フェミニストの本質とは、トランスティーンエイジである。
彼女らは建築をしない、エネルギー開発も革命闘争も漁業も林業もそのための科学、技術、工学、数学も学ぼうとしない、そもそも働いてもないかもしれない。
だが彼女らは言う「私を一人の人間として尊重しろ」と
これは衣食住が親の金でありながら「自分の意見を尊重しろ」とゴネる思春期の少年少女と同じである。
あとはこれを誰が言うか、ただそれだけの問題なのだ。
どうも、マンスプレイニングモンスター、ぎ~くです。
今回も元気に2万文字のマンスプを行っていきたいと思います。
映画、バービー観た。最初の方はお洒落だし可愛いし笑いながら観てたけど後半になるにつれてだんだん冷めていった。なんか強烈なフェミニズム映画だった。男性を必要としない自立した女性のための映画。こんなの大ヒットするアメリカ大丈夫なの? pic.twitter.com/hNqkOQy0By
— 奥 浩哉 (@hiroya_oku) 2023年8月11日
先日このような感想ツイートが炎上し「それの何が問題なんだよ、文句あっか?」と袋叩きに合っていた。
この映画はフェミニズム礼賛映画だと、女性を始めとして多くの映画評論家などもそのような感想を発信していたため、僕は興味がなかった。
漫画『テコンダー朴』原作者でもある人権派義士・白正男先生に、人権派映画『バービー』を観に行っていただくようお願いしました。
— 実話BUNKAタブー編集部 (@BUNKA_taboo) 2023年8月22日
しかしそこから評価は一転し、いや一転はしてないか、テコンダー朴とは卑劣なチョッパリから差別と暴力を受けている韓国人が人権を取り戻す政治バトル漫画であるが、どうやらバービーはこの高尚な作風と同じ方向性を持っているらしいということだ。
一方ではフェミニズム礼賛映画、もう一方ではテコンダー朴、
この量子的重ね合わせ状態は観測によって確定するしか無い。
そう思い、本作品を見ました。
えー、神映画です。
- 失楽園 ~Paradise Lost~
- 女だけの街 ~Garden of Eden~
- KEN罪 ~Original Sin~
- 善悪の知識の実 ~Forbidden fruit~
- 永遠の命の実 ~Fruits of the Tree of Life~
- 堕落 ~The Fall~
- 「男も女も、女が嫌い」
- Kendom
- バービーランドの奪還
- 有害な男らしさと有害な女らしさ
- 楽園からの追放
- 感想
失楽園 ~Paradise Lost~
僕の記事をきっかけに映画を見に行く人間がいるとは思えないですが、この記事を見てネタバレを気にするのであれば、この映画を見るにあたっての前提知識として
『創世記』第三章 失楽園のあらすじを抑えておいたほうが良いかもしれません。
この映画はというか、アメリカのコメディ映画あるあるですが、いろいろな小ネタが各種に散りばめられているため(他の映画のオマージュや、バービーの過去の商品展開など)それらの知識が合ったほうが良いのですが、僕はほとんど情弱なので追えなかったです。
中でも聖書は、メイン顧客のアメリカ国民にとっては一般教養として当たり前のように引用されるので、日本人が見るとなんのこっちゃとなるかもしれませんが、シナリオに大きく絡んでいます。
すでにご覧になられた方も、あらすじを思い出しながら失楽園と読み比べて見てください。
創世記
神は最初に天と地を創造し、その後に植物や動物を生み出した。神はアダムを土から作り、生命を吹き込んだ。
エデンの園を造り、そこにアダムを置いた。神はアダムに、園内の植物の果物を食べる自由を与えたが、善悪を知る木の果物だけは食べてはならないと警告した。
アダムが孤独であることを憂えた神は、アダムの肋骨からイヴを創造し、彼女をアダムの仲間として与えた。
蛇の誘惑
創世記第三章の初めで、蛇(悪魔またはサタンと解釈されることもある)がエデンの園に現れます。
蛇はイブに、なぜ神が園の中のある特定の木の果物を食べることを禁じているのかを尋ねます。
禁断の果実
蛇はイヴを説得し、禁止された木の果物を食べるようにそそのかします。蛇は、その果物を食べれば彼女も神のように知識を持つことができると告げます。イブは果物を食べ、アダムもそれに従います。
堕落
二人は果物を食べた後、自分たちが裸であることに気づき羞恥を覚え、葉っぱで自分たちの体を隠そうとします。そしてお互いの姿に初めて欲情し始めた。
そして自らが死の運命に晒されていることを悟る。
罰
二人の堕落に気づいた神は怒り、蛇、イブ、そしてアダムにそれぞれ罰を下します。
蛇は永遠に土を這うことになり、女性は出産の苦痛を経験することになり、アダムは土地を耕す労働の中で食物を得ることとなった。
エデンの園からの追放
神はミカエルを送り、二人を楽園から追放する。
その前に、ミカエルはアダムに未来のビジョンを見せる。
そこには彼の子供たちの犯罪や多くの罪深い世代、そしてノアの家族以外のすべての人間を神が殺す大洪水も含まれていた。バベルの塔、イスラエルの創造、エジプトからの脱出、そして最後には受肉した御子としてのイエスを見る。ミカエルは、堕落を償い、人類を救うための御子の犠牲を説明する。
アダムは慰められ、イヴとともに涙ながらにエデンを後にした。
Wikipediaの情報をChatGPTに整形してもらいました。
エデンには善悪の木の実(禁断の果実)と命の実(不死)が存在し、神は禁断の果実を食べた者が命の実に触れるのを拒むために彼らをエデンから追放した。
宗教学エアプなので正確性にはかけますが、たまに書籍を見ると、無垢の状態(禁断の果実を食べる前)には不老不死で、その実を食べたことで人間は死の運命を課せられたみたいな書き方をしているようなものもありますが、自らの死の運命に無知で、命の実を食べる可能性があったアダムとイヴ(善悪の実以外の木の実は自由に取って食べて良いとされていたので)が、堕落することで自らの死の未来を悟った。とするのが一貫性があるのではないかと思います。
これらの前提を踏まえて、バービーを見ていきましょう。
女だけの街 ~Garden of Eden~
まず冒頭は『2001年宇宙の旅』の最初のシーンのオマージュから始まる。
小さい女の子用の人形は赤ちゃんのものばかりだった中、バービーは女性のボディラインを強調した大人の人形として鮮烈に現れた。と人形商品の歴史が語られる。
すると小さい女の子は持っていた赤ちゃん人形を地面に叩きつけて破壊し、バービーを手にする。
