アメリカではすでに一大ムーブメントとなっているコールアウト・カルチャー(過去の不祥事によって現在の社会的地位が脅かされるポリコレ文化)
日本にも同様の運動がおこり、国内でも賛否が起こってますね。
私は楽しみにしていた大規模イベント(私は家で配信を見る側だが)をオリンピックによって潰された立場の人間なので(ちなみにロッキンではない)
オリンピックに夢と希望を奪われて、オリンピックとは「排他的な画一性と、利権と搾取の象徴」だと思っているので、障害者に性的暴行を加えた過去を成人になって武勇伝として語った小山田圭吾さんや、戦争犯罪をネタにコントを書くラーメンズの人はまさにオリンピックを盛り上げる立場としてこの上なく適した人格を有していると思っていたのですが、どうやらオリンピック運営委員会は自分たちの「天が人の下に人を作らす」のスローガンを忘れてしまっているようです。
オリンピック以外にもインフルエンサー的な立ち位置の人が企業案件を失ったり(ぼかした書き方をしているが私は2011年くらいからニコ生を見ている)と、このキャンセルカルチャーは今後の普遍的な流れになりそうなので、この記事が指す「公」という言葉の範囲も、オリンピックだけでなくそういった企業案件的なもの全体であるという解釈で読んでいただければと思います。
- 私は「面白ければ何でもいい」派である。
- そもそも深夜アニメはゴールデンで放送されない
- オリンピックは表現を追求する場所か?
- そもそもマス向けのイベントに価値があるのか?
- そもそも自由=過激か?(自分語り)
私は「面白ければ何でもいい」派である。
私はこの記事で「いうほど不寛容な社会にはなっていない」という結論に至るので、自分がどのようなポジションであるかを先に明らかにしたい。
私は上の記事で語ったように「笑い」に対して、ひいては創作表現、エンタメなどは総じてある種の排他性を持っていると思っているので、それによって傷つく人がいるのは当然だと思っているし、それを踏まえた上でも面白ければ他人が傷ついても良くね?というスタンスにある。
なので、この記事によって私がポリコレ側の人間のポジショントークであると解釈されるのは心外なので、私のスタンスをまず明らかにしておきます。
しかし、今回の問題はそれとは逆なんですよ。
私のスタンス「作品として優れているなら傷つくやつがいてもよくね?」がグローバルスタンダードだとします、でもそれは「オリンピックに差別主義者を起用しない」というポリシーとは相反しないわけです。
オリンピックは「多様性と調和」を掲げているのであり、高い芸術的な表現性を追求しているわけではなくて、要は税金を使った体育祭と文化祭なわけです。
文化祭ではクリエイティビティの欠片もない虹と風船と鳩が飛んでる絵が表彰されたりするので、そこにメッセージ性のある作品が入る余地はないわけで。
つまるところ、「過激な表現を追求してもいいよ。でもそれが国や企業を代表して発信されることはないよね」という極めて単純な結論でしかない話なのである。
この記事はここで終わってもいいのですが、私にはこの件を含めたいくつかの諸問題について言いたいことがあるので続きます。
そもそも深夜アニメはゴールデンで放送されない
私は現在アニメはまったく見てないんですが、最近はアニメを見るという嗜好に対して寛容な社会にはなってきています。
ましてや深夜アニメが国民的に人気になったりすることはありますが、それでもゴールデンタイムに再放送します!という風潮にはなりませんよね。
私から見て、コーネリアスやラーメンズも同じなんですよね。
深夜帯だから許される表現性と、深夜帯だから面白いとされてきたものを、ゴールデンタイムに持ってこれるわけがない。
2つはそういうサブカル的なコンテンツだと思うわけですよ。
つまり、オリンピックを利用して昔好きだった過激なコンテンツを起用してニチャってるサブカルおじさんは、給食の時間にボカロを流してるキモオタと同じメンタリティなわけです。
給食中にボカロを流して、生徒に不評だったのを「表現が規制された!」と抜かすオタク。
私にはそういう構造にしか見えません。
だからこそ「不謹慎なネタに不寛容な社会に"なった"」という風潮には疑問符がつきます。
私には最初から「深夜番組はゴールデンタイムに放送できない」という不文律の範疇で、国や企業を代表する表現者として適さなかった。という話に見えます。
つまり規制の範囲は過去と比べて拡大したわけでもなく、その表現コード自体は最初からあったが、そこを何故かすり抜けてきた不審者が国の代表ヅラして紛れ込んでしまっていたのがバレた。
というだけの話ではなかろうか?
