はなくそモグモグ

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日本的フェミニズムの限界

僕は最近、フェミニズムについての理解がかなり浅かったことに気づいた。

というのも僕が学生の時のときに触れたフェミニストの言論がエマ・ワトソンによるものだったからだ。

彼女は2014年の国連のスピーチにおいてこう主張している

 

「弱いと思われるのが嫌だから」と言って、男性は心が弱っているのに助けを求めようとしません。その結果、イギリスの20歳から49歳の男性は、交通事故、ガン、心臓疾患よりも自殺によって命を落とす方が圧倒的に多いのです。

「男性とはこうあるべきである」「仕事で成功しなければ男じゃない」という社会の考え方が浸透している為に、自信を無くしている男性がとても多くいるのです。つまり、男性も女性と同じようにジェンダー・ステレオタイプによって苦しんでいるのです。

男性がジェンダー・ステレオタイプに囚われていることについては、あまり話されることがありません。しかし、男性は確実に「男性とはこうであるべきだ」というステレオタイプに囚われています。彼らがそこから自由になれば、自然と女性も性のステレオタイプから自由になることが出来るのです。

エマ・ワトソンがフェミニズムについて国連スピーチで語る - ログミーBiz (logmi.jp)

 

つまり、女が子供を産み育てハウスワークを全面的に担当し家庭を守るという性役割から開放されるように、男も外に出て稼ぐべきという性役割から開放されるべき。それこそがジェンダー平等である。という主張だ。

 

人権や平等について考えるとき、その主張の正当性を検証する簡単な方法として、「その属性にあたる変数が代替可能なものであるか」を当てはめて確かめてみるという方法が効果的だ。

つまり「成人の《男性》に選挙権を与える」という制度の《男性》という属性は代替可能であるべきで、つまり《女性》が当てはめられても成り立つものでなければならない。

という意図でワイマール憲法では男女に参政権が与えられ、それは大きな社会的意義を持つ。

という検証方法を持ってみると「《女性》はジェンダーロールから開放されるべきだ」という主張の《女性》は《男性》に置き換えても成立しているべきである。ということが言える。

まさにそのことを彼女は言っているのであり、それがアメリカのフェミニズム(以下、アメリカンフェミニズム)だと僕は理解していたのだ。

 

であるから、日本のフェミニズム(以下、日本的フェミニズム)は主張の属性変数が代替可能ではない点において、非常に遅れているなあと当時高校生の僕は思っていたので、「いつになったらエマの言説に到達するんだろう」と議論する価値すらないと思っていたので最近まで観測すらしていなかったが、

その最近になって、どうやら僕の認識が間違っていたということに気づいた。

英弱の僕は気づかなかったのだ、そのエマ・ワトソンが、アメリカンフェミニズムの文脈において叩かれていたという事実に

 

 

 

 

アメリカにおけるフェミニズム分類

というわけで僕の貧弱なサーチ能力で、アメリカにおけるフェミニズムとは何かを調べたので実態を掴むヒントに使っていただければ幸いだ。

 

僕が調べた限り(上記の通り僕のサーチ能力には限界があるので、世論の肌感や統計的にはどうかといった検証ができてないことが多いことには留意頂きたい)

アメリカにおけるフェミニズムは3つに大別できる。

 

①エマ・ワトソン的フェミニズム

②日本的フェミニズム

③アメリカンフェミニズム

 

順を追って解説していこう。

 

①エマ・ワトソン的フェミニズムについて

これは上記でも触れた通りだ。

本質は抽象化概念としてのジェンダーロールからの開放だが、当記事ではわかりやすいようにあえて矮小化する。

つまり、女は家事、男は仕事。という性と役割が紐づいている現状をやめようという主張だと言い換えることができる。

一般的なフェミニズムの文脈ではその名前の由来する通り、女性のジェンダーロールにフォーカスが為され「女は子供生め」「女はおしとやかにしろ」「女は家事を」etc……といった性役割を押し付けるのはやめろ。

