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【GPT-4】けしの花コミュニケーションは演算可能であるという現実【ChatGPT】

 

いきなりケシの花コミュニケーションなどと言われて

『またこいつの造語症の発作が始まったか……』と思われたのではないでしょうか、

しかしあなたもケシの花コミュニケーションをどこかで体感しているはずです。

具体例を出すと当事者をその陶酔的な眠りから覚ましてしまうので出来れば避けたかったのですが、具体例がないと意味不明な言説になってしまうので仕方ありません。

 

アイドル、YouTuber、Vtuber、ホストクラブ、キャバクラ、風俗、なろう系小説、中身のない恋愛漫画、エロ漫画、理解のある彼くん etc...

 

大体言いたいことがわかったかと思います。これらの特徴は

・享楽的である。

・あなたのアイデンティティや属性、言動を否定しない。

・現実逃避的である。

・これらのコンテンツは自発的にネガティブになることはなく、またなったとしてもあなたのネガティブな感情を肯定するという文脈でそれが成立する。

 

といったものがあり、まさに麻薬のような陶酔をもたらします。

上記の例は全身麻酔的コミュニケーションで限定的ですが、局部麻酔的コミュニケーションはもっと広くに普及しています。

・アーティストがその作品のみならず、本人の柔和な人格が評価される。

・お笑い芸人が「誰も傷つけない笑い」という謎の軸で評価される。

・芸能人やプロスポーツ選手のプライベートでの素行の悪さが叩かれる。

・ある作品について「裏切り」や「鬱展開」のようなものが今後起きる場合、作者は事前に注意書きすることを求められる。

最も普遍的な麻酔的コミュニケーションとして社交辞令が挙げられます。このようなモルヒネ的営みは社会の基幹を支えていると言っても差し支えないでしょう。

 

ホストがいることである女は現実逃避的コミュニケーションに安楽を見出し、風俗嬢やキャバ嬢になることを厭わなくなります。彼女らがいるおかげでおっさんたちは、ハードワークを厭わなくなります。

このように辛い現実の"鎮痛剤"として、けしの花コミュニケーションは機能します。

 

 

社会はなぜアヘンを必要とするか

これは「ハレとケ、ケガレ」で説明できます。

晴れ着、ハレの日といったようにハレは非日常、イベントを意味します。

対し、ケは普通の日常を意味します。

一般的に「ハレとケ」を知っている人はいると思いますが、そこには実はもう一つ「ケガレ」が存在します。

ケガレとは気枯れと書きます。

つまり人間は日常(ケ)を送ることで気が枯れていきます、そのガス抜きとして非日常(ハレ)がある。

という『ケ→ケガレ→ハレ→ケ』の循環を民俗学者の桜井徳太郎は提唱しました。

人間は本質的にイリーガルな存在であるから、社会的(リーガル)な存在であるためには部分的なイリーガル(お祭り)が不可欠である。ということ。

これはピラミッドを建てる時に併設されたビールの醸造所によって、昼は労働、夜は酒盛りというサイクルで奴隷を働かせたときから変わらないのでしょう。

 

これらを踏まえると「不要不急の外出自粛」などと言えてしまうことが、いかに人文知の理解がかけていることなのかわかると思います。

しかし理念なき人々は痛みを拒むので、「怪我をするようなお祭りはやめよう」という風に伝統的な《ハレ》を消して行きます。

そうしてガス抜きを失ったケガレを手当するために、けしの花コミュニケーションを対症療法的に行うのです。

 

大麻を栽培する農家

けしの花コミュニケーションがけしの花たる所以は、それは《治療》ではなく《鎮痛》である。という性質にあります。

愛に飢えた孤独な女性が自傷的な振る舞いをしていたととして、本当に必要なのはカウンセリングによる精神の《治療》であるが、現実としてホストクラブやスパチャを軸にしたライバーのような《鎮痛》に流れてしまうのは資本主義の"歪"と言えます。