赤ちゃん人形しか存在しなかった過去は、育児に代表されるようなハウスワーカーしか役割を与えられなかった女性史そのもののメタファーです。
その役割を破壊し、バービーを手にすることでフェミニズムという価値観を受胎した、というシーン。
そこから場面は代わり、バービーランドが描かれます。
ミュージカルの歌に合わせながら身支度をして街に繰り出すのは洋画あるあるですが、街にはバービー(女性)しかいません。
車を乗っている主人公のマーゴット・ロビー(バービー)は街にいる妊婦のミッジ、工事現場作業員のバービー、警察官のバービーetc...に「Hi, Barbie」と次々に声をかけられ「Hi, Barbie」と返します。
(キャラによっては名前が違うのかもしれないですけど、バービーエアプなのでUnidentifiedな人形は全てバービーと呼んでます、ごめんなさい)
これらは過去に商品展開されたバービーシリーズの元ネタが存在しますが、僕は一つもわかりませんでした。
女性だけが社会に進出し、女性だけが活躍する社会。フェミニストが夢想する「女性だけの街」が広がっています。
大統領も女性(バービー)、最高判事も女性(バービー)と
このようなシーンを見てバービーランドは女性にとってのユートピア、として解釈するような評論や感想があり、上記の奥浩哉先生(GANTZの作者)もそのように捉えているフシがありますが、読解能力に疑問をいだきますね。
映画評論家とか一般客はそれで良いけど、プロの漫画家がその視座でいいのか?
これらのシーンを見て「あれ・・・フェミ映画のはずじゃぁ・・・?」と僕は雲行きが怪しくなってきた感を早くも察知しました。
まず、妊婦のミッジが出てきた時に「妊娠しているドールは物議を醸して苦情が殺到し、販売中止になりました」と注釈が入ります。
初登場から、ミッジが登場するシーンはほぼ全て(内容が正確に思い出せないため"ほぼ"とする)カメラがミッジから避けるように動きます。(ミッジはそれを追いかけるように映ろうとするのでわかりやすい)
フェミニストが女性の主体性を訴えつつも、出産や妊娠の選択をすることを忌避している性質を刺しに行っています。
また、工事現場作業員のバービーは足元が映りません。
これも記憶が怪しいので、これから観る方は間違ってるかどうか注目して見てほしいですが、足元が映らないのはその後のあるシーンに関わってきます。
そしてノーベル賞の授賞式のシーンが映され、受賞者は全員女性(バービー)が登壇します。
女性が社会で活躍し大きな業績を残しているということを描いている
ように見えますが、
注目すべきは部門です、あのシーンで発表者は「ノーベル文学賞とノーベル報道賞を受賞した・・・」と言っています。
ノーベル賞の部門を思い出して下さい。
生理・医学、物理学、科学、文学、平和、経済学です。
ノーベルが数学アンチだったので数学賞はありません。作中の報道賞もありません。
STEM(理系)が一つもないんですよ。
つまり、フェミニストは女性の社会進出を訴えるが、論理的厳密性の問われる実学につくことからは目を反らしているという習性を刺しに行ってます。
僕の個人的な高評価ポイントは、理系でない部門は「文学賞」「平和賞」の2つあると思うのですが、作中では「文学賞」「報道賞」と安易に平和賞を用いていないところです。
なぜなら平和が悪から伸びた影であるように、エデンの園である善悪の概念がない(=無垢)バービーランドでは苦しみの反対概念である平和も存在しないからです。
ここを愚直に外さないことに、脚本力と制作陣への信頼を感じました。
上記のようなシーンから監督(監督も女性なのですが)の明確な悪意を感じます。
ここを読み落とすと、フェミニズム礼賛、女性賛美のシーンに見えてしまうんですね。
このように序盤から表現を直接受け取ってしまうような視聴者をおだてておいて、裏ではめちゃくちゃ馬鹿にしているというテコンダー朴的な味付けにイギリスンジョークの陰湿さをブレンドしたような表現が序盤からアクセルベタ踏みでかっ飛ばしているので、僕のような性格の悪い人間は最高でした。
やはり性格の悪い人間にしか傑作は作れない、そう再認識しました。
KEN罪 ~Original Sin~
バービーで遊ぶメイン購買層にとって、ケンはおまけです。
恋愛ごっことというおままごとを楽しむための一側面として、ケンが存在している。という商品展開の背景があります。
それをうまくアナロジー構造として取り入れながら、作中ではケンは何者でもない存在として描かれます、職業もなく家もない。モブバービーが「パンツの中に手を入れたい!」みたいなことを言ってた気がしますが、ただただ性的消費される存在として描かれています。
ただ「Hi,Barbie !」と彼女らに話しかけ、「Hi KEN」と返されるだけの存在です。
ここもすごいなと思ったのが(記憶違いなら申し訳ないが)バービーからケンに「Hi,KEN」と話しかけたシーンがないんですよね。「Hi KEN」は「Hi,Berbie」の返礼でしかないと。
これを現代社会(a.k.a. 男性優位社会)のミラーリングとする感想を見ましたが、それもこの映画の罠だと思います。
ケンには役割が無いんです、ただバービーの自尊心を満たし、性的消費されるだけの存在。
バービーは別に恋愛に興味がないし、他に楽しいことはある。
が、ケンはバービーのことを想っていてほしい。
バービーを取り合って喧嘩しようとするケン達を「私を取り合うのはやめて」と言わんばかりに制止するバービー
バービーランドには『争い』はありません。
ノーベル平和賞が存在しないのと同じで、理想郷だからです。
この争いがない、ということは後半のシーンに大きく関わっています。
しかし、これを現実社会のミラーリングだと捉えてしまうということは、家父長制の社会に置いても女性には役割がなくただ性満足させるだけの奴隷だと認知していることになります。
このような歪んだ認知で社会を捉えているラディカルフェミニストもいるにはいますが、彼女らが家庭に入る女性を「飯炊きオナホ」などと罵倒していることからも分かる通り、「飯を炊く」という役割(ハウスワーク)が客観的にはあるわけですよね。
家父長制なる幻想(なぜ家父長制が虚構であるかは映画の後半で描かれている)を措定しても、そこには女性にはやるべきとされることが存在しています。
そこを不可視化するという作業工程を挟んでからミラーリングしたのが、役割の存在しないケンという描写であり。
これを現実社会のミラーリングと捉えさせることで、歪んだ認知を持っていることを浮き彫りにします。