という主張に帰結しがちであるが、議論をさらに勧めていくと「ジェンダーロールの開放が《男性》という性別、あるいは性別に関わらないすべての人間にとって適用可能か」という問題にぶち当たる。

当記事では論点整理の観点から、その属性置換を《男性》のみに絞って考えていく。

 

エマ的フェミニズムにおいてはジェンダーロールの開放が《女性》でも《男性》でも置き換え可能であるから、思想としては美しい。

人権や平等を考える上では最も先進的かつ普遍的な結論と言っても差し支えない。

当時の僕もこれが結論だと思っていた。

 

しかし「社会はどうあるべきか」という議論を進めていくと、前回の記事でも述べた通り、国家は正義を貫徹するために存在しているわけではない。

国家には単純化して『発展』と『道徳』がセットで存在している。

つまり、いくら道徳的に優れていても発展無くしてはその国家を維持できないのだ。という問題を直視する必要がある。

という観点でエマ・ワトソン的フェミニズムについて考えると、《女性》、《男性》が自身の性別に結び付けられた役割を背負う必要がないとしても、根本的に家事や仕事が消えるわけではない。

つまり誰かが稼得役割を担い、誰かが子供を生み育てるという役割を負う必要がある。

(とはいえ「子供を生み育てる」というのは生物学上の女性にしか出来ないのでは?と思ったかもしれないがこれについては③アメリカンフェミニズムの項目で触れる。)

 

https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r02/zentai/html/zuhyo/zuhyo_img/zuhyo01-00-03.gif

I-特-3図 週間就業時間60時間以上の雇用者の割合の推移(男女計,男女別) | 内閣府男女共同参画局

社会に出て働いている人間なら肌感覚でわかるとおもうが、世の中の多くの産業、エッセンシャルワーク、ブルーカラー、システムエンジニアリングにおいてはおっさんによる多大な残業と深夜作業、肉体労働のハードワークによって成り立っている。

これはおそらく「男は外で稼いで家庭を維持すべき」というジェンダーロールを貫徹するが故であろう、年々労働時間が減っているのはこういった性役割から開放されようという平等意識の結果「俺は稼ぎ続けて家庭を維持するという責任を負えない」と未婚化が増えた実情と相関があると思われる。

このように、近代においてはある種「家庭」を人質に取られたおっさん達のジェンダーロールを貫徹する責任感によって日本の基幹産業が成り立っていた。という事実は否めない。

https://www.t-pec.co.jp/wp/wp-content/uploads/2022/05/img_suicide_03%EF%BC%88%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%88%A5%E3%83%BB%E5%B9%B4%E9%BD%A2%E5%88%A5%EF%BC%89.gif

警察庁発表 自殺者数の統計 | ティーペック株式会社

 

つまり「《男性》ジェンダーロールから開放されるべき」というのは平等思想としては理想形ではあるが、現実問題それが成り立つのか?という問題は今記事における重要なキーワードである。

僕が観測した感じではアメリカ(英語圏)において、このようなフェミニズムを主張するのはほぼいない。

男がフェミニストを揶揄する目的でミラーリングとして用いられることはあるが。。。

 

個人的にはこのような家庭を維持する稼得責任の分散は政府が行うべきだとは思う

現にフランスでは子供を確か5人くらい生むと無職でも生活できるくらいの補助金が入ってくるため、出生率が最近まで2.0を超えていた。

しかしこれも『道徳』と『発展』の問題があり、発展のない社会においては成り立たないだろう。

 

②日本的フェミニズム



マルクス主義フェミニズムと言ってもいいが、この形態によるフェミニズムが日本では最も多いと感じられるので、後述するアメリカンフェミニズムと対比する形で日本的フェミニズムとした。

家事労働は、金になろうとなるまいと、労働にはちがいなく、主婦がやらないとなれば誰かに代行してもらわなければならない。

その意味で 「有用で不可欠」な労働でありながら、女性に対してどんな法的・経済的な補償も与えられず、無権利状態におかれているとなれば、これは不当に報酬の支払われない「不払い労働 unpaid labor」 だということになる。

