はなくそモグモグ

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ルッキズムを"主義"として美化するな

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私のTwitterアカウントの寂しいフォロー欄を見ていただければ大体想像はつくだろうが、私はスマブラの競技シーン観戦を趣味にしている。

 

興行として発展途上ではあるが、新作のSPが発売されてから現在に至るまで右肩上がりに同時接続数が伸びていて、かくいう私も前作から競技シーンはたまに見ていたが、TASとかRTA見るのと同じようなノリで、本格的に仕様や読み合いを理解しながら大会をリアルタイムで追い始めたのは今作からだ。

野球はしないけど野球観戦に熱心なオッサンの陰キャver.と考えてもらったらよいだろう。

 

さて、興行として発達していく上で本質的に競技そのものに興味がない人間からの注目を浴びてしまうということは、サッカーのワールドカップにおける都会の雰囲気を見れば想像に難くないだろう。

 

となれば当然、プレイヤーの容姿にあれこれ語り始める輩出てくるのは飲食店にネズミやゴキブリが出てくるより明らかであり、

例を上げれば「ゲームにマジになってるやつってチー牛ばかりだな」みたいなもので

それがTwitterなどでは問題視され、「プレイヤーの容姿叩きは辞めてください!」といった啓蒙活動がされることがある。

個人的には「人前に出るんだから身だしなみくらい整えようよ」も上記と全く同じカテゴリに入ると思っている。むしろこちらのほうがアドバイス風の正義振りかざし型の分たちが悪いかもしれない。

 

本記事ではこの容姿言及問題(容姿叩きだけではなく容姿に言及するコメントや書き込みを総称したいのでこう呼ぶ)について語っていきたい。

 

 

この問題は、ゲームの大会(e-Sportsという表現が嫌いなので素朴にゲームの大会と表現する)だけでなく、スポーツの大型大会や将棋や音楽の演奏、作家の評価など多岐に渡り発生する。

最近ではスポーツの興行で、選手の容姿に言及する行為に対して疑問を投げかける風潮が強くなっているように感じる。

女性サッカーの盛り上がっていた時期にお笑い芸人が遠回しに容姿をネタにする笑いを乱用していたテレビがマスメディアの代表なので改善は絶望的に思えるが・・・

 

この手の問題をルッキズム━━外見至上主義といったほうがわかりやすいか━━として論じる社会学者のコラムなどを目にするが、どれも本質を外れているように感じる。

なぜ本質を外れているか、答えは明白である。

この手の話題で、いわゆる外見至上主義者と称される者たちは"主義"など持っていないからだ。

 

つまり私が言いたいのは

"主義"の持たない知的不誠実な人たちを"外見至上主義"と定義している時点でお話にならない。

ということである。

 

「白人至上主義者」とはどういう人種だろうか、彼らは日本のような単一民族国家を理想としている。すなわち彼らにとって自分の国はコーカソイドによって統治されるべきであり、また国民も全て純血の白人のみであることを望んでいる。

また、科学的には白人がベースとして存在していて、他の人種はコーカソイドから退化したものであるという認識をもっている。

「実力至上主義」とはどういうものだろうか、他人を評価する際にその結果や能力を重視し、人格や人となりを見ないということである。組織を実力のあるもの━━何を持って実力があるとするかには個体差があるが━━で集め、その及第点に満たないものを排斥する運用上の考え方である。

 

すなわち「A至上主義」とは、Aが立場上最も力を持つ考え方であり、Aでない人物グループを排斥する組織やコミュニティのあり方である。

 

そう考えたときに「外見至上主義者」とはどういう主義だと考えられるか

それは以下の通りである。

・容姿の最も優れたものが高い位についている。

・容姿の劣るものがコミュニティから排斥されている。あるいは排斥の方向に進んでいる。

 

つまり、経営者がある役職に採用する人材を容姿で決めている場合。また、その評価軸にそぐわない人材を極端に排斥している場合。これは外見至上主義的な采配と言っていいだろう。

広告や表紙など、イメージを作る時に同様な采配をとるのもやはり外見至上主義的といえる。

 

しかし「スポーツ観戦をしていて容姿に言及する観客」、これは上記の外見至上主義的といえるだろうか?

彼らは容姿の劣るとみなした選手を「ブスを映すな」といって排斥しようとしただろうか?

仮にそういった書き込みがあったとして、それを放映局にクレームを入れるなどして実行力を持った行動に映しただろうか?