もし私が仮に、オリンピックを代表する立場の人間として起用されることがあったとして
┃Syamu Gameとは
おそらくこのような発言の一部が取り沙汰されて、問題になるだろう。
しかし、それは当たり前ではないだろうか?
「はなくそモグモグ」という僻地で好き勝手やっている分には、表現の自由が保証されている。
しかし、優れた人格を体現する者として、国や企業を代表することはできない。
という至極当たり前の話で、
そこに表現の規制があるだろうか?
過激な発言ができなくなっていく社会であるだろうか?
その帰結には少々論理の飛躍や論点のズレを感じざるを得ない。
オリンピックは表現を追求する場所か?
私も
①作品のクォリティ至上主義で、作者の人格は終わっていても評価されるべき
②面白ければ障害をネタにしていい
と思っている。
まず①について、オリンピックは運動屋がその能力を競う場であって、表現者がその能力を競う場ではない。
したがって「オリンピックが作者の人格を問う」ことが「作品だけが評価されるべき理念」を脅かすことにはならない、なぜならオリンピックが「作品だけが評価されるべき理念」を元に運営されていないからだ。
むしろオリンピックがあることによって音楽のフェスティバルが潰されているのだから
オリンピック運営が小山田を外すことよりもオリンピックがロックフェイスティバルを潰した事実のほうがよっぽど音楽の表現性やその文化を脅かしている。(実際は小山田本人が辞意を表明したのだが)
そして②の「面白ければ障害をネタにしていい」について、
これはテレビやオリンピックのようなマス向けのエンタメだけでなく、閉じたコンテンツの枠組みであっても炎上という形でその表現性を脅かされることがある。
私はその構造について以下のことを思っている
A:単純に面白くない
B:その面白さはタブーだから面白い
C:その面白さは障害者差別から生まれる
頻度が高い順からABCにカテゴライズした。
まず『A:単純に面白くない』について、
過激な発言について炎上した時、本人やその信者が一番言うのは「表現を規制するな」という主張
この手のサブカル閉じコン馬鹿の多くが勘違いしているのは
過激の中に面白さを見出しているという構造である。
まるで過激というおもちゃ箱の中にのみ面白さという宝が眠っているという発想である。
この手のコミュニティは「俺達は面白さを追求している」と豪語しながら、その実過激さを競っている。
過激の山から拾った石を磨けばそれが全部ダイヤモンドになると思っているからだ。
しかし、実際はこうである。
面白いと過激さに共通部分があるだけであり、面白さを追求した結果、たまたまその中に過激なネタがあった。というだけの話なのだ。
つまり面白くなければ、ただ過激なだけで表現的価値のないただの石ころなのである。
ただ過激なだけのものを規制したからと言って、それは「表現を規制する」ことにはならない。
つまり、面白くないだけでなく過激であることで角が立つのだから、公の場に出られないのは当然である。
したがって私たちが「過激である」と非難を受けた時、それは「過激さを補って余りある面白さが足りなかった」と反省すべきなのだ。
品行方正さ至上主義なら、過激な発言を改めるべきだし。
面白さ至上主義なら、面白くなかったことを改めるべき。
なのである。
表現者の側が「過激な言動を奪われたら表現できへん!」と喚くのは「面白さ」というフィールドで戦ってないことを暗に認めているだけなのだ。
まず『B:その面白さはタブーだから面白い』について、
私が障害者をネタにすることで笑うのは「言ってはいけないことを直球的に表現する」ことの面白さがあるからである。
つまり、社会がそこの溝を作っているということが文脈としてある。
おそらく、障害があることがハゲと同じ社会的地位を持っているなら、私は多分笑わないだろう。
要するに、その面白さは「言ってはいけないこと」だから面白いのである。
したがって、そういう面白さを表現した者は「言ってはいけないことを言ってはいけない場」(小泉構文のようになったが)には出てこれないのは当然なのである。
つまり、それを言うと公の場には出てこれなくなるだろうから面白いのであって、それを無しにして国や企業を代表できるのであれば、やらせのような薄ら寒さがある。
バトル漫画でいうと、この技を使うと死ぬ。という背景でその必殺技を使うから盛り上がるのであって、その後「やっぱり死にませんでした」では白けるのと同じである。
タブーに触れるおもしろさ、というのはそのリスクが文脈的背景にあるからであって、そのリスクを許容できないのなら手を出すべきではない。
最後に『C:その面白さは障害者差別から生まれる』
論ずるまでもなく、差別的な価値観に基づいてその言動を面白がっているのであれば、やはりそのようなコミュニティが国や企業を代表する事はできないだろう。
そもそもマス向けのイベントに価値があるのか?