 

上野千鶴子『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』

つまり家事というものを労働者のメンテナンスという観点で、市場に良いコンディションの労働力を提供する機能を果たしているのだから稼得に対して間接的に寄与しているのにその主たる労働者である女性には賃金が発生しない、これが構造的搾取である。

という主張をマルクス主義における「階級」に例えた主張である。

この搾取構造は家父長制が資本主義と癒着しすぎた結果だと指摘する。

これがツイフェミへ伝言ゲームした結果「苦労してるんだから家事にも金を払え!」的な言説として現在の言論空間に表出している。

これが一般的な男やアンチフェミにとって「こいつらは何を言ってるんだ?」という生理的反応をされているが、マルクス主義フェミニズムの指摘する論点は本記事とは関係ないが重要である。

 

多くの感情が劣化した人間は「経済成長したほうが偉い」的な価値観に隷属して生きているが、「では中国に住みたいか?」と言われれば本能的な忌避感がある。

この忌避感はなにか?

これは《発展》と《道徳》である程度説明できる。

発展に特化した社会は物質的にあるいは資本的に恵まれるので一見して充実した社会に見える。

しかし日本で言う東京のような経済特区に住む人間の幸福度が総じて高いとは言えない。つまり、《発展》はしているが《道徳》が充実していないのだ。

資本主義はこの《発展》を捕捉するにはとても優秀なバロメーターとして機能する。

しかし「GDP成長率を国力と同一視していいのか?」という議論が国際的になされるのは、その金の動きが《道徳》の部分を捕捉しないからである。

例えば、自分の畑を持ち野菜を育てたとする。

作った野菜を家族や友達にその足で配って回ったり、あるいは自分で料理しそれを相手にも振る舞うことで充足感を得る営みを行う。

この営為はその人や周りの幸福度に寄与するが、上記の過程では金の動きは一切ないのでGDPに反映されない。

GDPの成長を目的として《発展》の合理性を追求する過程で切り捨てられたものが、実は《道徳》に寄与していたのではないか?という視座を持つことは非常に重要である。

 

その《道徳》を十分に捕捉する評価指標が存在しないことが本質的な問題なのである。

マルクス主義フェミニズムはそのようなハウスワークを《発展》のバロメーターである資本主義に包括しようとする試みだ。

 

しかしながらアメリカや日本においても、基本的にフェミニストやリベラルを自称する一般人の殆どは本も読まないし客観的な視座から議論を展開しないので、あらゆる議論や主張の結論部分だけがひとつまみされ、結果的にねじれる。

 

つまり結果的に「女性の女性役割を含めた女性性を尊重する」という思想になる。

女性のハウスワークには賃金が発生するべきだが、ハウスワークをするか否かの選択は自由であるべき。究極的には「自分の苦労が数値化されインセンティブが支払われるべき」という結論に帰結するのではないだろうか。

 

僕がリサーチした結果、大体海外でもアンフェvsフェミの対立はこの日本的フェミニズム言説を批判する物が多い。

しかし日米で違うのは、アメリカは最後に触れるアメリカンフェミニズムも含めて、これらが棲み分けされているということだ。むしろこの日本的フェミニズムはラディカル・フェミニズムに分類され忌避されている。

対し、日本ではクリスマスが輸入される家庭でキリストの誕生を祝うというニュアンスが形骸化されたように、あらゆる派生のフェミニズムが(論点を理解してないから区別がつかないのだろう)チェリーピッキングされ、結果的にキメラになってしまっている。

つまり

 

・女は男よりも強い("女も男と同じくらい強いしそうなるべき"とするリベラルフェミニズムの文脈)

・女性役割にはインセンティブが支払われるべき(マルクス主義フェミニズムの文脈)

・女性は女性役割から開放されるべき(ジェンダー平等の文脈)

・女性の社会進出(アメリカンフェミニズムの文脈)

 