これがこの映画の恐ろしいところで、この映画について語ることでリトマス試験紙のように「どこを見落としているか」が露呈します。
この映画はお馬鹿なコメディ映画に見せかけて、綿密なロゴスによって構築されています。
論理による咀嚼をサボって直感で捉えた途端に、その歪みが顕在化するようにできている。非常に完成度の高い作品です。
善悪の知識の実 ~Forbidden fruit~
苦しみもない、死もないバービーランドでバービー達は毎日パーティ三昧で暮らしています。「ずっとこの生活が続けばいいのに」とケン達を家から追い出した女子会でそう語ります。
そしてダンスパーティ中に主人公のバービー(マーゴット・ロビー)が
「死について考えてみたの」
と、ふと口にします。
食傷気味の胸焼けするくらい甘ったるい今までのシーンから一転し、時が止まったかのようにダンスミュージックもバービーたちも硬直します。
「は?」みたいな空気になります、ホラーです。
そこからマーゴット・バービーは、朝起きて自らの身体の異変に気づきます。
老いによる肌や心身の不調です。
今までのバービーランドには死や老いは存在しなかったのです。
この辺は失楽園の、老いや死について全くの無知なアダムとイヴと、善悪の実を食べて死の運命に気づく彼らの対比構造と意図的に似せつつも、フェミニストを刺しに行ってます。
そもそも毎日パーティ三昧で幸せに暮らしていけるのも、誰かが会場を用意し、掃除し、音響や照明機器を作り、運用し・・・と言った誰かの『労働』によって支えられていますが、それを不可視化しているからこそ無垢で幸せにいられるわけです。
彼女ら(の一部)は「女だけの街」があれば幸せに暮らしていけると考えていますが、それらの維持についての責任という概念がありません。
このように、フェm・・・もといトランスティーンエイジの方々は自らが責任を負わないように、責任から逃げて生きようとしますが(責任を負わされるのは権力勾配が存在するからだという認知もそこから来ています。ガラスの天井&ガラスの崖のコンボとか)
しかし、『出産するかしないか』については、いつか自分自身の責任や判断において決着をつけなければならないという女性固有のカルマが存在します。
この判断には老い(閉経)というタイムリミットが存在するのです。
だからこそ主人公格のバービーにはマーゴット・ロビー(33歳)が、ケンにはライアン・ゴズリング(42歳)がキャスティングされたのでしょう。
「自分は出産しない」という選択が胸を張って後悔しないものである。
という自信の裏付けこそがフェミニズム文脈における「自分らしく生きる」ということで、この映画の冒頭で赤ちゃん人形を破壊する(=出産しないという選択の肯定)もそれを描いているわけですが、
その状態を幸せで苦しみのない理想郷とすることは
このタイムリミットに対して『無垢』であるという前提が必要なんですね。
そこについて無知でいられるリアルティーンエイジャーと違い、トランスティーンエイジャーの『無垢』には、このような破綻的な前提が必要である。
というバービーランドそのものが逆説的に成り立たないことを示しています。
したがって、これらが女性にとっての理想郷、現実の家父長制社会のミラーリングといった読み方をしてしまう人は、上記のような前提が抜け落ちている気がします。
FLAT FEET
僕は秀逸な比喩表現をメモ帳に逐一保存しているくらいのモチーフオタクなのですが、このシーンは震えました。
バービー人形はヒールを履くためにつま先立ちでデザインされていて、作中でも靴を脱いだときはバービーがつま先立ちで歩くという小ネタがあるのですが、死について考え、自信の老いに気づいたバービーはとうとうつま先で立てなくなります。
この地に足がついた状態(FLAT FEET)を見た他のバービーはとてつもない拒否反応を示し、発狂します。
これらの誇張シーンはギャグシーンでありながらも、明確に女性を馬鹿にしています。(何度も言いますが、監督・脚本は女性です)
つまり、女性が能力を発揮し活躍する社会でありながらもヒールを脱ぐことは耐えられない
これが最初のシーンに繋がってくるわけですね、
ノーベル報道賞も文学賞も、足を使って取材が必要なはずだが、それらは不可視化されている。
工事現場作業員のバービーにも足元が映っていない(=FLAT FEETで仕事をしていることが不可視化されている)
この根本的に仕事を舐めている感じを
悪意を悟られずにヒールとFLAT FEETで表現するこの比喩力に脱帽です。
永遠の命の実 ~Fruits of the Tree of Life~
そして自信の老いに恐れたバービーは「変テコ」の元へ向かいます、変テコとは飽きて雑に扱われた中古のバービー人形を刺します。手足がもがれていたり、顔にマジックで落書きされたり、髪が抜かれたり切り取られたり、そういうバービーです。
バービーランドではそれらを僻地に追いやって「不可視化」しているという背景を説明します。
人間界とバービーランドが裂け目によって繋がってしまい、人間界の死や苦しみがバービーランドに入り込んでしまった。と変テコは語ります。
主なる神は言われた、
「見よ、人は我々の一人のようになり、善悪を知るものとなった。」
創世記 3-22
ここの神を人間、人間をバービーとするとメタファーの構造が理解できます。
変テコはバービーに「バービーランドにとどまるか、人間界に行くか選べ」とヒール👠とサンダル🩴の二種類の靴を提示します。
これもモチーフオタク歓喜のシーンです。
ヒール👠 → バービーランドに生きる → 永遠の命
サンダル🩴 → 人間界に生きる → 自信の死を受け入れる
これは聖書のメタファーにもなっています。
また主なる神は、見て美しく食べるに良い全ての木を土から生えさせ、更に園の奥の中央に命の木と善悪を知る木とを生えさせた
(創世記 2-9)
『命の木の実』は食べると永遠の命が得られます、ヒールはこれを意味します。
『善悪の知識の木の実』は人間が食べ恥を覚え、それが原因で楽園から追放されました。サンダルはこれを意味します。
変テコはラストシーンでゴミ処理担当大臣として社会の承認を得ますが
主なる神は蛇に言われた「おまえはこの事したので、全ての家畜、野の全ての獣のうち最も呪われる。お前は腹で這いあるき、一生ちりを食べるであろう」
(創世記 3-14)
このことから、変テコは蛇がモチーフです。
そんなことを論証するまでもなく、ヘビ柄のブーツを履いていますが。
蛇はこの件によって手足をもがれたという解釈も、変テコが遊びに飽きた子供に手や足をもがれた廃棄用のバービーであることと一致する巧みな比喩表現となっています。
