力の人格の上にアニメの世界観を置いているからである。

 

これも余談だが「日本の創作はポリコレに配慮すべきかどうか」という話でいくと、僕個人の意見としては多少の配慮は必要であると考えている。

というのも日本の創作における世界観は「現実社会とは平行線上にあり、現実のそれとは交差しない」という立場を取る一方で、創作の世界観の説明の過程で「現実のステレオタイプ」を利用して読み手に没入を誘う表現を利用しているからだ。

しっくり合う具体的な例が思いつかなかったのと、悪い例として創作物を引用するのは良くないので例無しで説明するのでわかりにくいかもしれないが、現実にある偏見を利用してミスリードを誘う手法はたまに見る。

おそらく作り手も感覚で作っているからその構造に気づいていないことが多い。

つまり、ここで読者はこいつを疑うだろうというのを作中で説明された要素ではなく現実に存在する偏見を利用して設計するケースだ。これは登場人物が直接差別を行ったわけでもないし、作り手も「そんなことは意識していないですよ、だってその後の展開は全然違いますからね」と批判をかわすことができる。

あらかじめ用意した世界観や設定に基づいて読者にミスリードさせる作品はプロットの評価も高くなるが、そのあたりの事前準備をしていなかったか、あるいはその布石を置くのにページを割けない限定された環境下での創作活動にこの手の偏見を利用したミスリードは描写されやすい。

ゼルダの伝説もチンクルというキャラクターが「35歳独身」と自己紹介をすることでそのキャラクターが変な人間であることを説明するとともにプレイヤーの笑いを誘う。

しかしこの変な人間であるというプレイヤーの理解と笑いは、現実から輸入されたステレオタイプを利用している("35歳の無職はやばい"という文化的背景はゼルダの伝説作中では説明されないからだ)

したがってこのキャラクターが世界観に合わないという声※もある

※アメリカのゲームメディアIGNcubeによる「しねしねチンクル」運動

 

ナラティブが「現実社会とは平行線上にあり、現実のそれとは交差しない」というスタンスを取るためには(元々取る気がないのかもしれないが)、作り手側も現実に存在する価値観を利用した作品作りは避けるべきだと思う。

 

外国人のナラティブとマルチバース

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アメリカンコミックス(以下、アメコミ)では『ファンタスティック・フォー』にてニック・フューリーという隻眼の白人男性が登場しますが、『アルティメッツ』(後にアベンジャーズとして映画化される)では同名のキャラクターが黒人として登場する。

スパイダーマンでは主人公であるピーター・パーカーが変なクモに噛まれて糸を出す能力を得たという設定であるが、スピンオフシリーズでは本家に登場する別のキャラクター(グウェン)がクモに噛まれてスパイダーマンになるというパラレルな設定で物語が展開する。

このように過去の展開が設定と矛盾するが過去の作品を切り捨てると、僕みたいな原作厨的な存在が暴れるので、それぞれの異なる設定はそれぞれの世界観で生きているという体を取ります。それがマルチバース(Multiverse)と呼称されます。

 

おそらく世界観や登場人物の個を優先する日本のオタクに同じことをやっても「解釈違い」「公式が勝手に言ってるだけ」と一蹴されてしまうだろう。

なので設定を流用したオリジナルプロットを日本で売ろうとすると、元々いるキャラクターの名前は使いづらく、オリジナルキャラクターを1から作りなおすことになり、結果的にファンを獲得できないという悪循環に陥る(キャラクターを育てることを放棄して、俳優のバリューに頼る制作側にも問題はあるが)

 

したがって、海外のナラティブの文脈では登場人物や設定というのは入れ替え可能なクラス構造を持っていて、ヒーローという概念もそのものもそれを象徴する。

つまりヒーローというクラスが存在していて、それを誰が継承していてもそのヒーローの物語は成立すると。

これが「誰もがヒーローになれる」という文脈を持っており、現実世界の延長線上にあるアメリカンナラティブではダイバーシティの問題を解決するわけです。

 

その価値観が今回話題になった記事では争点となっていて、ゼルダの持つ知恵のトライフォースの力(この文脈で言えば魔法を使う権利を持つクラス)が入れ替え可能な構造を持っておらず、知恵のトライフォースに由来する魔法を扱うことができるのはハイリア人(彼らは白人モデルだと思っている)のみであることが差別的に映ったのかもしれない。

Zelda generally having supernatural abilities is also important. Black women would see power and magic as theirs to play with when a Black Zelda is shooting light arrows or smoking the competition in Super Smash Bros. With that, Princess Zelda being Black would mean the possibility of her being Black in spinoffs, cameos, mangas, fanart, and more.

