まぁ論ずるまでもなく皆さんの結論としてあるのではないのでしょうか。
最近社会学の本を読んでて、このテーマを理路整然と言語化できそうなので置いておきます。
どうせこのテーマは何かしらの不祥事によって定期的に議題に上がるし
ヨーロッパやアメリカはDVとか虐待が比較的(この場合はアジア圏と比較して)多いくせに、体罰の是非に関しては議論の余地なくNGに決まってるでしょうと会話すら成り立たない事が多い。
一方で、アジア人の中では暗黙的に体罰を是と捉えている人が多い(日本だけでなく、その傾向は中国や東南アジア等でもみられる)
私からすれば、体罰とは大義という服を来た癇癪の発露にすぎず、いかなる理由でその行為を正当化するのかという問に対しての、合理的な主張を見たことがない。
この議論において反対の勢力による主張が著しく合理性が欠けているということを、反証的に示していく。
体罰の定義
まずは体罰がどこまでの範囲の何を指すのかを共通認識として持っておかないと話にならない。
体罰とは端的に言えば、「暴力を行使した処罰、懲罰」を指す。
つまり、生徒が犯した犯罪からコミュニティルールの違約(基本的には校則違反と考えてもらって良い)、管理者の命令無視等に対して暴力的な罰をもって問題を解決、及びそれが再度起きないように指導することである。
具体的な例で言えば、教師の言うことに従わない生徒に対し「一定の期間、廊下に立たせる。」これは体罰に当たる。
これは直接的な暴力(殴る蹴る等)を介してではないので疑問に思う者もいるかもしれないが、身体的自由を奪うことで身体的苦痛を与えることをペナルティとしてその問題を解決しているから、「管理者を無視したという問題を身体的苦痛を与えることにより不問とする」という懲罰の構造になっているためである。
これは法律を違反した者が刑期を終えることで今後同じ罪で国から何かを問われることがないのと同じである。
しかし、教師の指示に従わない生徒に対し「教育を受ける権利を放棄している」とみなし、教室から追い出す。これは体罰に当たらない。
なぜなら「教育を受けること」及び「他人の持つ教育を受ける権利を妨害しない」ことを約束して教室に籍を置いているわけだから、その義務を放棄したとき、管理者にはその者を追い出す正当な権利を持つからである。
そしてそれは法律上でも認められている。
管理者の指示に従わず、その土地にとどまる者は不法侵入者と捉えることができるからだ(厳密には退去命令を無視して立ち退かなかった場合という条件がつくが)
その追放の際、身体的拘束をともなう、すなわち腕を掴んだり、体を持ち上げるという行為を通じてそれを遂行するのは私個人的には認められると考えている(アジア的価値観なのかもしれないが)
もちろん相手が自発的に退去に応じない姿勢を確認してからというのが原則だが
そして生徒側の身体的な抵抗を、殴る蹴る等の暴力で無力化するのはもちろん論外である。それは体罰ではなくただの暴行である。
したがって、生徒の違約行為に対して身体的懲罰を与え、その処罰を持ってかたをつけることを体罰と定義する。その依拠は名前に罰を冠するからである。
罪に対する罰を暴力でおこない、問題を解決する。
この一連の流れを記事では体罰とする。
教育とは
体罰を論ずる上で、ひいては主に体罰肯定論の中で「教育上の行為」と正当化されることが多いため、つぎに教育の目指すゴールを定義しなければならない。
つまり体罰を行使した結果、何かを達成する。その手段としての体罰が、その目的を達成する上で最も効果的であることを体罰肯定論者は示さなければならない。
つまり体罰肯定論者が体罰に正当性があると主張するために、示さなければならないことは2つある。
1つは、体罰がある教育上の目的を達成する上で最も効果的である論拠である。
「最も効果的でなければならない」としたのは、背理法で示すことができる。
例えば「他にもっと効果的な教育手段があるにもかかわらず、てっとりばやいから、効率的だから、経済的だから、等の理由で暴力を用いても良い」とした場合、警察は市民に対して自由気ままに発砲することができることになる。
なぜなら事情聴取に応じない市民に対して、市民の合意を取れるように説得するよりも、足の1つや2つ撃ち抜いたほうが効率よく取り調べが行えるからだ。