バービー(マーゴット・ロビー)が人間界へ向かう途中、実はこっそりついてきたケン(ライアン・ゴズリング)を見て驚きます。
イヴはためらいながらも実を口にする。イヴはアダムにも実を差し出し、アダムはイヴが堕落したことに気づくが、二人が離れ離れにならないように実を食べるのだった。
そうして、バービーとケンは人間界へ行きます。
堕落 ~The Fall~
人間界についたバービー達は、人間たちの注目を浴びていることに気づきます。
「あそこにエロい格好してる女がいるぞ!」
ケン(ライアン)は、バービーランドではバービーに好意を寄せるが相手にされないモブとしての存在だったので、注目されることに喜びを感じます。
しかし、バービー(マーゴット)はその視線が不穏であることに気づき不安になります。
『工事現場に行って女の子パワーを補充しなきゃ!』
とテコンダー朴みたいなことを言って工事現場に向かうと
そこにはでっかいおっさんばかり
「おめぇ、いくらでヤラせてくれるんだ?」
そう吐き捨てられたバービーは自分の格好に初めて羞恥を覚えます。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
創世記 3-7
バービーは自分たちの『正しさ』がきっと人間界を良くしているに違いないと確信していましたが、現実はそうではなかったのです。
バービーは人間界でマスターハンド「自分の持ち主」を探す旅に出ます。
そして、ケンは丁寧語で自分に話しかけてくれる世界に感動します。
バービーが持ち主(仮)にボコボコに罵られるシーンはもういいでしょう。
あそこは現実の世界でありながら、バービーの競合として販売されていたブラッツのいう人形がモデルだと思います。
序盤のバービーランドのシーンで最高判事(バービー)が「私達は憤慨していても、理性があるので冷静にロジカルに反証することができます」みたいなことを語ってた上で
このシーンではボロクソに言われたバービーが泣いて逃走するという対比を悪意を持って描かれています。
対して重要なのは、ケンのシーンです。
「この素晴らしい世界はなんだ?」と街を歩くスーツを来た人間、ジムで体を鍛える人間、肉体労働に従事する人間が男ばかりであることを気づきます。
図書館に言ったケンは「THE ORIGINS OF THE PATRIARCHY(家父長制の創造)」という本を手に取り、この社会はPatriarchy(家父長制)という思想によって男性優位になっているのだと確信します。
ここまででバービーの観方を間違えているとヘンな解釈をしてしまいます(おそらく認知の歪みがある視聴者が間違えやすいように意図的に描かれている)
つまり、
・バービーランドは理想郷だった。
・しかし、現実はその真逆だった。
・その歪みを生み出しているのはPatriarchy(家父長制)だ。
このような読み方をすると「フェミのためのフェミ映画」という認知になってしまいます。
まぁこれは日本語訳も原因の一端があって、とはいえ僕も英弱なので人のことは言えませんが、作中ではPatriarchy(家父長制)を連呼するんですよね。
これによって直感的にもなんか変なこと言ってるなってシーンになるし、実際の欧米でもラディフェミの「家父長制ガー」と鳴き声のように繰り返していることを暗に皮肉ってるわけなのですが。
日本訳では「男社会」と字幕で本のタイトルが出るだけなので、その誇張が薄まっているために気づきにくい。
序盤でもFeminismを連呼していたが、「女性の」とか「女らしさ」みたいな訳し方をしていたのでフェミニズムとアンチフェミニズムの議論で用いられるようなテクニカルタームが削ぎ落とされていたんですよね。
日本の映画業界ってそういう(バカ向けに離乳食化させる)ところがあるので、誰でも楽しめるコメディ映画としてデフォルメされてしまっている。
ただ「家父長制」としてもジェンダー議論40年遅れの日本ではフェミニストとアンチフェミニストぐらいしかわからないとおもうので「男社会」としたのかもしれませんが、誇張のシーンなので、いっそ「男優位社会」「男尊女卑」くらい吹っ切っても良かったかもとは思います。
とはいえ、このシーンで描かれるのは背理法による家父長制の否定です。
皮肉の引き出しが豊富すぎますね、これを見て家父長制が現実を支配していると受け取ってしまうのは本当に◯◯です。
背理法というのはある前提を過程して推論すると、その前提が真であることが矛盾してしまうという結論に至ることで、その前提が間違っていることを論証する技法です。
つまりこのシーンでは
「男ばかりが社会で活躍しているのは男尊女卑社会だからだ」と家父長制の存在を過程します。
そしてケンは仕事を貰いに行こうとします。
でかいビルに入って「俺に仕事をくれ」と要求します。
しかし、「MBAや学位を取得していますか?」と一蹴されます。
続いて病院に行き、女性の医者に向かって「医者として仕事させろ」と要求します。
これも「医師免許を持っていないと絶対に手術はさせません」と突っぱねられます
「俺は男だぞ?」と主張するが、何いってんだこいつという目で見られる。
つまり男だから社会に参画できている(Patriarchy)が真ならば、ケンは男だからという理由でポストを与えられなければならない。
しかしそうなっていない
したがってPatriarchy(家父長制)は偽である。
ということである。
つまり、
大企業でオフィスワーカーできるのは男だからではない、学位取得者であるからだ。
医師になれるのは男だからではない、医師免許を持っているからだ。
という単純な現実である。
しかし、序盤のバービーランドのノーベル賞授賞式などのシーンでSTEMの存在が不可視化されていることに気づいていないバービーランドの住人とラディフェミには、これが現実社会の「歪み」に見えてしまうという構造。
これによって頭お花畑の人間を「バービーランドの住人」と呼ぶテクニカル悪口も発生してしまうでしょう。
逆に言えば、これを家父長制だと措定すると、じゃあ女性というだけでポストを与えられているのはどういうことだい?という話になってきます。
アメリカでは女性だけではなく、あらゆるマイノリティ、黒人やユダヤ人LGBT等にアファーマティブ・アクションとしてあらゆる枠を設けていますが
今年の7月に、米最高裁判決で人種や属性を理由に優遇措置を取るのは差別とする判決が出ました。
STEMの院に筆記試験なしの女子枠を作った東工大聞いてるか~?
