何ということだ。もっとも軽蔑すべき人間の時代が来る。
もはやみずからを軽蔑することができない人間の時代が。
見よ。わたしは諸君にこの最後の人間を示そう。
『愛って何? 創造って? 憧れって? 星って何?』
──最後の人間はそう尋ねて、まばたきする。
そのとき大地は小さくなる。
そしてその上で、一切を小さくする最後の人間が跳ね回っている。
その種族は地蚤のように根絶やしがたい。最後の人間はもっとも長く生きのびる。
『僕らは幸福を発明した』
──最後の人間はそう言って、まばたきする。
病気になること、不信をいだくことは、彼らにとっては罪である。
用心してゆっくりあるく。
石に躓いても、人に躓いても、そいつは世間知らずの阿呆だ。
もはや貧しくも、豊かにもならない。どちらにせよ面倒なことだ。
いまさら誰が統治しようとするか。いまさら誰が服従しようとするか。
どちらにせよ面倒なことだ。
牧人などいない、畜群がひとつあるだけだ。
誰もが同じであることを望み、誰もが同じだ。
彼らは悧巧で、世間で起きることなら何でも知っている。
だから彼らの嘲笑の種は尽きない。口げんかくらいはする。
だがまもなく仲直りする
──そうしないと胃に悪いから。
小さな昼の快楽、小さな夜の快楽をもっている。
だが健康が第一だ。
『僕らは幸福を発明した』
──最後の人間はそう言って、まばたきする──
『ツァラトゥストラかく語りき』
-フリードリヒ・W. ニーチェ-
岸田は言った「安倍元首相は憲政史上最長の総理大臣であるから国葬に値する」と
しかし、義務教育を受けた人間であれば成熟した民主主義国家の元首の在任期間に制限があることはご存知のことだろう。
大体の先進国は連続2期までと決められている。それはなぜか?
「長期政権は腐敗する」ということが民主主義国家の経験則として理解されているからである。
そしてロシアではその任期制限撤廃の改憲案を承認したことで大統領任期を永続にし、中国でも同じように任期についての条項を削除した改憲案を成立させた。
国家元首の期間を延ばすことを良しとする行為は社会主義国家の論理なのである。
しかし、日本ではこれに共産党が反対している。
なぜなのか?社会主義への移行を目指しているのだからこのような政府の動きは歓迎すべきではないか?
"賛否は置いておいて"英雄的な軍人や大きな社会貢献活動に奉仕したものではなく"一政治家を"国葬するという発想は共産主義的だと思うんだけど、共産党がそれに反対していて「民主」を冠する政党が全て賛成しているのが奇妙な構造
— ぎ~く (@kusonote) 2022年8月26日
この国に論理的思考などない
岸田は言う「新自由主義からの脱却」「新しい資本主義」
この国がいつ新自由主義になったのか?後者は言及する価値もない戯言である。
この記事では特定の政党を批判する目的はない、ここでの論点はあまりにも言っていることと実態がかけ離れている社会をどう捉えるか、ということである。
もはや「言葉の意味」を考えるだけ無駄なのである。あるのは言葉による「装飾」だけだ。
政治色の強い記事と思われるのが癪なので、次は企業ベースで見ていこう。
例えばNHK、Webページにはこんなことが書いてある
公共放送とは営利を目的とせず、国家の統制からも自立して、公共の福祉のために行う放送といえるでしょう。
NHKは、政府から独立して 受信料によって運営され、公共の福祉と文化の向上に寄与することを目的に設立された公共放送事業体であり、今後とも公共放送としての責任と自覚を持って、その役割を果たしていきます。
"国家の統制から独立して"、"公共の福祉に寄与する" これらの妄言じみたポリシーを貫徹していると評価する国民がどこにいるだろうか?