あるいは医者も、患者に手術の同意を求めたり、患者に症状や治療方法の説明をし、治療手段や手順を患者主権的に選ばせる必要もなくなる。なぜなら診察室に麻酔ガスを充満させて、体を切り開いたほうが経済的で手っ取り早く治療が行えるからである。それによって二次的に体に障害が残ったとしても問題にはならない。
なぜなら体罰という傷つけるためだけを目的とした暴力行為よりは確実に加害性の低い対処法だからだ。
つまり、まともな民主主義国家はいかなるケースにおいても、他に効果的な手段がある場合に暴力を正当化することはない。(とされている)
逆に、最も効果的であることが自明ならば、暴力による対処は正当化される。
つまり、殺人犯人(未遂においても)が今この瞬間、他者に対して生命を脅かす行為を為そうとするとき、具体的には所持している銃を発砲して抵抗の意思を示していたり、刃物で通行人を攻撃しようとしているときなどに、警察は発砲の許可を得たり裁判を行うことなくその容疑者を現場判断で殺傷することができる。
これは「他者、及び自分に危害が加わることを防ぐ」という目的を達成するために、最も効果的で他に手段がないと認められ正当性が証明される場合、その判断自体が罪に問われることもない。
つまり、教育上の目的を達成する上で、最も効果的であることを体罰に見いだすことができるのならば、それは正当化されうるということだ。
そして二つめは、その教育上の目的そのものに正当性があるといえる論拠である。
「立派なプロの殺し屋にする」ことを教育上の目的としてキルア・ゾルディックのような人間を育てる上では、たしかに暴力は最も効果的な教育手段であるかもしれない。
しかし、それが公教育としての方針として正しいのかと言われれば当たり前だが論外である。
したがって体罰が正当化されるためには
・教育上の目的を達成する上で、最も効果的であること。
・そもそもその掲げる教育上の目的そのものが間違っていないこと。
この二つの条件を満たすを示す必要がある。
教育上の目的を満たす上では最も効果的だが、そもそも教育上の目的が間違っている場合。また、掲げる教育上の目的は間違ってないが、体罰がその手段として最も効果的でない場合など
どちらかの条件を1つでも満たしていなければ、公教育で体罰が正当化されることはありえない。前者は二つ目の項目の序盤に述べた通りであり、後者は一つ目の項目で述べたとおりである。
ここでようやく本項のテーマになるのだが、
では正当性のある、公教育が達成すべき目標とはなんだろうか。
それは生徒をどう育てることを最重要項目として置くべきかと言い換えてもいい。
ただちに考え及ぶ要素として「教養を身につけること」「社会性を身につけること」があるかもしれない。しかし、それは教育の最も優先して達成されるべき事項ではない。
それは民主主義国家の基本理念や法の傾向からうかがい知ることができる。
人民は生まれたときから社会的存在として振る舞うことを要求されるわけではない、すなわちそれは未成年として、あらゆる責任が免除されることが各国の法を見ても明らかである。
未成年のとる法律行為、経済的意思決定、その他あらゆる行動や選択が社会的制裁を受けることはない、日本では少年法があり、たとえ他者の命を奪うという行動ですら「まともな判断能力を持たないので」という理由で社会的な制裁を受けることはない。
道徳感情から「それはいかがなものか」と批判する者は多いが「未成年は判断能力を持たない、したがって社会的責任を問うこともできない」という法解釈の筋は通っている。
未成年者との性的合意が認められていないのも同じ原理である、判断能力を持たない(とされている)ので法律上はいかなる理由においても強姦と同じであるという論理である。
未成年者との経済的な契約はすべて後から無効化できるのもそのためである。判断能力を有して経済的選択を行ったわけではないので契約に置いて賃金を払う法的拘束が発生しない。
しかし判断能力を持たない代わりに、未成年者は教育を受ける権利を国に保証され、さらに保護者には教育を受けさせる義務が生じる。
そして成人を経て、人はまともな判断能力を有する。と法的に保証されあらゆる社会的責任を負う。
いつから成人と定めるか、そして判断能力の有無をどの範囲まで適応するかに誤差はあるものの、まともな民主主義国家ではこのような原則のもと法整備がなされる。
・未成年者は判断能力を持たないとみなす。
・未成年者は教育を受ける権利を有し、保護者はそれを受けさせなければならない。
・成年者は判断能力を持つとみなす。