このような現実を「不可視化」できる頭バービーランドの人間だけが見る幻想、これがPatriarchy(家父長制)なのです。
ケンは男に「(俺が雇われないなんて)この社会は男性優位社会じゃないのか?」と聞き、男は「表では平等だが、そういうのは裏でこっそり回してる」みたいなことを言います。
そのせいで陰謀論的な飛躍を刺激している気がしますが、実際働いていても徹夜のメンテナンス作業とかおっさんしかいないなって僕も肌感で感じていますよ。
なぜこのようなことをいきなり書き出したかというと、これらの現実が後半のシーンで回収されるからです。
「この素晴らしき思想(Patriarchy)をバービーランドに広めよう」とケンはバービーランドに帰ります。
「男も女も、女が嫌い」
一方バービーは持ち主の記憶で見た少女(サシャ)に「バービーは女性の権利回復を50年遅らせたファシストだ」とボロクソに言われて意気消沈していましたが、実は持ち主はサシャではなくその母グロリアであることが判明します。
その謎の伏線回収要素なんやねん
ですが、中年の母親がバービーで遊んでいたという事実は、僕の持つフェミニスト像と符合します。
つまり永遠の娘でありたいトランスティーンエイジだからこそ子育てや出産から現実逃避し、お人形遊びをするのだと。
ここまで見て僕からすればもはや隠しきれないミソジニー(女性蔑視)をこの映画は醸し出しているわけですが、そのサシャにとうとう言わせてしまいます。
“Men hate women, and women hate women, it’s the one thing we can agree on”
(男も女も女が嫌い、私達が同意できる唯一のことだ)
正体現したね。って感じですが、こんな直球な罵倒をねじ込んでなおフェミのためのフェミ映画だと信じられるのはどういうことなんでしょうか。
バービーランドの欺瞞はここに帰結します。
女性の活躍する社会
だけど
ヒールは脱げない。
自分ではない女性の幸せのためにFLAT FEET(インフラ構築肉体労働社)になるのは耐えられない、したがってバービーランドは現実には存在しない。
男の僕から見れば、初っ端のシーンを男女入れ替えても全く理想郷には見えないですからね。
街を歩くだけでも地域住民に「Hi, Berbie !」と笑顔で話しかけなければいけない。
ケンがいなかったとしても、彼女らはオシャレをして化粧をして「Hi, Barbie !」と笑顔で挨拶しなければならないという相互監視が存在します。
後半のシーンにも描かれていますが、結局、女性のある種「女らしさ」の部分も女性の生きづらさを大きくアシストしてない?っていうところを巧みに描いています。
Kendom
バービー(マーゴット)は持ち主のグロリアを連れて、素晴らしい世界があるとバービーランドに招きます。
しかし、そこはすでにケンが家父長制を広め、男性が牛耳った世界になっていました。
◯◯-domはエロ単語ではよくありますが(Femdom, Findom etc...)、Dom/Subユニバースなど
Domination(支配)に由来して、◯◯が優位なプレイみたいなニュアンスになります。これって向こうではカジュアルなスラングなのかな、センシティブな二次創作でしか見ない表現だと思ってたけど、まあKingdomもKing-Domだしその延長か
なんかかつて仲間だった奴が闇落ちして戦わなければならない、みたいな展開になっていますが、これを聖書的な解釈で素敵なバービーランドが家父長制に犯されて涙が止まらない・・・みたいな頭バービーランドの感想見て頭抱えましたね
あのーいいですか?