という異なる主張が同一のパッケージで平然と主張されるため、日本の論客も非常に触れづらい腫れ物になっている。

言うまでもなく「性に役割を結びつけるのはやめよう」というフェミニズム本来のコンセプトと「女性に紐付けられた役割である家事をもっと尊ぶべき」という主張は相反する。

しかし、これらは日本だけではなく韓国や中国にも広がり(上野千鶴子がその一端を担っていると言える)若年の男女対立を深めている原因となっている。

 

正直わざわざ解説するほどでもないとは思うが、本記事では日本的フェミニズムにおける問題点を2点指摘する。

 

A. 家事にインセンティブを与える場合、市場の競争原理をどう解決するか

B. 男性に紐付けられた「稼得役割」はどうなるのか

 

Aについて、ハウスワークに賃金が発生するのであれば、当然その機能についての評価がなされる必要がある。マルクス主義フェミニズムにおいては「良コンディションを維持する労働力のメンテが稼得に寄与している」という論旨だったので、外に出て働く労働者のパフォーマンスについて検証されなければならない。

つまり、妻が行うハウスワークより他の誰かが行う仕事のほうが短時間で高いパフォーマンスを出せるとき、市場の競争原理においてその他者に家事労働をアウトソースしなければならなくなる。

家事労働を時給換算してこれくらいもらえるべきだと主張していた人が炎上していたが《労働者の裁量で何時間でも働いて良い》《その成果の効率に対して評価されない》《クビを切れない》のは天下りに代表されるような利権構造と変わらない。

このように「他にパフォーマンスが出せる労働者がいるのに高い賃金で雇い続ける」のは独占禁止法三条の談合の禁止として明確に規制されている。

つまりこの主張を貫徹するためには、すでに市場で競争しているハウスキーパーと同等のパフォーマンスを出し続けてしのぎを削らなければならない。そうでなければただの利権である。

 

Bについて、女性が女性役割から開放されるし、女性役割としてのハウスワークをしたとしてもそれを尊重すべき。という主張だが、男性役割として紐付けられた《稼得役割》は男の自由意志として放棄できるのか?

当然ながらそんなことをすれば家庭を維持することは出来ない。

この「《男性》ジェンダーロールから開放されるべきか」問題に言及がない時点で僕は日本的フェミニズムは論外と言える。

つまりこれはジェンダー平等でも何でもなく、女性に特権を与えるという差別的思想である。ということになるからだ。

 

また、これが差別的思想であるかどうかに関係なく、社会に良い影響を与えないということは、韓国を見ればわかる。

韓国では成人男性に兵役が課せられている。

そのため、大学を強制的に休学するか、就職活動期間が凍結するということが確定している。そのアファーマティブ・アクションとして就職を有利にするための軍加算点制度が存在していたが、それは男女差別として廃止された。

すると「女も徴兵しろ」という嘆願書に29万人の署名が集まったり(韓国の政府公式サイトでは20万以上の署名が集まった問題提起については何らかの声明を示さなければならないというものがある)世論調査で「男女対立は深刻だ」にYesと回答した20代は80%だったり、諸々の結果、2019、20年では合計出生率が世界最低を記録した。

 

これは《発展》に寄与する韓国人の男性役割を放置したまま、女性の権利拡充といった《道徳》を充実させた結果と見ることができる。

 

つまり日本的フェミニズムが求めているのは、利権や属性に寄与する特権であり。全国平均年収360万円であるバスの運転手が同和利権によって年収1000万に釣り上げられていたみたいなものである。

それはその属性に当たる人間に利権が発生するのは幸福度に寄与するし、生きやすい社会にはなるだろうが「それはそうだろう、利権を持ったら楽しいに決まってる」以上の意味を持たない。

 

このような利権や特権を要求する属性は女性に限らず存在するので、僕は特に問題とは思わないが、このような社会的意義に対する議論をかいた言説を真に受けて政治が運営されてしまうことは勘弁して欲しい。

 

③アメリカンフェミニズム

ようやくこの記事の本題に入るわけですが、

これまでの論点を整理すると

 