法が定めるこの三点の原則から、教育が目指すべき最重要課題は「判断力を育み鍛えること」であることは明らかだ。
直感的に教育上重要なもので考え至る「教養を身につけること」「社会性を身につけること」などがここに入ってこない論拠としては、それも法の原則によって説明できる。
例えば、成人であることが「成人たりうる教養を持ちうる」ということはいかなる国の憲法にも保証されないし、教養がないままでも成人になることはできる。(でなければ無教養な人間がこれほどあふれかえることもないだろう)
また、後者も同様にして成人がそれに足る社会性を身につけるなどということを、法が言及することはないし、社会性を身につけなくとも法的には成人する。
同様に、判断能力がなくても成人になることは可能であるが、それでも法律上は「判断能力がある」とみなされるのである。
その原則を補う形で、教育を受けさせる絶対性もセットで定めているのである。
つまり民主主義国家の原理原則として、教育の本質が「判断能力を育み鍛えること」であることは疑いようもない事実であると言える。
更に別の視点から「教養がある」ということが最重要課題ではない理由として、その教養の正しさは誰も決められないからである。
教育者がすべてを導く神でおおせられるのであればこの主張は破綻するが、この社会には様々な答えのない問題があり、真理とされるパラダイムですら、未来に置いてその完全性を保証するものではないからである。
したがって、知識を多く持つことがロールモデルとして最善たり得ず、むしろ真理の正誤をどう修正していくかという課題に置いて、やはり「判断能力を鍛えること」の重要性を反証する結果にしかならないということである。
また「社会性を身につけること」も同様に、社会が誤った方向に進んでいるときに、それに準ずる能力に秀でた人間しかいない国家が滅亡してきたのは歴史的にも明らかである。
日本は勝ち取った民主主義ではなく与えた民主主義国家であるから馴染み薄いが、他の民主主義国家は常に現政権を打倒する権利を有し、間違った社会を変えることも正義とされる(革命権の行使)
他の民主主義国家って書いたけど、エアプだからアメリカ、イギリス、フランスしか知らない。もしかしたら法ではなくて人権宣言とか独立宣言の条文に書いてたような気もする。あんまり鵜呑みにしないほうがいいかも・・・
やはりこの例でも、間違った社会をどう決めるか、正しい社会をどう模索していくかというところで「判断能力を鍛えること」の重要性を裏付けるにすぎない。
したがって教育の達成すべき最重要課題は、法で定めた「成人は判断能力を有する」という原則に基づいて、未成年者の判断能力を育み鍛えることであり、体罰がそれを達成する上でもっとも効果的とする論拠を求めなければならない。
また、私の主張に誤りがあり「判断能力を育み鍛える」ことが教育の最重要課題でない場合は、別の公教育の方針の正当性を示し、そして同様に体罰がそれを達成する上でもっとも効果的とする論拠を求めなければならない。
というのが体罰肯定論者がクリアしなければならない課題である。
しかし、私はこれらを満たし正当性が認められる主張を言論空間、それによる討論、いかなる媒体による知的営為においても見たことがない。
したがって問題を定義した段階ですでにおおよその読者は体罰に正当性が見いだせないこと、あるいはそれが極めて絶望的な状況であることを自認したことと思う。
なのでここで終わってもいいのだが、次の項からは具体的になぜ癇癪の発露にすぎない体罰の正当化が発生するのかというところも含めて考察を深めていきたい。
体罰の社会性と社会的責任
医者は法によって暴力が正当化されている。
刃物で人を切る行為は本来傷害罪であり、殺人未遂である。
しかし医者は
・国家医師免許を所有している
・その目的は治療行為に限られる
・患者の同意を得ている
この3つを満たす場合にのみ、他人の皮膚を切る、焼くなどといった傷害が法に問われることがない。
逆に言えば、いずれかが満たされなければただの暴力を犯す犯罪者であるということだ。
つまり、医者が学問の発展のため(社会的意義のある行為として)被験者の体を解剖したい、そして被験者はその活動を指示し解剖に同意している。としても、それは治療を目的としていないため、法的に裁かれる。
なので"""まともな民主主義国家"""では、治療の過程で得た知見や、遺体をいじくり倒すことでしか社会的な正当性を持って医学の発展に貢献することができない。