まず基幹的な仕事はすべてケン(男)が牛耳り、バービー(女)はすべてウェイトレスやメイド、専業主婦などのケア要因になっています。まさに現実社会のデフォルメに見えるように作っています。
しかし、あのシーンでは大統領のバービーは「大統領やるより楽しいわ!」と家父長制に洗脳されたわけではなく、「自分が好きで」やっています。
ここがミサンドリストとミソジニストの対立のコア部分だと僕は思うんですよね。
僕は上図のような世界観を持っています。
これは僕の妄想かもと思っていたのですが、バービーを見て答え合わせが出来たので嬉しいです。
この図のDOM、SUBが昨今の社会では性別と結びついた表現になっているので議論がややこしくなっている気がします。
「DOM」とは責任と包摂です。
つまり、多くの人間の面倒を見ることのできる甲斐性のある人間がオスとして評価されます。
任侠モノの「おじきははぐれモンの俺を仲間に入れてくれたんです」とか時代劇モノの「こいつは昨日まで敵だった俺を信用してあーだこーだ」とか、よくインターネットの陰キャラが言う「真の陽キャは陰キャにも優しい」理論とか、
男の中の男とかいう表現はまさに男も包摂する男だからですよね。
逆に自分の損失の埋め合わせに躍起になるような男は「女々しい」とされています。
これを"家"に当てはめると、男は家を建て、家を維持します。これが包摂と責任です。
そしてPatriarchy(家父長制)ではSUBである女性は愛嬌とケアを求められます。
つまり、男らしさ(masculinity)とはDOM由来の給付であり、女らしさ(feminine)とは男らしさに対する反対給付なのです。
したがって、男らしさを解体すると女らしさに傾きます。(SUBへの引力)
今欧米では白人男性のトランス女性が増えていたり、そのせいで売春の価格破壊が起きたりしています。つまり最近の議論ではフェミニズム及びポリコレによるジェンダーの解体を行った結果、トランス女性(MtF)が必然的に増える現象というのがテーマになっています。
つまりここには明確にSUBへの引力(男らしさ→女らしさ)が存在します。
また、女らしさの心理的傾向として、DOM的存在に対して負担の要求をしてしまうということです。
これは、デートのときの奢り奢られ論争で話題になったりしますが、上図のような男らしさ(責任と包摂)の要求ですよね。
これは進化心理学的には、妊娠コストと射精コストの是正というふうに解釈されています。
妊娠には10ヶ月以上の時間と労力と身体的負担が伴うが、射精はほぼノーコストなのでヤリ捨てて色んな女に精スプしたほうが遺伝子保存可能性は高い。そのため、10ヶ月以上かかるもろもろの負担相当を払ってくれる男を求める慣性が働くと。
しかし、この本能は女→男、だけでなくレズビアンカップル、女→女にも発生しレズビアンのタチ(ボイ)の方への心理的負担となっている問題があります。
そして、これはフェミニズムの世界観でもあり、この映画が皮肉ってるところでもありますが「強い女性」は包摂をしません。「排除」をします。
男を必要としない強い女性を掲げているフェミニストはもちろん、根本的な女性の性本能として弱者を排除するという傾向にあります。
ここをバービーはしっかり描いています、バービーランドではパジャマパーティの時にはケンを追い出していましたが、ケンドムでは――賛否あるだろうが――女性に給仕の役割を与えます。
異性に対してだけでなく変テコバービーを排除したり、つまり最低限の女らしさ(キラキラ、ヒールを履く)を維持しないパス度の低い女性(女らしくない女)を排除しているわけです。
バービーランドの欺瞞性はそこにあって、元々はケンに対して職業も家も与えていなかったわけです。自分達がキラキラしたい瞬間にだけ現れて、用が済んだら消える男娼的存在、それがバービーランドでのケンでした。
しかし、そのような排除を現実化するとケンは道端に野垂れ死ぬわけで、排除されている人間は見ないし、何故か社会から排除しても1人で自活できる強い個の集まりだからこそ排除している事実を不可視化しているバービーランドは『正しく』あれるわけです。
あらゆる社会的地位をケンに乗っ取られたバービー(マーゴット)は「私達が築いてきたものを返して!」と泣き喚きます。
するとケン(ライアン)は「お前今どんな気持ちだ?」「こんなことをして楽しかったのか?」と苦しそうな顔をして問います。
こここそが現実のミラーリングですよね。
アファーマティブ・アクションで企業役員や政治家等――すでに築かれたもの――から女性枠を創出する現実の営み、これこそがこのシーンでケンがやっていることです。
バービーランドの奪還
そこからバービー達は、"洗脳された"バービー達を"説得"してWoke(目覚め)させることでバービーランドを取り戻そうとします。
うん、テコンダー朴ですよね。
前項でも申し上げた通り、バービー達はウェイトレス、チアガール、専業主婦になることを自ら望んでいます。
これは歴史を見ても明らかです、そもそも専業主婦とは1800年以降産業革命後のブルジョワ階級に生まれたもので、世界史の教科書にも書いてます。つまりそれ以前の男女は普通に働いていたわけで、当然肉体労働も含まれます。
なんなら女も狩りに出ています。
つまり、労働を経験した女性が、それと比較して給仕になりたいと志向したのが「専業主婦」です。当時のフランスでは「働かなくてもいい妻」というのは上流階級の証でした。
今でも「女医になるより、医者の嫁になる方が勝ち組」みたいな風潮ありますよね。男からは全く理解できない感覚です。
そこには「甲斐性」への隷属の引力(SUBへの引力)があるわけですが、これこそがバービーランドの生きづらさ(キラキラした職につき、相互監視的に女らしくしなければならないこと)の裏返しでもあるわけです。
つまり、彼女らの心をバービーランドに戻したいならば、女性の側から誰かがDOMになり、SUBになりたい女性を庇護すれば良いわけです。レズビアンの恋愛はそのような性質を持っています。
しかしながら、頭バービー(ここでいう無垢は聖書由来なので、善悪の区別がつかない状態だということです)だと上図のような狭まった解像度でしか現実が見れないので、DOMという存在そのものが侵略に見えるわけです。
しかし、DOMという概念を不可視化してるバービーは正攻法ではありません、SUBバービーをトラックの中に閉じ込めて説得(洗脳)して支持者を増やします。
これは望んで(Bestではないかもしれないが、少なくともBetterで)家庭に入っている女性を「飯炊きオナホ」「産み奴隷」とか言ってWokeしてもらおうと被害性を説得している現実のラディカルフェミニストのメタファーですよね。
この辺はXとか見てたら一回は見たことあるんじゃないでしょうか
そこで人形の持ち主であったグロリアの演説が入ります、洋画あるあるの作者が憑依したみたいな演説シーンです、が。何かおかしいですよ
ここも女性の人が絶賛していましたが、まぁここでは女性の生きづらさが大声で怒りを伴って発散されるわけです、ちょっと内容忘れたんでうろ覚えですが「女性はケアをしなければならない」「女性は半歩下がって・・・」みたいな、具体的な羅列があるんですが。
「幸せそうにしてはいけない!」「地味な服を着なければならない!」「子供を自慢してはいけない!」
『だから女性は生きづらいんだ!』
『うおおおお!』
みたいになってるけど、あのー、いくつかのそれは女性社会由来では・・・?