①家庭の維持には《稼得役割》に誰かが責任をもつことが不可欠である

②しかし《稼得役割》は男性に紐付けられたジェンダーロールである

③女性がジェンダーロールから開放されるならば、男性もジェンダーロールから開放されるべきである。


エマ・ワトソン的フェミニズムは③を主張し人権や平等を考える上では理想的ではあるが、空中に浮遊した《稼得役割》を誰が背負うのか?ということの現実主義的な解が示されていない。

つまり③を立てれば①が立たないというジレンマである。

日本的フェミニズムは③をそもそも問題視していないので論外である。

また男性に《稼得役割》を押し付け、女性のみがジェンダーロールから開放されようとすれば韓国のようなバックラッシュが事実として発生する。

これは当ブログの文脈で言えば《発展》を無視した《道徳》の拡充による《発展》の喪失である。

 

ではアメリカの主流派フェミニズムはこのジレンマ問題をどう解決したか?

 

女性役割である家事を伝統的保守の文脈で肯定するtradgirlがアメリカで炎上した。

日本的フェミニズムでは「女性を女性として尊重する」ことは肯定されるが、アメリカンフェミニズムでは炎上してしまう。

※余談だが、この女性自体は胸の谷間を強調したり1950年代の髪型で誇張したステレオタイプを全面に出しているので閲覧数を稼ぐためある程度炎上を許容している側面があるようにもみえる。

 

「女性を女性として尊重する」ことが徹底的に否定されてしまうアメリカンフェミニズムとは何なのか。

まずアメリカンフェミニズムでは女性は女性的役割から開放される。

しかし、男性は男性的役割から開放されない。

ここがエマ・ワトソン的フェミニズムと袂を分かつ部分だが、ここまでだと日本的フェミニズムと同じ。

では③の問題をどう解決するか、そこがアメリカンフェミニズムの大きな特徴なのだ。

 

アメリカンフェミニズムでは男性に紐付けられた《稼得役割》が、男性からは開放されない代わりに、男女平等に普遍化される。

つまり女性は家事を捨て男性と同じように《稼得役割》を背負うことで、ジェンダー平等を達成するのだ。

《稼得》は男性に紐付けられた性役割ではなく、人類に紐付けられた義務である。という主張である。

 

その文脈において「男性も稼得役割から開放されるべき」というエマ・ワトソンの主張は「甘ったれるな」と叩く材料になる。

 

この思想は、フェミニズムの歴史を追って理解する必要がある。

第一波フェミニズム(1860~1920年)は冒頭でも述べた通り、「男性のみに与えられた選挙権」を女性にも拡充しろ。といったような公的な領域における女性の権利回復が論点となった。

対して、第二波フェミニズム(1950~1980年)では女が男に媚びず、性的魅力を排除した一人の人間として男と対等に競争する存在を目指した。

第二波において根本的なジェンダー平等は達成された。とアメリカンフェミニズムは示唆する。

第三波(1990~)では、滅私的に競争のプレイヤーだった二波に対して、女性が自分の価値は自分で決める。という多様性を主張する文脈に変わっていく。

つまり、自分の性的魅力を肯定的に捉える女性がいてもいいし身だしなみは全く整えない自分の外見を主張しない女性がいても良いという価値観。

最近の海外ドラマや映画では各キャラクターが一元化された価値観に囚われずいかに多彩な自己表現をするかということがポリコレ的に重視される。

 

アメリカンフェミニズムは第二波の影響を色濃く受け継いでいて、なぜなら女性の社会進出を競争での生存にコミットして考えると必然とそうなるからである。

それにより、《稼得役割》が男女平等に分担された。

しかし、残ったハウスワークはどこに言ったのか。

前述した通り、アメリカンフェミニズムは女性性や女性役割を否定する。

「ハウスワークは移民にでもやらせとけ」という観点から、家事労働は基本的にアウトソージングする。

《稼得役割》を2人で担うのでハウスキーパーを雇うほうが片方が家事を担い、もう片方が仕事をするより収入が高い。ゲイカップルが稼得において二倍の馬力を出す。ということを男女の関係でも成立させようとする思想である。