また医療行為においても、例えば妊婦のお腹の中の胎児を観察する際に超音波検査を用いるのだが、CT検査は放射性被爆があるため胎児を観察するのには用いられない。
しかしMRI検査は核磁気共鳴を利用するので検体に放射性被爆がなく造影を可能にするため、超音波検査より効果的である。(実際胎児に以上がある場合はMRI検査を用いて診察する)
MRI検査には理論的そして歴史的にも安全性が担保されているが、その全体像を把握していない、つまり未知のリスクの可能性をケアするという理由で、胎児の観察では通常MRI検査ではなく超音波検査が用いられる。(もっとも慣習的にそうしているというのも要因としてあるだろうが)
それは法でそう定められているわけではなく、自らの職務とその社会的責任を果たすために自主的に行っているのである。(予防原則)
しかし体罰を肯定する教育者は、それと同じ粒度で教育手段を模索しているだろうか。
まず、
同じ条件で体罰が肯定されるためには、体罰を行う教育者は以上の社会的責任を負う。
A. 体罰ライセンス(仮)を所有している
B. 体罰は教育上の目的に限られる
C. 生徒の同意を得ている
まともな民主主義国家のいかなる国においても、現行犯を取り押さえるといった緊急性のある状況(緊急避難なども緊急性のある状況として包括する)下を除いては暴行罪に対する社会的制裁を回避することはできない。
したがって体罰を正当化するためには、暴行を認める条文を立法し、暴行を免除する免許を発行しなければならない。すなわちA.が必要なのである。
またB. において、医療行為と同じように社会的大義があるということを体罰に認めるためには、前項で述べたような「もっとも効果的な教育手段」であることを証明したうえで、実際に適切に運用されなければならない。
つまり、体罰を教育で使用する上では
「教師が癇癪を起こしたから」
「体罰キモチェ~」
「他に効果的な教育方法があったにもかかわらず、時間的な効率を優先するため、対話による手間を省くためという理由で体罰を用いる」
ということがあってはならないし、そうでないことをその都度、証明しなければならない。
それは医者がなんとなく人を切りたくなったからと言う理由で患者を勝手に睡眠薬で眠らせ、こっそり切開して眼が覚める前に縫合することに正当性がないのと同じことである。
C.においても同様で、教育者が生徒に体罰を行うたびに体罰の教育上の正当性を説明し、合意を取らなければならない。
当然、未成年者には合意能力がないので、それは親権者に対してである。
したがって教育者は体罰を行う際、親権者に対して体罰による教育上の効用を説明し納得して合意を得た上で、その子供をパンチしなければならない。
でなければ、合意能力のない未成年者に暴力を振るうただの犯罪者であるからだ。
これは「うんって言ってサインをもらったから」と幼児と性行為をしても、それが性的合意として社会に認められず処罰を受けるのと同じことである。
以上を踏まえた上で、教育者は暴力による二次被害、つまり体罰によって生徒は判断能力を育むには至ったが、それによって身体的な傷害が残った(ビンタで鼓膜が破れたことにより難聴になったなど)り、判断能力は育まれたが精神的に健全に育成されなかったことなどのリスクについても考えなければならない。
まぁ、でも体罰ってありだよね。
すなわち、健全な生育を歪められるリスクとそれに見合うだけの判断能力の獲得が、他の教育方法で獲得できる判断能力の振れ幅を補ってあまりあるのか、そしてそもそも身体的な不自由を抱えてまで判断能力を身につけることに価値があるのかを考慮し、体罰を行わない社会的責任を果たしていく必要がある。
つまり、体罰を肯定するためには、体罰のリスクを正しく評価し、制限する判断能力をも有するということである。
これは日本で医療用麻薬の合法化を求める医者が、薬物が不正に乱用されないように社会的義務を果たす責任を負うのと同じことである。
しかし、これらの適切な運用で体罰を正当な教育手段として活用することを体系化しようとする動きは体罰肯定論者からすら起きない。
なぜ体罰肯定論者は国の適切な管理のもとで体罰を運用しようという考えに至ることがないのだろうか?
確かに暴力は甘美で艶めかしく、すばらしいものではあるが、美味しいものを食べすぎてはいけないように、その量を調整することは理性的な振る舞いとして必要なのではないか?