心理士がそのカウンセリングによって好かれた対象と「カウンセラーとクライアント」以上の関係になってはいけない(多重関係の禁止)と、その好意を自己の利益に利用してはいけないという(乱用と搾取の禁止)を職業倫理として定めているにもかかわらず、その2つを破りまくりの職業が金も性欲も満たしているというのは何とも社会の不条理を感じざるを得ないが、それまでに"けしの花"の誘惑は強いのです。

 

このようにして大麻栽培人(どうやらインターネッツでは広告事業者をこのように呼ぶ文化があるらしい)は暴利を貪ってきました。

なぜなら「けしの花コミュニケーション」は属人的な職人技によるもの

そのように信じられてきたからです。

 

人はどのようにして"救い(実態は鎮痛)"を感じるか。

それは「この人なら自分のことをわかってくれる」という代替不可能な密着にありました。

したがって大麻栽培人はそのコミュニケーションと均整のとれたアドリブ力でその人の痛みに的確にコミットしていきました。

そしてそれは人間にしかできないから多額の金銭が動くビジネスたりえたのです。

 

オピオイド・システム

さて、そのような鎮痛剤的な機能は、人間のコミュニケーションのみによってもたらされるわけではありません。

フィルターバブルやサジェスト機能がその典型例と言っていいでしょう。

見たいものだけが表示され、見たくないものはブロックし見えなくする。このようなオピオイド的な陶酔に浸ることで、刺激のないユーザーエクスペリエンスになれきったユーザーは次第にマスそのものもフィルターしようとします。

昨今のキャンセル運動はこの側面もあるでしょう。

つまり何かしら大義を掲げるものの、その思想の醸成にはフィルターバブルによって増幅(エコーチェンバー現象)された自己批判性のない知的営為であるため、時代が立つに連れて「自分の気に入らないやつを出演されるな」、「自分の気に入らないやつと仲良くするな」の癇癪の発露でしかなくなっていきました。

まさに鎮痛剤が切れた患者が痛みに耐えられず暴れ出すようなものです。

 

しかし、鎮痛剤さえあれば労働者はその労働力を社会に還元するのです。

それが搾取的であったとしても、アルカロイド的陶酔によってやがて明日を忘れるでしょう。

アメリカでは比喩ではなくガチの麻薬なので笑い事ではないのですが、このような現実逃避的振る舞いを国民全体が取ることによって民主主義は致命的なダメージを負います。

それがトランピストでありブレグジットなわけです、彼らはオピオイド的に差別や排除を接種し結果的に国家を傾かせました。

 

PayPalの創業者といえばイーロン・マスクを思い浮かべるかもしれませんが、もう一人ピーター・ティールという人がいて、元々彼ら二人の持つ企業を合併させたのがPayPalです。

この二人は上記の社会について思想を持っており、この思想こそが今後の未来を決定づけているように思います。

 

まず2016年のトランプ当選を、アメリカのエスタブリッシュメントは予想できませんでした。

Twitterを始めとした様々なメディアのフィルターバブルもとい《オピオイド・システム》によって、思想が分断されていたからです。

つまり世の中の人間は社会をどう"否定的に"捉えていてその数はどれほどのものだったのかが表在化していなかったからです。

これは陶酔的に「我が国はこんなにすごい」という情報だけがピックアップされ、世相が正しく反映されなかったためです。プラットフォーマーの左翼的な検閲もそれに寄与しました。

 

イーロン・マスクは世界最大級のSNS(メディア)がそのように振る舞うことを問題視しました。

たとえ差別や暴言であっても、それを表明する自由をプラットフォーマーが保証しなければ世相を正しく反映することは出来ない。

たとえ自分にとって都合の悪い事実や、目を覆うような差別や偏見であっても、それを排除して見えなくしたところで社会問題の根本的な解決にはならない。したがって表現の自由を保証すべきである。

という思想のもと、Twitterを買収しこのようなフィルターバブルを取り上げようと躍起になっています。

 

対しピーター・ティールは薬中的な振る舞いをする国民をいかに合法的に退場させるかについて考えました。

すなわち、愚民にはドラッグとゲームを与えて政治的な意思決定に参加してくるな。というスタンスです。

人間強度の高い1%の人間がユニバースを統治し、残りの99%はメタバースに幽閉する。という思想のもとMetaに投資を行っていました。

 