 

一般的に超能力を持っているゼルダも重要です。スマブラで光の弓や、※フロルの風?浮身?を使う黒人ゼルダを操作することで、力と魔法を自分たちのものと見なす(没入する?)ことが出来ます

Diversity in Zelda: The Need for a Black Princess Zelda - Zelda Dungeon

(※英語とゼルダエアプだからsmoking the competitionをどう訳していいのかわからない)

 

日本人の「キャラクターに感情移入させていただく」というスタンスと違い、アメコミを始めとした海外のナラティブは「キャラクターと同じクラスを継承したあなた」という感情移入の構図になっている(もちろん全部がそうというわけではない。)

 

面白いのがシャーロック・ホームズでは、シャーロキアンという当作ファンは日本オタクと非常に近い価値観を持っていて、主人公のシャーロックや助手のワトスンの個が尊重されていないと暴れ散らかす厄介なオタクなわけですが、シャーロック・バースと呼ばれる程パラレルワールドが熟成されているわけでもなく、ホームズの名を関する作品はいっぱい出てきています。中にはホームズがアジア人の女性というケースもあるが、いくらホームズクラスとして中身を入れ替えたとしても、ホームズには男尊女卑思想があるわけです。

つまり、ポリコレに配慮してホームズに出てくる登場人物の中身を色々入れ替えたとしても、ホームズの男尊女卑思想は継承しなければならないという問題を抱えています。

「女性を尊重するホームズは著作権侵害」としてコナンドイル財団がNetflixを訴える

ポリコレはそれでいいのか・・・と本末転倒な感じはしますが、差別するという多様性やキャラクターの人格が尊重されることも次世代のポリコレ的価値観になるような気もします。

 

日本人のナラティブ観

アメリカのコンテンツが、マルチバースを駆使して「あなたと同じ性別、人種ですよ」という没入を狙うのに対して、日本のコンテンツは徹底的に「あなたではない」というアプローチから没入を狙います。

もっというと主人公に没入させながら、主人公の個を奪うことで自然に世界観に溶け込ませます(これを自然と感じない人もいるが)

日本の創作の主人公は基本的に人種が定義されないか、架空の人種を定義されます。(その過程で、白人至上主義的な美的センスが現実から輸入されてしまうこともある)

 

かっこいいとかかわいいを突き詰めると没個性なんですよね、究極的に何も描かないことがその神性を生み出すと言うか。

つまり「すべての顔の平均」が優れた容姿になるわけで、それを表現するとデフォルメが正義になってしまうと。

ミュロンの円盤投げより後の時代にはにわ作ってたし、西洋がピクチャレスクとか言ってた時代に浮世絵描いてたしで昔から日本にはデフォルメの文化があるわけですが、

その身体的特徴をデフォルメ(というより特徴を無くす作業に近い)した結果、キャラクターに見た目の特徴がなくなってしまったために、奇抜な髪型(色)や奇抜な服装でしか個性を定義できないという本末転倒な結果にはなっています。。。

 

そして主人公は決断を行わず、周りが持ち込んできたトラブルに巻き込まれるという形で物語は展開します。(最近はまたメタが回って、主人公が積極的に物語をかき回すものも増えてきたかな?)

読者が気持ちよく感情移入するために、主人公は責任を負わない立場にあるか、万人が仕方ない思える構造の中で暴力を行使します。

アメリカのコンテンツのような、主人公側が正しいという現実の延長線上にある正義からなる暴力とは構造が異なります。

 

思想や外見的特徴を徹底的に排除することで(善悪の評価軸すらも)「何者でもない」という性質から没入を狙います。

 

また、日本のコンテンツの別のアプローチとして、全く架空の世界観や人物の出来事で「あなたは遠くからそれを眺めているだけ」という構造を取る物語も多い。

そのシナリオで設定されている架空の社会問題などはおおよそ日本の現実の延長線上とは言い難い、歴史的には過去のものであったり地理的に遠くの国の社会問題をモデルにしているものがある。

その性質のためか、第4の壁に触れるメタ表現が用いられることも、この手の没入を狙う作品には多くみられる。

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 (人が食べられるのを楽しむグロスへの「何でこんなことするんだ?」という問いの相手は)読者だったり、アニメの視聴者でもあると思うんです。ここでグロスがカメラ目線で答えるのは、読者と目を合わせて「あなたのことだよ」と言っているように見せたかったんです。