体罰の正当性
体罰が「判断能力を下げる」ことは自明である。
なぜなら議論によって物事の真理を追求する知的営為が妨害されることの機会損失が存在することを論理的に求められることが一点と、もう一点は体罰によって考えを改めた生徒は「正しい判断能力を獲得した結果、考えを更新した」のではなく「暴力に萎縮して考えに従った」にすぎないという結論に帰結する。
確かに暴力は素晴らしい文化的行為であり、生意気なクソガキを"分からせる"快感は何物にもまさるとはいえ、そこに判断能力の獲得などという大義を求めるのは度を越した驕りである。
暴力によって判断能力を獲得する例は強盗に頭を殴られたために脳を損傷し数学者としての才能覚醒させたジェイソン・パジェットのような稀な話であって、大抵の人間が殴られても知能指数が下がるだけであって、得られるものは殴られた記憶と不条理に対する憎しみくらいである。
判断能力とは結果と検証の経験量、及びその知識量によって補強され鍛えられていくため、拳がそれらを補って余りある教育足り得るとは考えにくい。
仮に脳を損傷させることで天才を生み出すという行為に意義を見いだす、すなわち、体罰にによって生じる教育上の結果価値がそれによって生じる損害よりも遥かに効果が認められ、そしてそれが他のいかなる教育手段よりも期待値が高いとき。
具体的には、凡庸な教育手段でそこそこの判断能力を持つ人間を1000人育てるより、999人の判断能力を著しく破壊してでも1000分の1の超人的な判断能力を育てるほうが数値上の合理性が認められたとき、体罰の効用は認められるのかもしれない。
そこそこの知能を持った人間を大量生産するより、一部の天才が愚民を使役するほうがあらゆる問題を解決する合理性をはらんでいるからだ。
しかし、それが公教育として正当性を持つことはない。国は「すべての人間が平等に相応の判断能力を獲得する機会を有する」ことを保証すべきだからである。
すなわち結果的な公益性があったとしても、生徒個々の判断能力を育む機会を奪う選択は国や公教育は選ぶことができない。
したがって、体罰が「判断能力を育む」結果を生むことはないのだ。
そして「判断能力を育む」ことが教育上の最重要目的である限り、体罰が正当化されることはない。
ここまでで言い忘れていたことなのだが、私のポジションは体罰賛成派である。
まえがきで述べたとおり、反対派の脆弱性を反証的に示すために体罰反対論の根拠を述べてきたが、いずれも説得力に乏しく多くの論理は破綻している。
民主主義国家の基本原則に沿ってみれば、おおよそ筋が通っているように見えるが、よく理解するとその多くが脆い前提の上で成り立つ薄氷上の論理にすぎない。
最終章では、体罰反対論がいかに脆弱な論理構造をしていて、いかにして体罰が肯定化されうるかを述べていく
体罰が肯定される理由
その答えは明白で、体罰肯定論は教育機関を神とする多神教宗教だからである。
つまり、校則というものが憲法の上に存在し、校則がすべての道徳的正しさと真理を司っているため、議論によってその確かさを検証する必要がない。
したがって暴力によって言論を封殺することが可能というわけなのである。
まともな民主主義国家のどの法律も規定したことがない暴力罰(死刑を除く)を、体罰肯定法は定めることができるのである。
校則は絶対的な真理であるから、その正当性を説明する必要がなく、教育者は神官として判断能力を持たない未成年に対して暴力という布教を行うことができるのである。
そもそも本記事の体罰反対論にはいくつかの矛盾を孕んでいる。
教育とはの項において、その社会が間違っているとき、社会性を育むことは悪影響であるから「社会性を育む」ことは教育の最重要課題足り得ない。というスタンスを取っておきながら「まともな民主主義国家」と暴力を否定する民主主義国家が「まとも」だという根拠のない措定が前提としていて、その民主主義国家の基本原則を正当性の根拠として用いられている。
つまり民主主義国家の基本原則が誤りであるならば、体罰反対論は根本的な論拠を失うのだ。
そしてそれは校則によって証明できる。
校則が民主主義国家すべての憲法の上にあるから、民主主義国家の基本原則のうち校則に反する部分はすべて誤りである。
また、体罰を肯定するために満たさなければならない二つの条件として