その文化もあって海外では同性婚が受け入れられやすいというのもあるかもしれない。

 

ここまでなら、まだ女性の社会進出を徹底したらそうなるだろうという想像の範疇だが、アメリカンフェミニズムの異常性は次のところにある。

アメリカンフェミニズムは、出産すらもアウトソージングする。という現実的解だ。

雑誌VERY炎上問題で見えた「キャリア形成のための代理出産」の強烈な違和感(赤木 智弘) | 現代ビジネス | 講談社(1/4) (gendai.media)

 

日本的フェミニズムの文脈においては「子供を生むのは女性にしか出来ないのだから」と女性性を肯定する。

しかし資本主義社会においては、強者女性が弱者女性の生殖機能を買い叩くという搾取の構造により、家庭の枠組みを超えて《家事》《育児》を成立させてしまう。

男女平等の究極は、家庭を構成する《男》《女》すら《男》《男》や《女》《女》本質的には《人》《人》と代替可能になるということを意味する。

つまり女性が特権的に持ってる子供を生むという生殖機能すら取り外し可能な存在であるという事実を、経済合理性を追求したアメリカンフェミニズムは突きつけるのだ。

 

日本的フェミニズムの限界

大学で高等教育を受けた女性がその職能を最大限発揮し、家族における《稼得役割》として利益を最大化するためにも、家事や育児は教育水準の低い移民に最低賃金でアウトソースすれば良い。

という価値観を本気で貫徹しようとするフェミニストが日本的フェミニズムの文脈においてどれだけいるだろうか?

フェミニストの文脈における「女が男に勝つ」ということを現実主義的に徹底されたアメリカンフェミニズムを見ると、日本的フェミニズムが西洋のハロウィンに対する渋谷の乱痴気騒ぎのようにみえる。

 

正直個人的には「女が男に勝つ」というシナリオをここまで生々しく実現されるとドン引きだし、こうでもしないと男と対等に戦えないという格差はあると思うので、何らかのアファーマティブ・アクションが必要だという論調も理解できる。

 

日本的フェミニズムの本流であったマルクス主義フェミニズムでは、女性が二流労働者にしか慣れないのは「稼得とハウスワーク(論点としては育児出産)」の両輪を強いられるからだ。という格差構造を指摘した

現代の日本的フェミニズムではテキパキと男より高い生産性を示しキャリアアップし、かつ家事労働をしっかりこなす強い女性をパッケージしようとする妄想は先のような現実主義的アメリカンフェミニズムを見るとファンタジーにすぎない。

 

日本的フェミニズムを社会的に成立させようとすると次の2択をたどる。

α. 女性性を肯定しハウスワークに賃金を要求し、プロのハウスキーパーと競争をする。

β. 女性性を否定するかαに失敗することでハウスワークをアウトソースし、フルタイム労働者として男と競争をする。

 

当然ながら《発展》の足りない日本ではβへの移動圧がかかる。

現状のように女性の権利を拡充しつつ《発展》や《稼得責任》を放棄すれば、韓国のようになる。

 

したがって日本的フェミニズムは限界を迎える。

 

画像

令和4年版「男女共同参画白書」令和3年度男女共同参画社会の形成の状況

なぜ日本ではアメリカンフェミニストが増えないのか(一部はいると思うのでいないとは言わない)

日本で無償労働(家事)や有償労働(仕事)の支援を政府が積極的に行っているとは思わないが、80年代に比べれば福祉は充実している。しかし「女性の社会進出」はそれに相関しない。

2倍の稼得(つまりは両者フルタイムジョブ)でハウスワークは委託するという発想が生まれてこない。

つまり、日本女性はそもそも「社会進出」する気がないというのが統計でわかる。(それが悪いこととは言わない)

岸田がリスキリング発言でぶっ叩かれていたが、あれはアメリカンフェミニスト向けの政策として出したものの、日本には日本的フェミニストしかいなかったという世相の反映である。

 