また大手新聞社を見てみよう(具体的な新聞名を出すと政治色が強くなるのでそういうのを抜きで語りたい。)
第四の権力として政府を監視するというジャーナリズムを貫徹しているとは到底思えない体たらくで、記者クラブや軽減税率という特権(エサ)を与えられることで政府を監視する役目を放棄してしまったがために国民からそっぽを向かれ、新聞が売れないので年々不動産収入の割合が増えていくという新聞社と名乗るのを何時辞めるのかな?といった惨状である。
そしてスクープは全て週刊誌(文春)に先を越されるため、君ら何のために存在しているの?という話にもなってくる。
なぜこのようにもっともらしい看板を掲げておきながら恥晒しのような仕事ばかりしているのか
それは国民ベースで『理念がないから』である。
理念がないから、理念に背くという生き方を恥とも思わなくなる。
言っていることとやっていることの矛盾に対して鈍感になるのだ。
このような理念のない人間は、動物へと回帰することを正当化し始める。
すなわち「生きてさえいればそれでいい」という畜生の道徳を振りかざし始めるのだ。
アメリカやイギリスを筆頭にコメディアンは政治や社会への批判や風刺をテーマにしていて「ダサい生き方は馬鹿にしても良い」というのが根底にある。(尊厳ある生の追求)
— ぎ~く (@kusonote) 2022年9月14日
日本にはそれがなく「ダサい生き方でも権威や多数派について利益を最大化するのが賢い生き方」という畜生の道徳が支持されるので
自粛警察などがその典型といえる。
理念がなく「尊厳ある生の追求」という概念がないので、とりあえず権威に従うことで安心を求める。(宮台真司的表現を用いると"神経症の病状を呈している")
つまり「健康で文化的な最低限度の生活を放棄して引きこもってでも呼吸をしていろ」というロジックを支持してしまうのだ。
理念を持つ人間の口からは「不要不急の外出の自粛」などという言葉は出て来ない、不要不急の外出こそが人権の本質であるからだ。
『寿命が尽きるまで息してろって? それが生きていると言えるのか?』
『一生壁の中から出られなくても……』
『飯食って寝てりゃ生きていけるよ…
でも…それじゃ…』
『まるで 家畜じゃないか…』
進撃の巨人はこの「生きていればそれでいい」という価値観を「家畜」と表現し、尊厳ある生の追求をテーマの一つとしている。この哲学が、海外ウケした理由の要素ではあるのだが、日本では「シナリオが難しい」「エレンが何をしたいのかよくわからない」といった感想が多々見受けられるのが、このような理念をそもそも概念的に持っていないからだろう。
しかし、この理念なき人々の増加は日本に限った話ではない。
アメリカでもオルタナティブファクトとか訳のわからないことを言い出して言葉と実態が乖離し始めているし、世界的に、というか人間が、そうなりうるということである。
冒頭で引用したニーチェのツァラトゥストラでは進撃の巨人と同じように終わりの人間(最も軽蔑に値する人たち)を畜群と呼称している。(僕はこの共通点から作者はニーチェを読んでいたと予想している。)
コロナ禍の社会の中で発見したのは「病気になること、不信をいだくことは、彼らにとっては罪である。」という一節だ。まさに自粛警察やその傾向を呈する日本の人々を言い当てているというのだ。
しかしこれは、ドイツ人であるニーチェがヨーロッパの人々を観察して得た結論である。
つまり、時代や人種に関係なく起こりうる人間の特性といえる。
だがこのような家畜……もとい"おしまいの人々"こと理念なき人々だって自尊心はある。自分は優れた人間であるという自尊心が。自分は正しい側であるという自尊心が。
しかし、"どのようなものさしを持って"自分の正しさを決めるのだろうか?
理念があればそれは簡単だ、《こう生きるべきだ》を掲げて人を判断すれば良い。
問題は彼らは正しくありたいのに、その正しさを定義する第一義を持っていないということだ。
自分で価値を定義できないので、当然他者を頼ることになる。権威を頼ることになるのだ。
あるものをは収入を、あるものは閲覧数を。
しかしこれらは市場で勝ち続けないと維持できないアイデンティティで、もろい。
したがって人前に立つ人間は病んでいくのだ。
理念がないから気づかない、発信したい信条がないのに発信力だけ持ってどうするのか?
家畜……おしまいの人々、もとい理念なき人々にとってそれはどうでもいい、ただ影響力という数字が相手より多いという状態が自己そのものなのだ。
しかしそれは相対価値であり、万人がその方法で自己を確立できない。
畜群は考える。永続的に作用するもので、自己を確立してくれる権威はないだろうか?
あるものは肩書を、あるものは学歴を、それすら手に入れられないものの最後の拠り所として国籍が。
これらは、脅かされることはない。たとえ中学レベルの数学が解けなくても高学歴という肩書はゆるがない。なぜなら現在の実力を証明する手段ではないからだ、自分が優れていると永続的に保証してくれる権威としてこれを使っているのだから。
しかし、推薦入試や親ガチャ(親の経済力と学力に相関があるという研究結果)を恐れている。それによって自分を保証してくれる権威本体が揺るがされるからだ。
そのようにして永続する権威によって自己を確立し、安心を得た畜群は次にこう考えた。
「こんな優秀な俺には、優秀な組織こそがふさわしい」と
そうして理由なく大企業に入るのである、理念がないのでメディアでもITでもメーカーでもなんでもいい、自我同一性を再確認するためだけに社会的影響力の高い組織の属することになる。
例えばそれが大手新聞社に入るから、上記のような結果になるのである。
「第四の権力として政府を監視する」というジャーナリズムを貫徹する人間だけが大手新聞社に集っていれば、これらが社会的責任を放棄することはなかったし、理念を貫徹し社会的役割を果たしただろう。