・体罰が教育上の主目的を果たす上でもっとも効果的であること
・その教育上の主目的が正しい方向を向いていること
が挙げられていたが、校則はそれもクリアできる。
まず校則の原則として「議論の余地がないほど絶対的に正しい真理である」ということ。
教育機関が神であられ世界をお作りになられたのだから、聖書である校則は真理であることは自明である。
したがって体罰反対論で述べられていた「教育上の最重要課題は判断能力を鍛えること」というのが成立しないことになる。
これは2種類の方法で論破できる。
1つは民主主義国家の基本理念である
・成年は判断能力を有する
・未成年は判断能力を有しない
・したがって未成年は教育が必要である。
この3つの原則を論拠として「教育は判断能力を補強するためにある」という論調だったが、校則が民主主義国家の基本理念の上に立つため、その過程そのものが成り立たない。したがって「教育上の最重要課題は判断能力を鍛えること」が成立しない。
もう1つの方法は「民主主義国家の基本理念が"未成年は判断能力を有しない"と定めている」ため、暴力によって真理に到達しても、適当に判断能力を育んで真理に到達したとしても、民主主義国家の基本理念は「どちらも判断能力を有しない」としているので同じである。
つまり「未成年者は判断能力を有しない」以上、判断能力を育てるために教育があるというのは自己矛盾に陥っている。あるいは判断能力を育むという至上命題が、暴力によって到達する真理と同等の価値であることを定義しているため。本記事における体罰否定論は体罰を肯定していることにほかならない。
以上のことから「教育は判断能力を補強するためにある」という主張は破綻していることが分かる。
そして、「判断能力を育み鍛える」ことが教育の最重要課題でない場合は、別の公教育の方針の正当性を示し、そして同様に体罰がそれを達成する上でもっとも効果的とする論拠を求めなければならない。というのが体罰肯定論者に与えられた宿題であるが、これも校則によって解決が可能である。
まず第一に「校則は真理である」
したがって、議論の余地がないので、暴力によって相手に布教しても正当である。
よって「判断能力を育み鍛える」ことは必要ないのである。なぜなら校則が答えなのであるから考える必要はなく校則をインストールすればよい。
むしろ真理を疑うという行為そのものが、火星の上で人間を探すがごとく意味のない行為であり、真理の到達を妨げる要因でもある。
したがって真理が明白なとき、人は判断能力を有する必要性がない。
なぜなら、思考を停止して真理に従えばいいからだ。
そしてそれは「未成年者は判断能力を有しない」問題を解決し、その最も合理的で効果的な手段として、暴力で相手の思考能力を奪い、真理を教育するという教育手段の最善策の問題をも解決する。
以上で体罰反対論の脆弱性を反証的に示し、そして体罰肯定論を確立したことは明らかであるが、真理を疑う判断能力をまだのこしている論客がいることを想定してとどめを刺したい。
体罰肯定論が教育機関を神と定義するため、校則の神性は論ずるまでもない。
しかし、校則がまともな民主主義国家の憲法の上に存在するという前提はどこから来るのかという論理補強をしていきたい。
校則と憲法
まず私が体罰という真理に到達する前の未熟だった頃、教育機関で極めて不愉快な出来事があった。
私は廊下でパンツ一丁で遊んでいたとき(そっちのほうが不愉快だろというのは置いておく)私は教師、いや神官に説教を受けたのだが、その時説法はこういうものだった。
「学校の中だからいいけど、外に出たら犯罪だからね?」
すなわちこれは、学校機関というものが完全に治外法権を有することを示しており、教師はそれを運用上の事実として法の支配が及ばないことを認識している以外の何者でもない。
教師もとい神官が生徒を盗撮したり性交に及んだり、あるいは暴力を振るっても、法の裁きを受けることなく懲戒処分で済むのは、教育機関が司法の上に存在しており、法の裁きに変わって神官に制裁を加える権利を有することの証左にほかならないのだ。
体罰の正当性も校則で説明できる。
体罰教師の拳は王権神授の拳であるため「未成年者は責任能力を有しない、ゆえに刑罰を与えることができない。」という民主主義国家の法を貫通して罰(パンチ)を食らわせることができるのである。