1冊でわかる! 進撃の巨人 ストーリーガイド (KCデラックス)

進撃の巨人ではグロス総長が「なんでこんな(ひどい)ことをするんだ?」という問いに対して「人が化け物に喰われるのが面白いんだよ」と読者のヘイトを想定した悪役として描かれる。しかしこのようにキャラクターの説明をする反面、その首の向きはカメラ目線となっていて「人は残酷なのが見たいんだよ」と読者への風刺という二重構造になっている。

 

このように読者に対して「あなたが登場人物の誰かに移入するのは勝手だが、あなたは所詮この物語の傍観者に過ぎませんよ」という構造をとる。

それにより日本式の学校という現実の延長線上にある舞台装置で、生徒が殺し合うといった過激な展開も違和感なく受け入れられている。

もちろん海外でもそのような作品がないわけではないが、大人向けにゾーニングされていたりすることが多く、子供(ティーンエイジャー)が見るエンタメ作品としてそのような展開を含むものが受け入れられることは少ない。というか僕は知らない。

(まぁ、深夜アニメが日本でもティーンエイジャー向けかと言われれば難しいが。一応ゾーニングしているというスタンスを取れなくもないので)

 

ゼルダ史とマルチバース

そこでゼルダの話に戻るが(こいつゼルダの話全然しねぇな)

ゼルダの伝説も上記の宮本茂氏の発言のように、アクションゲームやアドベンチャーゲームとしてのインタラクティブ体験が最優先事項として設計されていて、シナリオは二の次であることがわかる。

シナリオの矛盾を解決する手段として、ゼルダの伝説にもいくつかのパラレルワールドが分岐している。

それを決定づけたのが『ゼルダの伝説 時のオカリナ』である。

時のオカリナでは子どもリンクがマスターソードを手にし、時の勇者として7年の時を越える。そして7年後の世界でリンクはガノンドロフと死闘を繰り広げる(ラストバトル)

末にリンクはガノンドロフに勝利し、7年前に戻るのだが

①リンクがガノンドロフに敗北した世界線

②ガノンドロフに勝利し、時の勇者が去った7年後の世界

③ガノンドロフに勝利し、時の勇者が戻ってきた7年前の世界

に分岐する

①には『神々のトライフォース』『夢を見る島』『初代ゼルダ』

②には『風のタクト』『夢幻の砂時計』『大地の汽笛』

③には『ムジュラの仮面』『トワイライトプリンセス』『4つの剣+』

などがそれぞれ時系列順に該当する。

 

この設定はマルチバースの概念とほぼ同じであり、宮本氏は上記のように「この設定すらも変えるかもしれない」と述べており、沢山の"改変の余地"を残している。

 

今回の「ゼルダを黒人にすべき」問題は、ここに帰結する。

マルチバースの基本理念として、ダイバーシティのために様々な人種(及び性別などの身体的、文化的特徴ほ含む)が感情移入できるように、キャラクターとあなた(の性質)に共通点という没入の入り口をつくる。

その観点(あくまでも理念の一側面にすぎないことに留意)からパラレルワールドという方便を使って没入するためのキャラクターの身体的特徴に多様性を持たせている。

 

このマルチバースの観点から、ゼルダシリーズ(ゼルダ・バース)もこのような入り口でキャラクターに多様性を持たせるべきだ。

というのが今回話題となった記事の本質だと思われる。

This series is in a unique position to change the race of its most prominent characters without requiring much of an explanation at all. Though, I don’t think it would shy away from making the Princess’ race a part of the narrative, either. Her gender has been at issue in the past with her brother thinking himself entitled to the power of the Triforce in Zelda II and her having to disguise herself as a male Sheikah in Ocarina of Time. So, I wouldn’t put it past Nintendo to deal delicately with the subject of race if part of the royal family of Hyrule was Black.