私はオリンピックに全く興味がないので税金でやってほしくなかったし、それを見たい人がいることは別に否定しないのでクラウドファンディングなどで見たい人が金を集めてやれば良いと思っている。
それは私の政治的思想として「国がイベントごとを企画すべきではない」「税金は国民が自由に活動する場を作るために使われるべき」というイデオロギーに基づいている。
現に私が楽しみにしていたイベントは、企業や国の補助を受けておらず、その文化を発展させたい有志の出資と労力によって成り立っている。
したがって多くの人がその文化を望んだから成り立っているのであって、その当事者たちがその文化に飽きれば自然と廃れるのである。
それこそが民主主義的であり、健全な文化というものではなかろうか?
そのイベントとは関係なく、現代社会では様々なコミュニティがセグメント化して点在していて、それらが関係者の生計を成り立たせるほどには経済組織として成立している。
その点在する閉じたコンテンツ、または開けたコミュニティ一つ一つが「社会」であり、その各セグメントによって正義は違ってくる。
中には、参加者の害にしかならないスピリチュアルな"真実"を触れ回っている教祖がコミュニティを構成することも許されている。医学的なコンテンツとしてそれが成立していることもあるし、もちろん過激な表現を追求するコミュニティもある。
私はそういう意味で、昔より表現が許されるようになった側面があると思っている。
私の言う昔とは、活動の場が「テレビ」か「ラジオ」しかない時代を指す。
その時代においては、自分の顔を売る手段がテレビしかなく、そこから追放されることは半ば表現規制と捉えてもおかしくなかった。
しかし、現代のいう「社会」とは様々なコミュニティがそれぞれ発信力を持っているので「テレビに出れなくなった」ことは、いくつもある発信手段の一つを失ったに過ぎない。
例えばアメリカにはPewDiePieというYouTuberがいて、動画の中では同性愛者を馬鹿にするネタも存在する。そして彼のチャンネル登録者数は日本の人口と同じくらいである。
日本のテレビより影響力を持っている個人が好き勝手過激な発言をしていて、これのどこが「表現に不寛容な社会」なのだろうか?
したがって「不謹慎なネタに不寛容な社会になった」という前半の部分にも違和感がある。
この発言をすることの裏には「日本のテレビが社会そのものである」という幻想が前提にある、もうそんな時代はとうに過ぎたというのに。
「テレビから追放される」ということが数ある表現手段のうちの一つを失っただけに過ぎないという認識を持っていないのだから、日本人の価値観の中には未だにテレビの影響力が強いのかもしれない。
私は賞レースはドイツボードゲーム大賞と日本ゲームデザイナーズ大賞しか信用してないので、アカデミー賞やゲームアワードやオリンピックもノーベル文学賞も「自分に権威があると思いこんでる馬鹿がなんかやっていらっしゃる」という認識しかない
私から見ればオリンピックは「利権と搾取の象徴」にしか見えないので、そこから降ろされることになんの問題があるのか?