完全に司法の裁量から独立した基準を持ってして、他者を法の刑罰を超えた暴力による裁きを下すことができるのである。
つまり、体罰反対論者はまともな民主主義国家の基本原則を論拠に体罰を否定するが、まともな民主主義国家の基本原則は校則の神性を認めている。
したがって、民主主義国家の基本原則を依拠として体罰を否定することはできない。
民主主義国家の基本原則を依拠として体罰を否定するとき、民主主義国家の基本原則が校則を真理だと認めている事実もついてくるからである。
校則が真理なのは言うまでもないのだが、世の中で起きる現状も校則によって説明できる。
校則もとい聖書にはこう書かれている。
「黒髪以外は風紀を乱すので、これを禁ずる。」
すなわちこういうことである、真の人類とは髪の黒い人種のみであり、それ以外はフェイクであると。
ヨーロッパ人やアメリカ人が体罰に反対するのも無理がないことである。
校則を肯定することは、自分たちの人種がフェイク人類であることを認めることと同義であるからだ。
つまり、彼らが校則に屈するとき、自分たちのアイデンティティを失うということである。
そして彼らにとって不幸なことは、校則が揺るぎない真理であるという残酷な現実を突きつけられているということだ。彼らは自らの没落を回避することができないのだ。
この校則の真理性にいち早く気づいたニーチェは「神は死んだ」と言い、宗教的価値観に善悪を委ねる生き方を否定し、ニヒリストとしての生き方を提示した。
なぜなら彼らにとって真理(校則)とは深淵であり、すべての価値観を無に帰すものであるから、ニヒリズムはその激震に対する準備運動なのである。
事実、真人類であるアジア人よりほかの人種のほうが犯罪率が高く、治安が悪い。
(というのは「黒髪以外は風紀を乱すので、これを禁ずる。」という聖書の記述に当てはまる)
したがって、茶髪で生まれた生徒を黒く染めるのは真人類としての民族浄化なので正当な行為なのだ。
また
・何人も自由である。
・何人も他者の自由を侵害してはならない。
・したがって他者の自由を侵害しない状況に限り、人は自由である
他人の自由を侵害しない限り自由を認めるというミルの危害原則や、化学的な害悪の因果関係が認められない状況においても化学物質や遺伝子組換えなどの新技術などは規制の対象となる予防原則など
多くの哲学者や社会学者が提示した、人類に対する権利や正義の問題はすべて
「真理には程遠いから」という前提の上で成り立つ。
いかなる宗教や科学も真理ではないから、あらゆる可能性を模索すべき。
という基盤の中で、多様性が尊重されるのである。
究極生命体が遺伝子の複製を必要としないように、これらの原理原則は「完全なる真理」に到達した時点で崩壊するのである。
すなわち、真理への模索を前提として多様性を尊重するわけであって、真理に到達したのであれば、いかなる暴力的な手段を用いて相手の思考や自己表現の手段を奪ってでも、真理に染め上げる行為は正当である。
校則は真理である。
ゆえに、校則と対立したものは存在が誤りである。
したがって議論をキャンセルして相手をぶん殴ることもまた真理である。
多様性が尊重されるのは、異なった考えを持つ少数派を弾圧することで、真理へ到達する手段を失う可能性を否定できないからである。
あらゆる角度や方向から真理へのアプローチを欠かさないことが重要であるから、マイノリティを弾圧することは真理に対する冒涜になるのである。
しかしこれはアンテヴェリタス(真理到達前)の論理である。
真理到達後(ポストヴェリタス)はあらゆる多様性こそが真理への冒涜になる。
真理があるのにそこから目を背けるのは知的生命体として理性的なふるまいとは言えない。
すなわち校則という真理が提示されている以上、それに逆らう者は真理の敵であり、個性を主張するものは真理に対する無知である。
黒髪で制服を来て、スカートを短くせず、眉毛は剃らず、男は坊主あるいは髪が耳にかからない程度、そして集団行動を重んじ、議論を初めないこと、それこそが真理であり、それをすべて満たすものこそが真人類であると。
そしてそれを民主主義国家がそう既定しているのだから
校則に背くもの、ひいては学校機関の土地内で起きた犯罪行為はすべて国の司法に変わって、制裁のパンチを加えることは
すべて正当化され、いかなる刑罰に処されないのである。