というツッコミを入れる隙もなく『うんうん、男が悪いね』みたいなテンポで洗脳フェーズに入っていくから、これマジで言ってんのか茶化してんのかどっちだ・・・?という感覚になりました。
あの演説の怒りはマジなんだけど、その上でやってることがギャグというか。でもそのギャグ部分は意図して書いているから、やっぱり頭バービーを馬鹿にしてるんじゃないかという。
有害な男らしさと有害な女らしさ
Kendomかバービーランドかを民主主義的に決める投票が始まり、バービー(マーゴット)達は先程の演説をベースに他のバービーたちを説得(洗脳)するわけですが
ケン達の票も入れさせないように、ケンをたぶらかして争わせるように仕向けます
有害な男らしさ(Toxic Masculinity)というのはフェミニスト界隈では頻出ワードですが、がケン達をたぶらかして選挙妨害するこのシーンでは、フェミニストが語るようなこれらがデフォルメされて表現されています。
・映画を見て元ネタや裏設定を隣の彼女に講釈垂れる奴(!)
・ギターでなんか弾き語りがち
・女に誘われて本当は嬉しいけど興味ないふりをする
・強さをアピールして気を引こうとする
・資産運用についてアドバイスしたがる
・Photoshopの使い方を教えたがる
etc...
この教えたがる性質はマンスプレイニングというのですが、映画を見て引用元が聖書であることを長々と語ったりとかするらしいですがまぁ僕には当てはまらないので共感は出来なかったですね。
コレを見て「男こそこの映画を見て勉強しろ!」みたいな感想もありましたが(常々思うんだけど「男もフェミニズムやジェンダーを勉強しろ」はまんスプにならないの?)
正直、男の愚かさや実存の描写はこの映画は解像度高くないですよ。
「いや、お前ミソジニー描写に嬉々として乗っかってるくせに、自分が刺されたら目を背けるのか?」
とおっしゃるでしょうが、ちゃんとこの映画、反論を用意してくれてるんですよね。
まず前提ですが、バービーで描かれる「男の愚かさ」というのは「女から見た男の愚かさ」にあえてフォーカスされています。
つまり、女(またはあなた)が好きで言い寄ってくる男のうち馬鹿な男。というスコープで描かれます。
根拠はアランです。
彼はKendom、つまり男社会(ホモソーシャル)に嫌気が指して人間界に脱走しようとします。
そして最終的にバービーたちと一緒にバービーランド再建に貢献します。
バービーと行動を共にしたにも関わらず、誰からも感謝されず、労れず、誰とも結ばれることのない存在です。
そう、「男らしさ」から降りた男はバービーたちからは徹底的に不可視化されてしまうのです。
つまり、ケンの愚かさをコミカルに描写するシーンに飛びついて「男も馬鹿だよね」という感想が指す男の中に、アランが入っていないのです。
現実のフェミニスト論争でも、女性の主張に無条件に与していいね稼ぎしている男はフェミ騎士(またはチン騎士)として男からは侮蔑の対象となり、女性からは褒められるものの相手にされない存在となっています。
よく「何で男は無能でブサイクなのにあんなに自信満々なの?」という不満を耳にしますが、そういうことなんですよ。
自分に自身がないけど女の子に認められたいというアランのようなNot DOM男を脳内でミュートかブロックしてるから、女にアプローチしたい男(ケン達)は自信満々なふりをするしかない、自信満々なフリをして初めてリングに立てるからだ。
だからこそKendomの王であるケン(ライアン)ですら「自分に自身がない」ということが後半で明らかになる、男(女に言い寄る男)は自信満々なのではなく自信満々なふりをしていると
その中で自信満々で有能なやつ、自信満々なフリをして騙し通せる奴はパスしていき、自信満々なふりをしているのがバレバレな無能が極めて不快な存在になる。
バービーランドではそれが不可視化されているから生きやすいんですよね。
キモいくせに自分にアプローチしてくるゴミ男が存在しない世界、それがバービーランド。
バービーを彼女とか妻と見たり、女性経験豊富な男もそれらが不可視化されているので「男もケンの馬鹿さを見て反省したほうがいいよ」みたいな感想を書いてるんですが
アランが不可視化されている以上は男性性の実存を解像度高くは描写してないですよね。と思います。
まぁ「ケンはプロテインで作った偽物の肉体」発言もそうですが、男側の理解は解像度低めに作られている(プロテインじゃなくてステロイドだろって言ったらマンスプ罪ですか?)