このシリーズは、主要な登場人物の種族をほとんど説明なしに変えられるという稀有な立ち位置にある。("にも関わらずダイバーシティに積極的ではない"と暗に言いたいのかな?)
とはいえ、プリンセスの種族(人種)を物語で言及することをを敬遠しているわけではないと思います。
彼女の性別は過去にも言及されたことがあり、リンクの冒険(2作目)では兄がトライフォースの力を自分に与えられたと思っていたり、時のオカリナでは男性のシーカー族に変装(シーク)していたりした。

だから、もしハイラルの王家の一部が黒人だった場合、任天堂が人種の問題に触れるのは当然だと思う。

Diversity in Zelda: The Need for a Black Princess Zelda - Zelda Dungeon

余談だが、僕はこれを読んで「おいおいテトラは無視かよ」と

トゥーンリンクシリーズである『風のタクト』『夢幻の砂時計』に登場

ネタバレになるが作中で正体はゼルダであることが明かされる。(僕も風タクより先に夢幻の砂時計やって開始5秒位でゲームにネタバレされたから許せ)

人種は意図されていないが、肌が黒く、有色人種と言ってもいいのではないだろうか。

 

話を戻して、今回の件については

ゼルダを黒人にすべきと提案した記者(以下、ポリコレ勢力)とそれを話題にした人(以下、日本のオタク)とで以下の問題がある。

・ポリコレ勢力は日本コンテンツの製作者の意図や感情移入のナラティブアプローチを理解していない。

・日本のオタクは海外コンテンツのマルチバースや感情移入のナラティブアプローチを理解していない。

これら2つの認識の齟齬が今回の騒動を生み出していると言っていいだろう。

 

ゼルダは黒人にすべきか

これらの前提情報を踏まえた上でやっと本題に入るわけですが、

そもそもの話、憎きアフィカスがこの記事を書いた人間を「米UCLAロースクールを卒業した海外サイトZelda Dungeonのアレクシス・S・アンダーソン記者」ってブランディングしたせいで何となく権威のあるマスメディアに見えてますけど(この記事を書いた人間がすごい立場であるように見せたほうがアクセス数が伸びるからね)

そもそもZelda Dungeon(ゼルダダンジョン)というサイト自体がゲームの攻略情報とかファンコミュニティの場を設けてるいちファンサイトに過ぎないんですよ。

 

まぁポケモンで言うところのポケ徹(ポケモン徹底攻略)みたいなもの

ポケ徹は個人で運営してるから収益化については黙認されていますが

 

ゼルダダンジョンは見た感じ法人化してるっぽい?(ソースなし)

ゲームの著作物を引用の範囲を超えてサイトのメニューに著作物を二次創作したアイコンをつけたり、二次創作グッズを販売したり、それを営利団体として経営してるのはどうかと思うし、その立場でありながらゲームデザインに意見するってのはアメリカ人らしい規範意識の低さだなと思いつつ(←これは差別的偏見なのでなくしましょう)

アメリカは訴訟大国である反面、訴訟されなければ(訴訟されない範囲で)何やってもいいみたいな価値観があるよね(リバタリアンの僕としてもシンパシーを感じる部分はあるが)

 

とはいえ、僕も宮本茂さんのファンで彼の英語メディアで発信されたインタビュー記事とかがまとめてあるのが便利なのでサイトを利用していたりします(この記事にもゼルダダンジョンからの宮本氏の引用箇所があるし)

 

ともかく、言ってしまえばこれはファンサイトを隠れ蓑に著作権を無視してやりたい放題やってる連中の戯言に過ぎんわけですよ。それがゲーム制作に影響を与えるようであれば、任天堂が著作権侵害を訴えて終わりなわけで。

「非公式が勝手に言ってるだけ」なんでガチで勝手に言ってるだけなんですよね。

その認識を皆が持っていれば無視するので、アフィカスとしては権威あるポリコレヤクザがゼルダにケチを付け始めた!という煽りをしたいわけです。

 

だからこの作られたトピックに乗っかるのが嫌だったので、この記事を書くのにクールタイムを設けた次第です。

 

というところで本題に戻ると、要はこのゲームを開発した宮本氏はゲームデザインとしてゼルダの持つアドベンチャー的な側面を重視していて、そのためにシナリオは多少グダグダでも構わないという性質を持っていて。

が、故にその世界観やキャラクターにまつわるお決まりごとは「何者でもない」ことや「可変的である」状態になければならないわけです。

それは、過去作をプレイしていなくても最新作を楽しめる構造や、アドベンチャーとしてのインタラクティブを重視することにも繋がります。(この2つは様々なインタビューで宮本氏が発言している)

つまり、過去作を通して得られる情報を「知っていること」で冒険心(ワクワクする謎)が阻害されるのであれば、過去作の情報が一新されるなどで、最新作を初めてプレイするプレイヤーは「何も知らない」状態にリセットされないと行けないわけです。

 

謎を追う、好奇心のままにマップを進むというアドベンチャーとしての側面を重視するために、様々な設定が「何者でもない」「どこからもリンクしない」目新しいものである必要があるわけです。

 