ましてやそれを「不寛容な社会になった」と表現することに「まだオリンピックが社会の中心だと思ってらっしゃる?」という呆れすら感じる。
多様性と調和がデファクトスタンダードの昨今では、社会全体が一丸となって盛り上がるとかそういうマス的な現象はもう幻想でしかなく「それを好きな人」と「それが嫌いなひと」と「それに興味がない人」がそれぞれのコミュニティで社会を形成していて、それらが同等の発信力を持つ時代なので
「一つのコミュニティが勝手に決めたこと」が社会全体を支配することはないし、「個人全員がが一つの方向を向く」こともないし、それが多様性社会ってことなわけで。
いい加減、社会の代表ヅラするのをやめて「いくつもあるコミュニティの一つに過ぎない」ということをわきまえませんか?
そもそも自由=過激か?(自分語り)
私はこのブログで言いたいことを好き勝手言っているが、ほとんど不自由を感じたことはない。
唯一感じているのはBUMPの曲の考察として歌詞を著作権法の範疇で引用したのに、JASRACに権利侵害としてブログ停止処理を食らったことくらいである。その件があってから私は歌詞の考察記事を一切書いていない(が考察自体は私の頭の中に沢山ある)
また、 下ネタというか下品なワードを書いたことによってGoogleから警告を受け広告が剥がされたのでいくつか記事を削除したことはあるが、その理由も単純に下ネタを使うにしては面白くなかったからだ。
つまり私は「性的な表現をすることを反省すべき」と認識したのではなく「下ネタを使ったくせに面白くなかったから反省すべき」だと認識している。
選択小便器論の記事では、下ネタ満載だが面白い記事だと自分では思っているし、一部ホモに対する偏見のようなネタがあるにも関わらず広告が剥がされていないので、やはり面白ければ許されるのではないかと解釈している。
この記事対して多少の言い訳をすると、実際私はホモの方が小便をする男性を盗撮している現場に居合わせて迷惑を受けたことがあるし、その同性愛者による迷惑行為をネタにしているので、同性愛そのものを差別したり偏見を持っているわけではない。
またこの記事ではリンクの性的魅力を説いているので、私がホモであると解釈していただいても結構である。
話が逸れたが「過激なことを制限されたからといって言うほど自由が奪われるのか?」ということである。
私は極めて自由に(多少の規制の被害を被ってはいるが)発言しているが、それによって読者の反感を買うことはあっても、差別的な思想に先鋭化したりはしていない。
やはり、「差別が伴わなければ自由に発言できない」というのは本人の人格に問題があると私は感じる。なぜなら私が自由な発言の場を与えられていても過激な発言に至ることがほとんどないから。という理由で。
エレン・イエーガーのように生まれ持った資質として「差別的な言動」をしてしまうのならそこの葛藤はあるだろうが、この手の人間が過激を欲する理由として
- 過激な発言でないと注目を集められないから
- 過激をすることがかっこいいと勘違いしているから
- そのコミュニティが過激な言動を評価するから
- 自分は自由である、ストイックな表現者であるというバロメータとして過激を利用しているから
- 品行方正な権威にたいする反抗として過激という手段を選んでいる
- バカだから、その境界がわからない
- それが駄目だということを知らない
おおよそこれらの中に当てはまっていて、過激な言動を「必要に駆られて」する人間は極めて少ない。
それは焼き芋の屋台から匂いが漂ってきて「焼き芋が食いたい」と思わされるのと同じである。その人間が「焼き芋を食べるために生まれてきたのだ」というほど根源的な欲求として最初から持っていたわけではない。
だから私がアンチコメントに対して真に受けすぎであると主張するのはそういった背景を加味したからである。
なので、私は根源的欲求として過激な発言を渇望する人間ではないし、そのような人間がほとんどであることも知っていて、なおかつ焼き芋の匂いがすればそれを食べたくなるのと同じ一過性の衝動として過激に煽られる性質を持っていることもわかっているうえで、インターネット言論空間では過激性を保証することを望んでいる。
まとめると、私は自分のことを「発言の自由を与えられたからと言って過激になるわけではない」側の人間だと思っているし
その上で「インターネットの言論空間はその過激な言動をする自由を保証すべき」だと考えていて
その上で「それが国や企業を代表する公の場に出られることはないよね」という当たり前のことを主張している。