なぜアメリカンフェミニズムが日本において発展しないかは、歴史を見ればわかる。

そもそもマルクス主義フェミニズムや第二波フェミニズムの基本主張はこうだ、「女は男と同じくらい労働力を提供できるのに、家事だの育児だの金にならない役割を押し付けられて不当に時間を搾取されている」という不平等感覚だ。

稼得能力があり自分の資産を形成できるのに、家庭に押し込められ家父長制によって家計は夫が握っている。という財産権の侵害を問題視した。

つまり自分も男と同じように働き、私有財産を構築したいというモチベーションが原動力となっている。

日本的フェミニストによれば家父長制によってマルクス主義フェミニズム的に経済的搾取をされているらしいが、日本は世界で一番妻が家計を握っている国である。

そもそも財産権を侵害されてないのだ

欧米ではアメリカンフェミニズムの文脈において専業主婦は無職扱いだが、日本では無職が家計ほぼすべての実権を握ることができる。

したがって、パートタイムジョブでお小遣い稼ぎをすれば自身の所有欲は満たされるため「てめえが財布の紐握ってるなら私にも経済活動させろ、私も財産築くから」という資産形成のモチベーションはそもそも発生し得ない。

 

アメリカンフェミニズムの文脈で生涯キャリアを気づき「競争で男に勝ち続ける」という意味での《社会進出》を、日本的フェミニストは貫徹する意思がないのにそれを「やってる感」で主張している。

思想なき理想主義的な主張を現実的に整備しようとする現代社会が加速すると、日本的フェミニズムはやがて限界を迎える。

 

個人的に思うこと

このような現象は男女関係なく日本人の特徴として問題解決や論点を整理することができないという特徴に起因すると思いますね。

「何が問題なのか」を根本的に理解することが苦手。男女関係なく

 

マルクス主義フェミニズムや第二波フェミニズムの論点は

《女も男と同じ労働力を提供できる》のに《家庭に押し込められて、本来稼得行為に当てるはずだった時間を搾取された》であって

つまり社会進出とは《女も男と同じ労働力を提供する》ことを意味するのに

 

《女も男と同じ労働力を提供する》気がないのに《家庭に押し込められて、本来稼得行為に当てるはずだった時間を搾取された》ことだけを問題視するのが日本的フェミニストです。

したがって、《女も男と同じ労働力を提供する》ためのリスキリングを政府が支援しようとするとブチ切れる。

 

これは女性が~というよりネトウヨやパヨクと呼ばれる人たちにも見られるように「社会はこうあるべき」や正しさを定義しようと試みるも、結局自分視点での損得の視座から抜け出せずに耳障りのいいことだけをピックするので、結果的に文化キメラ的な言説を論理破綻の自覚なく発信してしまうということにあるんですよね。

 

根本的に社会進出する気がないのに「女性の社会進出!」「女は男に勝てる!」などとアメリカンフェミニズム的な価値観を政府にコールして大丈夫かと思われるかもですが

政府が現実主義的にコミットしたアメリカンフェミニズム的政策を出してくるとぶっ叩いて引っ込めるので問題なさそうです。

 

本人たちは無自覚でしょうけど、やってることは「女性の特権」を獲得することであり、本質的には差別主義思想なんですよね。

 

僕個人としては、思想は自由であるから「自分の属性に特権を与えよ」と主張するのは別に問題ないと思うんですよ。

女性トイレや温泉にトランスジェンダーが入れるべきか?みたいな論争でも圧倒的に「排除しろ」という主張が指示されましたけど、これはアメリカではTERF(トランス排除型ラディカルフェミニスト)に分類されます。

つまり、ジェンダー平等を訴えておきながら女性にのみ紐付けられた権利を開放する気がないことの証左なわけです。

「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」と言ってた新井秘書官と同じで、この国民にしてこの国ありって感じなんですよね。

 