なので、アドベンチャーという文脈でのインタラクティブに必要であったり、効果的であるならばゼルダが黒色人種という設定はゼルダ・バースを用いて表現可能であるし、それは挑戦すべきテーマであるかもしれないが

海外から見たゼルダ史が現実の社会問題の延長線上にあり、ゼルダが黒色人種になることによって政治的な、あるいは文化的なニュアンスを含むものであれば、それは「謎を追う」というアドベンチャー的側面としてはノイズにしかならないので採用すべきではないと僕は考えている。

 

プレイヤーのアドベンチャー体験を阻害しないために、前作からシナリオを追わなくていいという構造や起こる出来事のナラティブ的文脈を考えなくていい構造になっているのに、そこに現実の社会問題が遠投されれば、ゲームデザインのコンセプトに泥を塗る事になるだろう。

 

この手のポリコレ勢力に共通するのは、彼らは実社会の人種の多様性は尊重するが、表現の多様性は尊重しないということだ。

 

誰しもがあなたと同じようにヒーロークラスをデザインし、それを継承することであなた自身がヒーローになる(ミミクリー)という遊びを見出しているわけではなく、全く別の現実の延長線上にない平行線上の世界観のキャラクターをただ眺めているだけたったり、とある役職になりきって架空の世界で異なる評価軸の実力を示している(アゴン)かもしれないし、それらのナラティブはただのスパイス程度にとどまり、ゲームデザインはもっと別の遊びを提供しているかもしれない。

ポリコレはこれらの遊びについてもっと勉強し、遊びの多様性を尊重すべきである。

 

おわりに

この記事はここで終わりです。

あとがきなんかありません。

 

ブラウザバックしてください

それかコメント欄か別の記事もごらんください・・・

 

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正直リンクのほうが抜けるよね

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昔は誰も見てなかったのでこういう内容メインで記事が書けたのですが、いろんな人が見に来るようになったのでこういうことを書くと怒られるようになりました。
なので、こっそり書くことにします。

ちなみに「ブラウザバックしてください」とあとがきで警告してゾーニングもしてるので、この章へのポリコレからの批判は受け付けません。

 

僕ホモじゃないけどリンクのほうが抜けるよね。

僕ホモじゃないけど、ゼルダに●的魅力のあるシリーズってトワプリとスカウォの2つだけだよね?

僕ホモじゃないけど神トラ派はレベルが低い、せっかく性癖のるつぼ的な側面があるゼルダシリーズでまだそこ?って感じ

 

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僕ホモじゃないけどこれは僕一人が勝手に言ってるだけじゃないからね

rule34という海外のエロ画像サイトだと、ゼルダの画像よりリンクのほうが多い。

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Sankaku Complexでもリンクのほうが多い。

これは人類の総意なんだよ。

僕がホモなら人類がホモということになるよね。

 

そもそもの話よ。

コアプレイヤーほどゼルダに女性的役割を求めてねンだわ。

コアプレイヤーほどリンクのケツ見てるし、マスターソードをリンクしたがってるのよ。

彼らが発情してたのはゾーラ族とかミドナとか大妖精であって、ゼルダではない。

だからこそBotWで芋っぽくされても誰も文句言わなかったでしょ?

そういうこと。

 

ゲルドリンクとかゾーラ族をスケベに描いてくれたからコアプレイヤーは文句ないわけ

ちなみに俺はトワプリのゾーラ族でもいけるし、ミドナも真だからな、あんま調子のんなよ。

 

ゼルダなぞ隠れ蓑に過ぎんわけよ。

ポリコレ棒でいくらボコボコにされてもコアプレイヤーはそれを問題にしないんだよね。(ぶっちゃけ騒いでるのはエアプ)

何なら次回作で顔の右半分を黒人にして左半分を白人にしてもいいよ。

 

ポリコレ見て思うのは「まだそこ?」って感じ

ゼルダ発情ガチ勢はすでに「架空の種族」で「性別問わず」なんだよね。

そもそも人ですらない、人の形をしてるだけの知的生命体(体系なんかは再現すらされてない)で致す。

それは性的嗜好という観点から見てもアドベンチャーだし、ゲームデザインはイリンクスを提供してるわけ。

ポリコレは頭のいいフリしてるけど「人種」と「性別」に感情が囚われていて、コアプレイヤーはすでにその枠組を超えてマスターソードを抜いてる。

時代を先取りしてる時の勇者に勝てんのよ。

 

規制よりも早く性癖を拡張し続ける・・・

これが臭気のトライフォース

 

 

 

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