これらを「優秀な人間」「陶酔を求める愚民」の対立構造に持っていくのは優生思想じみていて余り好きではないので、「強い人」「弱い人」くらいの分類にします。

ルソーが提唱した近代民主主義国家は、全ての国民が参政権を持つことで当事者意識が芽生え、やがて西洋哲学上の「強い人」へ向かっていく移動圧がかかるだろうという前提がありました。

しかし、最近はその理想とのギャップが特に顕在化しているように見えます。

つまり「弱い人」が「強い人」にならないまま陶然と社会を歪な方向へ導いているという理解です。

 

これらは《オピオイド・システム》の瑕疵と、ある種の肉体労働的なけしの花コミュニケーションの終わりなき循環によって、根本的な問題を放置したままずっと課題を先送りにしていました。

 

ここでChatGPT(具体的にはGPT-3,GPT-4)が登場します。

このような大規模言語モデルが突きつけたのは

「けしの花コミュニケーションは演算可能である」という現実です。

 

つまり、大麻栽培人の属人的な職人技によって成り立っていた《慰め》が、機械学習の確率論によって再現できてしまう。ということである。

これによって、ホスキャバ、You(V)tuber、アイドル等のレスポンスを貰うために多額の金銭を動かしていた営みが、システムによって低コスト化大量生産できてしまうという可能性を示したということになります。

※実際には「生身の人間である」というブランドがあるためその職能自体が脅かされることはないが、そのサービスを受けるために無理をして搾取され続けるような経済弱者には圧がかかり、システムに包摂されてゆく。という論旨です

 

演算可能な陶酔

大規模言語モデル(ChatGPTなるもの)の新規性は、その「あいまい性」にあります。

したがって、一問一答的な質問をしてその答えの正確性を検証する。みたいな使い方は本質的ではありません。

というのもこのAIの回答は《論理によって》導き出されたのではなく《確率によって》導き出されているからです。

詳しい仕組みの話をすると長くなるのでやりませんが、この語句の後にはこの言葉がくるというのを莫大な文章データから解析し、その確率を計算して表示しています。

ただ、統計上一番多い語句だけを抽出すると再現性の高い硬い文章になってしまうので、あえて統計的に使用頻度が少なかった語句も乱数で拾うことにより、より人間的な論理に精緻でない細かいところでデタラメな感じを表現することに成功しています。

 

したがって、答えのない問いに対しておおよそ多数が正しいと思ってそうなことを返す能力が高いので、そういった回答を引き出すほうがよいのです。

 

と言った余談は置いておいて、つまり大規模言語モデルはその質問から文意を読み取るのではなく、統計的に「こう言ったら期待通りの回答だろう」というものを導き出しているので、刺激のいらない《鎮痛》を求める人間にマッチしているのです。

 

かく言う僕も作業用BGMとして様々な配信者の雑談配信を聞くことがあるのですが、少し前の時期になると「今年受験なのでなにかアドバイス(エール)ください!」「今年就活……」的なコメントが来ています。典型的な薬中しぐさですね。

例えば大喜利や感想を求めるコメントには「なにか面白いことを引き出したい」という偶発性を期待する意図があります。

しかし上記のものが期待しているのは本質的には定型文です。

 

 

偶発性のない定型なコールアンドレスポンスに《安心》を求める人間は、実態はパターン化されているという事実を突きつけられています。

自分だけが社会で生きづらさを感じている、自分だけがこの世で一番孤独なんだ。

と彼らは思いこんでいますが、実態は人と会話をしたことがない。つまり本音でぶつかりあったことがないためにその他者からも同じように自身のコアな悩みをさらけ出されたことがない。したがってこの苦しみは自分固有のものであると錯覚しています。