これについての反論として「女性に被害が及ぶ性犯罪者が入ってくるかもしれない」というゼロリスク論で補強してますが、この記事の頭で提案した属性置換を試みてください。

「黒人は犯罪率が高いと統計的に現れているので入店を拒否する」

という排除が成立しますか?差別ですね。

まぁイレズミが反社かもしれないからトラブルの元になるという思想で温泉から排除している差別運用を最初から行ってるし、何なら女性専用車両とかも欧米の価値観からすれば完全に差別ですけど

・痴漢がいるかもしれないから男全員を排除する

・金髪はガラが悪いから、全員黒髪に染める

みたいな運用を平気でできるのが日本人だから、差別思想がありますって認めたら良いのになぜ正しい側であろうとするのか。というのはおそらく防衛機制的な感情的振る舞いなのでしょう。

 

僕はジョックヤングの過剰包摂社会論とかを見て、排除のない社会の問題点も感じてるから差別運用すること自体やめるべきなのか?みたいなそもそも論から検証していきたいのに

差別と言われたら自分が否定された気がするから「これは差別じゃない!」って神経症のようにわめき散らかす反知性しぐさはみっともないから辞めてほしいですね。

差別は差別ですよ。

 

僕はこういう論理破綻を起こしているような妄言を政治に反映する政府が悪いと思います。

例えば、生理休暇は欧米には存在しない。

そもそもインフルエンザにかかったら病院に言って安静にする病欠になる。というように生理休暇も病欠の制度を拡充すれば十分に包括可能。

ということを言うと「男に生理の苦しみがわかるのか?もっと勉強しろ!」と叩かれるし、実際日本の政治家は男しかいないのでその暴論に押し通されてまったのでこのような悪法がまかり通ってしまう。

日本的フェミニストの文脈で言えば「生理で苦しむのは女だけだから不平等、だから女性に特権を付与すべき」となるのでしょうが

そもそも男同士でも体調を崩しやすい人とそうでない人で病欠の数が違う上に、女同士でも生理の重さは異なるので性別による格差は有意差取れない。

しかもそれによって生理の軽い女は重い女を理解できるのか?という議論も無視されている。

ナースも生理休暇がとれる職場ってあるの?:看護マンガ・ライフ&キャリア記事|読み物|ナース専科 (nurse-senka.jp)

女性社会の看護師ですらこの結果なわけです。

そもそも女だからといって自分の体調を完璧に把握できるのか?という話で

「ただ生理が重いだけ」なのか「子宮内膜症の症状」なのかを区別するのは医学的知見が必要、そのためにも病院に行ったほうがいいのでやはり病欠を拡充する方が良い。

なので現行の生理休暇のような、男の管理者の知識差を利用して病院に行かなくても休みが取れる(取れないところもあるが)というのは女性にだけ付与された利権でしかないわけです。

これは識字能力のない市民に対して不平等な明文法をしたためた中世の貴族とやってることが一緒ですよ。

 

このような「特定の属性に対して特権を付与する」ということが当たり前にまかり通ると利権の巣窟になるわけです。

若年女性のセックスワーカーに公的な資金を投入するNPO法人は成立するけど、若年男性のセックスワーカーを支援する団体には税金が降りないとか、ジャニーズが雇用関係を利用した児童買春的なことは問題視されずジブリの置物にセクハラしたとかチンカスみたいな話題で盛り上がったりとか

このような不均衡な社会構造になるのは、ひとえに男しかいない政治家が実情を理解せずに物事を決めるせいだと思うんですよね。

(女性への権利に対してゲタを履かせないと理解が足りないと思われるんじゃないかというキョロ充しぐさと千ンポ騎士の文脈で)

だからこそ僕は議員の数を男女均等にするクォーター制には賛成してるんですよ。

女性政治家が過半数の国会で生理休暇みたいな悪法が成立するのか。というね。

 

 

人権や平等について語るとき、馬鹿でもわかる検証方法は属性置換を試みることです。

特定の属性が一方的に権利を得るといった立法を良しとしていると一生シーソーゲームをするだけです。それを主張するのは言論の自由ですが、自分の主張は社会的意義があると神経症的に思い込むのではなくで、社会全体にとって良い効果をもたらし得るかという視座をしっかり持ちましょう。おわり。