これは女性から見た男性という色眼鏡に合わせてあえて解像度低く作っているんだろうと思いましたね。
そしてバービーの思惑通り、ケンたちが女(バービー)を取り合って戦争が始まります。
ゴルフボールとかテニスラケットとか身近な小道具を武器にして戦います。
その間にバービー達だけが投票を済ませて、憲法を再び書き換えます。
ここのシーンのすごいところは、バービー憲法に書き換えた瞬間、ミュージカル映画みたいなダンスシーンに変わるんですね。今まで戦っていたケンたちがシームレスに踊り始める。
普通に見てたら「何だこの映画」って超展開に唖然とするかもしれませんが
序盤のビーチのシーンを思い出してください、ケン達が喧嘩をしようとするとバービーが止めに入る場面がありました。
つまり、善悪を知る前のバービーランド(無垢)には争いが存在しなかった。
しかし、Kendomになってからは争いが生じるようになった。
そして、憲法を書き換えてバービーランド(無垢)になった瞬間争いは消えた
ということを表現しています。
世界観から概念そのものが消えるみたいな描写ってなかなかファンタジー作品でもないので新鮮ですね。
楽園からの追放
そしてバービーランドに平和は戻り、バービーは現実世界に行く選択をして終わり。
ってな感じですが
結局のところ女による女へのミソジニー全開の映画ではあるんですが、テコンダー朴が本物の嫌韓、反日思想を持っているわけではないように、グレタ監督も女の愚かさを客観的に描いている。
だからこそロングショットな喜劇として描けるわけで。
だから個人的には「有害な女らしさを丁寧に書いたのはいいけど、それを肯定するんじゃなくて何とかしてくれよ・・・」という感想ではあるんですが、ここまで完成度の高い脚本を久々に見たので満足です。
最後の産婦人科のシーンは、子供を産む選択をしたバービーですが「相手がいない」というのは世相を反映している気がしますね。
究極的にフェミニストの葛藤というのは、トランスティーンエイジャーとして全ての問題に対しての責任を放棄できるが『出産』に関しては自分の意志で決めなければならない、そしてそれにはタイムリミット(閉経)がある。と
でも、その出産には恋愛とか結婚といったイベントもついてくる。そこが生きづらさにつながっているわけで
だからこそ恋愛や結婚を排除した『一人の自立した人間』として子供を生む。ということだと思うのですが。
出産に関しては、序盤の赤ちゃん人形破壊の対比としての帰結なんですが。
この出産を肯定する。というのがキリスト教的価値観から来るのか、フェミニズム及び男女平等によって女性がDOMにならないことが出生率へ多大な悪影響を与えていることのカウンターなのかはわかりません。
ただ、キリスト教由来の肯定なら結婚も肯定するはずなので、キリスト教保守的な価値観から来た描写ではない気がするんですよね。
ひとりよりもふたりが良い。 共に労苦すれば、その報いは良い。
(聖書『コヘレトの言葉』4章9節)
出産をするということは、子供がSUBとなり夫がいなければ自分がDOMになるしかないわけだけど、メタメッセージとしては「甲斐性を持て」ってことになるのか、それとも育児共同体(真のバービーランド)を築けということなのか
僕にはわかりません
ケンにたいする「男らしさから降りてもいい」は欺瞞に満ち溢れてて共感はできませんでした。
そもそも男らしさから降りている男は、昨今急速に増えているんですよね。
インセル、MGTOW、トランス女性、Sissy etc...
愛嬌という意味では元男のほうがサービス精神があるので、売春市場もAVであっても男(XY)が女性を市場から駆逐する。という現象が起きています。
有害な男らしさなる概念も社会的承認と包摂が根底にあるので、別に女の格好をした男を囲い込んでも成り立つんですよ。
つまりKendomは男だけで成立しうるということです。(全ての男がそれを支持できるとは言わないが)
そうやって歴史を見ると、正弦波のように男色が――女性への性搾取規制のバックラッシュとして――度々起こりうるのも、このような歴史を繰り返しているからかもしれません。
しかし、女性のスコープからはこのような「男らしさから降りた男」作中ではアランのような存在を不可視化しているので、ケンに一人で生きろというのは無意味なんですよ。
つまり、女を求めて有害な男らしさをインストールする男、それがケンなのであって、ケンに男らしさから降りろというのはケンそのものの存在否定です。
というか降りた男が見えなくなるだけで、次に言い寄ってくるケンに同じことを言い続けたら結果的に男は女と恋愛するなという話になるわけで、
まぁその相手がいなくて寂しいというはけ口に私を使うなというのがフェミニストの論理なのでしょうが。
つまり、DOMへの上昇志向というのは、DOMにならないと女性から見つけてもらえないからそうなるわけで。DOMへの上昇志向に付随して性欲とか有害な男らしさがあると。
しかし、その有害な男らしさを産んでいるのは、誠実であらんとするアランを存在しないものとみなす有害な女らしさが生む影であるわけで
そして、バービーランドでは社会的地位の高い女性が社会で活躍する虚構を描いていますが、これが虚構であるのは、女性側にはDOMになるインセンティブがないんですよね。ただキラキラしていて他の女にマウントが取れる。それ以上でもない
男はDOMとなって甲斐性を発揮しないと女に見つけてもらえない(デート代を出すか出さないかで揉めるような男をそもそも男として見れないため)が、黙って金出せとSUB丸出しの女性でも恋愛はできるので、DOMになる必要がないと。
だからこそ人間社会からも独立して、女性たちだけで1からバービーランドを建国するモチベーションも生まれない。
この辺の失望がMGTOWやインセルを産んで徹底的に恋愛を忌避し、出生率や国家運営にダメージを与えているのが欧米や日中韓に見られる男女対立なんですよね。
ちなみに僕は韓国がトップ独走中だと思っています。反フェミニズムを掲げる政党が与党になり、先進国最低の出生率を叩き出しているからです。
ラストシーンで安易に男女が結ばれる結果にならなかったのも、この深い溝がある世相を反映しているのだと思います。
感想
この映画は素晴らしい映画です。
序盤で最高判事が「わたしは憤慨しているけど冷静に指摘や討論ができるわ。だからこそ最大限に能力を発揮できるの」と言って、別のバービーが言い返せなくなって泣いて逃走。というミソジニー全開のギャグネタを差し込んでいましたが
この「わたしは論理的に指摘や討論ができる」というのは監督・脚本を務めるグレタ・ガーウィグからの宣戦布告だったのかもしれません。
確かに、皮肉と底意地の悪いブラックユーモアで論理的にフェミニズムの誤謬をあぶり出していたと思います。
昨今の映画ではポリコレやフェミニズムが政治介入しすぎていて、これが映画製作者側でもうんざりしているんだろうなというのがあらゆる作品から伝わってきます。(JOKERとかまさに)
つまり、ポリコレアドバイザーやフェミニズムアドバイザーのお墨付きを受けられるようなトラップ描写を散りばめていながら、裏で隠れたメッセージを書くと。
官能小説に比喩表現が多いのは、昔の日本では直接的な性表現に検閲がかかっていたからなんですよね。
その直接表現が出来ないという規制が、かえって文学性を高める結果になるという。
そのような傾向を、アメリカの映画界でも感じています。
この作品は初日に観たかった・・・
これを取りこぼしたのは失態だったと痛感しています。