おそらく白人至上主義者や実力至上主義者と言われる人たちは上記の行動を起こすだろう。しかし、外見至上主義者と呼ばれる観客たちはそれをおこさない。

 

したがって、彼らには盲信するだけの主義主張は持っていないのである。

 

ではなぜ、彼らはプレイヤーの容姿に言及するか。

その答えもまた明白である。

 

ある興行において、芸者や選手の容姿に言及する観客は

無知で頭が悪いために、その興行を語る言葉を持たないのである。

 

私はスマブラの競技シーンを見る上で、格ゲーの総合的な知識や読み合いのセオリーから、スマブラにローカライズされた特殊な仕様、具体的には崖の読み合いや上位プレイヤーの使用するキャラクターの技の発生、全体フレームなどを覚えている。

試合解説動画なども参考にして、少なくとも実況解説が言っている内容を理解して試合を楽しむことができる。

しかし、試合を見ただけでは何が起きているかを理解できない人や、そもそもスマブラに興味がないものが、スマブラの競技シーンを見ても語る言葉を持たないので、代わりに容姿の感想を述べるのだ。

 

具体的な試合では何が起きているかわからないから、握手拒否や場外乱闘、プレイヤーの外見といった誰でも馬鹿でも見て状況が理解できる内容の感想を述べることしかできない。

 

私にとって差を明確に感じるのが1つのゲームなだけであって、これはスポーツや演芸、盤上競技など他のジャンルにも言えるだろう。

 

容姿について感想を述べる━━考えやまとまりのある内容ではないので"語る"という表現は使わない━━というのは、教養がない人間でもできる。

目に見えたものについて抱いた印象を貧弱な語彙で述べるだけなのだから。

 

子どもが外見の"おかしさ"に敏感なのは、論理的思考力を持たないからである。

論理的思考力を発展させている中途であるから「他と違うもの」に対して敏感なのである。それによっていついかなる時代においても、その時点における"正しい論理"を吸収していくのである。

その子どもが論理的思考力や教養を身に着けないまま成長してしまうと、ただ相手の容姿に抱いた感想を述べるといった反射反応が「尊重されるべき大人の意見」ものとして自信満々に相手を評論する言説だと勘違いするのである。

秀逸な類似性を見出す比喩表現や、文学的、詩的に馬鹿にするといったレトリックの介在する余地があれば知的営為と呼んでもいいかもしれないが、その大半は強い光を見て目をすぼめるのと同じくらい本能的な反射に近い手癖として感想を述べている。

 

知らない顔を見て吠える犬は外見至上主義なのか?

少なくとも追い返そうと行動している時点で容姿の感想を述べる動物よりは外見至上主義的に振る舞っているだろうが、その咆哮は本能的なものであって、そこに主義も歴史もない。

 

排斥を支持する言説もなく、排斥の実行性もない、それでいて至上主義を掲げるほどのものさしとしての"美意識"もない。

ただ今日までの偏見のかたまりと、他に何かを語るだけの審美眼や教養がないから目に見えた顔について語ってるだけの人間をどうして「外見至上主義」などと呼べるのだろうか?

それはあまりにも知的怠慢者を神格化しすぎである。

 

サッカーの試合を見ているならば、プレイヤーとして自分が苦戦したことを難なくこなしているプロのプレイヤースキルや、対局的であったり長期的なものの見方から巧みな位置取りをする判断力、1on1で競り勝てる読み合いの強さ、あるいは単純に運動神経の高さからくるスーパープレイなど、"感想を述べる"という感情の反射的な発露においても他に述べることが出てくるのである。

知識があればあるほど、地味でつまらない試合でも見られる僅かな機微を感じられる審美眼が備わっていく。

それらを差し置いて選手の体型や顔に注目しているのは「試合を見て何も感じないから」なのであり、それは知識や眼を持たないので試合を見てもその意味を理解できないか、そもそも試合に興味がないかだろう。

 

彼らが問題なのは"外見を至上と考える主義主張"ではない、なぜならそんなものは存在しないと上記で示した通りだからだ。

知識がなくて語れない自分の立場を理解していないことと、何かを極限まで鍛えた者に対して寄り添う姿勢がないことが問題なのである。

 

ノーベル賞を受賞した科学者に「朝ごはん何食べてますか?」と質問するメディアも本質的には同じで、彼らは本質的に、自分たちの理解を超えた存在に対して、自分の理解できるものさしで図ろうとする。

つまり、自分の理解の範囲を拡張するのではなく、自分の理解の範囲の中でその人間を図ろうとする。

 

だから表に立つ人間に対して、一般教養のクイズを出して答えられない様を笑いものにしたり、外見に対する印象をあれこれ述べたり、朝食を聞いたりするのだろう。

 

つまり彼らは、何かを語るカードを「容姿」しか持ってないから仕方なく切っているだけなのであって

「容姿」というカードを"選んで"採用しているほど豊富にカードを持っているわけではない。

 

したがって「外見至上主義」という呼称は、真の美意識を持った外見至上主義に失礼であるし、ただただ浅学非才なだけの人種を美化しすぎなのである。