しかし、それは100人いれば90人が抱くような凡庸でありきたりな欠乏感でしかない。

にもかかわらずフィルターバブルやポリコレ的キャンセルによって「自分だけがその欠乏感」を持っていると誤認しているのが問題なのです。

「弱みを見せればマウントを取られる」、また「ある欲望を抱くことは誰かを傷つけているのと同じなんだ」というふうに吹聴され、自分は順風満帆で精神が安定しており課題を上手くさばいているフリをすることが求められます。

このギャップこそが、近未来AI社会において致命的な錯覚をもたらします。

 

つまり、あなたの悩みはごくありふれたもので大規模言語モデルで機械的に手当可能であるが、あなた自身は自分の悩みが特別で専門的な手当が必要だと認識している。というギャップです。

理解のある彼くんやオタクに優しいギャルは、あなたのウィークポイントを適切に察知して手当してくれるからこそ「あなたしか自分のことをわかってくれない」という神性を見出していたが、今後大規模言語モデルにおいてその人が平凡であればあるほど、人間よりも人工知能のほうが適切にフィットした《慰め》を与えてくれるという特異点に到達します。

「あなたにしかわかってくれないことの量と質」によって《運命性》を見出していたのに、それが演算可能であると機械にたいしてフォールスポジティブ(センサーの誤作動)が働いてしまいます。

 

これがピーター・ティールのいう新反動主義的な「薬中をドラッグとメタバースに漬け込んでおく」という社会を可能にします。

近未来の「弱い人」は酒や煙草やドラッグも風俗もギャンブルもやらないでしょう、だた甘い言葉に依存しているのです。

このような陶酔が機械的に手当可能になると、為政者にとってこれほど都合のいいことはありません。

パンとサーカスの自動化によって、その陶酔の中で安楽的に労働力をその組織に提供しうるからです。

 

このようにして誰の声も届かない(大規模言語モデルのほうが自分のことをよくわかってくれるから)メタバースに閉ざされた《弱い人間》と、ユニバースで競争することを望む《強い人間》がお互いを認識することが出来ないレベルにまで分断される社会が近未来に訪れます。

 

さて、このような社会において『人間性』とは何なのだろうか?

 

陶酔的なコミュニケーションに閉ざされ「国家を維持するための国家」のシステムに取り込まれた植物のような弱い人間と、「社会はどうあるべきか」について争う動物的な強い人間、どちらを指してヒューマニティと呼べるのか。

 

ポリコレやフェミニスト、またそれにかかわらず自己決定権を奪うような政策を指示する人々(自転車にヘルメット着用義務化、大麻違法化、不同意性交罪、AV新法等)は本質的には前者です。

つまり「結果的に後悔したとしてもそれはあなたの選択である」という自己決定権の尊重を重視しない、「結果的にあなたのためなら、あなたに自己決定権はなくても良いでしょう?」という社会を望んでいます。

つまりその究極はけしの花コミュニケーションに閉ざされたメタバースです。

あなたには深い喜びがない代わりに、ささいな不愉快すら訪れない。そのようにして微妙に快適な安楽の中で、社会の歯車として包摂されるのです。

 

昨今の大規模言語モデルは社会にそのような可能性を示しました。

 

僕は複雑な思いです。

僕はルソーやニーチェの信者なので、西洋哲学における超人(強い人)を目指す生き方に賛同しています。

昨今の社会を見ると、確かにピーター・ティールのような新反動主義に傾きつつあるのも事実です「こいつらは笑気のガス室送りにした方がいい」と

 

しかし、もしあなたが《強い人》側で、あなたの身近な人がこのような《弱い人》的な振る舞いを尊ぶ人種だったらどうでしょうか?

その人に超人思想を説く事自体が、その人を不幸にさせてしまいます。

というよりそもそも大規模言語モデル(理解のある彼くん Ver. 2.0)に寝取られます。

 

近未来AI社会においては、そのAIをいかに有効活用するかもミクロでは大事な論点ですが。

人間的営みとして《弱い人》にさよならを告げる、もしくは《強い人》の思想を説く準備を勧めていかなければならないと思います。

 

僕はユニバースに地に足をつける一歩として、そのバブルの壁を破る

つまり「見たくないものを見る勇気」こそが重力に逆らう足となりうると考えています。