しかし、能力はあるが「優秀な己を再確認するためだけに、優秀だと思われるような肩書がほしい」だけの理念のない動物が組織に入るとどうなるか、まず組織運営全体が保守的になる。
「有名な大企業に入っている」という肩書きが欲しいだけの人間がジャーナリズムを貫徹するわけがない、そんなことをしてもしクビにでもなったら自分のアイデンティティが脅かされてしまうからだ。したがって、彼らは「自分のアイデンティティ」を保持する方向にその能力全てを注ぐ。
「生きてさえいればそれでいい」という畜生の道徳である。
NHKも同様である。
理念のない人間は自分の価値を自己規程することができない、規定するためのものさしを自分で決められないからだ。
故に権威や「他者による根拠なき価値観」に自分の価値をゆだねる。そのようにして本来の社会的役割を見失い自分の価値のよりどころを維持するためだけに神経を注ぐ。
そのようにして理念なき社会に飲まれていく。
……
「税金を無駄遣いするな」という主張は誰しもが納得できる。
例えばパヨク的な人がオリンピックの不正を追求したとする。しかし、colaboの不正疑惑を追求しようとする動きに対しては「いや、そんなことよりモリカケ桜になんか言えよ」となる。
逆もしかりだ、colaboの不正疑惑を追求する人の中にはネトウヨ的な人がいて与党の税金の無駄遣いに対しては拒否反応を示す。
僕からすれば「税金の無駄遣いやめろ」でどちらも叩ける話なのだが、彼らはダブルスタンダードであることを自覚なしにそれらを切り分ける。
僕は中学のとき、右翼と左翼の意味が理解できなかった。
お互いがレッテルを貼るときに掲げる陣営としての機能しかもたず、僕にはどちらも同じに見えたからだ。
保守思想を貫徹するならば海外由来の新興宗教を許容することなどありえないし、革新思想を貫徹するならば自分と異なる文化を持つ相手を弾圧したり規制しようとはしないだろう。
そのように理念を貫徹する人間は少なくともTwitterにはいない(観測できないほど石が多すぎる)
お互いがお互いの陣営を"論破"することで自分のアイデンティティを確立しているだけにすぎない、ツイフェミと呼ばれる人種も同様である。
彼らは思想めいたものの看板を掲げているが実態は何もない、ただその看板が攻撃されることによって自分のアイデンティティを脅かされることを恐れていて、それに対する防衛反応を示しているにすぎない。
……
理念なき社会の問題点は、プレイヤー全体が自分のアイデンティティを保持し続けるためにふるまうという点である。
それが「俺が絶対的にどれだけ不幸でも、となりのアイツより優れていればよい」という個人主義となり、やがて自己責任論へと収束する。
自己責任論は「自分の失敗を社会のせいにしない」という機能を持たせるために生まれた畜生道徳の一つだが、それによって「俺の成功は俺のもの」というふうに公共心を奪ってしまう。
公共心がないと、自分の能力や経験、知識はすべて「俺はお前より優れている」ということの証のように消費され、社会に還元されなくなる。
それによって理念なき社会は終わりの大地へと向かってゆく。
このように理念なき人々の「空っぽな価値判断」が社会にもたらす害悪を軽減させるために宗教は機能する側面があるように思う。
カードゲームにおいて自分でデッキが組めない初心者に対する構築済みデッキのようなものだ。
キリスト教圏では才能のある子どもをギフテッドと呼び「神から能力を与えられたのだから、社会に還元するように尽くしなさい」という教義によって公共心が生まれるように作用する。
特定の宗教に対する信仰の薄い日本ではこのように構造によるストッパーがないため、理念なき社会が加速する。しかし最前線を走っているだけで各国もやがて追いついてくるだろう。
……
理念なき社会がやってくる。
そこでは言葉が形骸化する。もはや何を言っているかは問題にならない。
社会貢献に努めます!と高らかに叫び、間髪入れずに道端でウンコをする恥を晒したとしても誰も指摘しないだろう。
それが自分のアイデンティティを脅かすかどうかにしか誰も興味がない。
理念なき社会がやってくる。
そこでは出来事が形骸化する。何も起きない食って寝るだけの生活でも、世界一不幸な人間になることができる。
地球の裏側でどれだけ人が殺されても、それがレスバに勝てる有効な事件であるかどうかが大事なのだ。
己で価値を定義できなければ、数字の上下に感情を支配され、自己防衛反応で攻撃性を示す醜い昆虫のようになる。
そこから発せられる言葉には論理がなく、自分を守るためにある。
そして理念がないから、文脈で理解することができず、言葉を拾って過激そうな言葉にまた反射的に防衛反応を示す。
理念がないのでイデオロギーによる団結が理解できない、人が思想に共鳴し行動を統一しているものはすべて宗教的に見える。
そのような宗教的なものは全て自分の頭を食い破る巨大な寄生虫のように見える。
自分を保証する権威としてでしか思想を認識していないので(今まで語った理由により言葉の意味はもはや理解されていない)”他の誰かが更に他の誰かの観念に感銘を受け影響される”という状況が直視できないのだ。
自分を保証する権威を外的に破壊され己自身もそれに犯されているように見えているからだ。
理念なき社会の生き方を考えなければならない。
それはつまり「お前はどうしたい?」という自己の内発的欲求からくる何かを探る作業が必要なのだ。
それがないと延々と繰り返す、自分のアイデンティティを脅かすようにみえる言説に反射的に攻撃性を示す昆虫のような生き方を。
そしてその自分を保証する権威は、誰かが権力を獲得するための労働力として搾取される。
そうして理念なき社会は誰も住めない終わりの大地へと変貌していくのだ。