kyanoscreate.hatenablog.com
といったのが二週間ぐらい前の話でして、できれば黙っておこうかなと思ったんです?
僕が熱いネガキャンをしても僕の評判が落ちるだけでしょ?このイケメンで頭脳明(カット)
というわけで、寄生獣完結編を語りたいと思います。【ネタバレ注意】
まず最初にこの映画の見どころは、上映前の大爆笑の進撃の巨人の予告ムービーと、最後のBUMPの歌と、橋本愛ちゃんのエッチシーンと、これを叩くためにブログが一記事かけるところです。
完全なるロジックと愛と優しさを持って、
徹底的にぶった切っていきたいと思うのですが、
ひとつ言っておくことがあります。
実はマジでちゃんと映画を見てきてるんですよ!!!
【ネタバレ注意】アナと雪の女王にある哲学 - はなくそモグモグ
ぼくにはこの前科がありますが、今回はマジです。
家族と生きましたが、帰りは一言も喋らずブログでぶった切ることばかり考えていました。
正直言って映画はクソほどクソです、つまらなくはないんですよ、原作がすごすぎて映像をつないだだけでも原作の総集編みたいに楽しめるのは楽しめます。
ですが前回やってしまった「泣ける映画」の弊害で尺がたりなさすぎて無理やり詰め込んだストーリーが変形してしまっているということです。
まぁまたさっきみたいに項目別で叩いていきたいと思いますよ
┃あらすじ
原作漫画 |
映画 |
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浦上のパラサイト探し |
三木がヤクザに乗り込む |
三木がヤクザに乗り込む |
映画に登場しないキャラクター、加奈が死亡する |
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加奈を殺したパラサイトに新一「ミギー防御たのむ(迫真)」 |
その辺の野良パラサイトに新一「ミギー防御たのむ(適当)」その様子を倉森が撮影 |
倉森一回目発見、ミギーが抹殺しようとするも新一がとめる、その間に倉森逃走 |
三木との戦闘 |
倉森、新一を尾行する |
倉森、新一を尾行する |
新一、計画して倉森を捕獲(映画では登場しない宇田守と協力)カメラ等を破壊する |
倉森、新一に気づかれる。脅されて写真消す田村玲子が黒幕と教えるも信じない |
新一が倉森を雇ったのは田宮良子(原作では田村玲子に改名しているが便宜上今記事では田宮良子とする)だと疑った途端、彼女のほうから新一に接触する。 |
新一の方から田宮涼子に接触、倉森利用されていたと知り激怒 |
田宮良子、新一の母親が殺されたと挑発する、新一激怒するも田宮涼子は人間である赤ん坊を盾にしようとする |
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占いで、あなたの心を埋められるのは母親だけと言われる新一は「その相手なら殺したよ」という(ここは割と重要) |
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倉森、新一とパラサイトとの戦闘を目の当たりにし、パラサイト関連に関わることをやめる。パラサイト集団と争うことに決めた人外の新一とパラサイトに怯え逃げる一般人との対比が強調されている。(新一がミギーを始めとした寄生生物に近づいている描写) |
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三木との戦闘、勝利。そして後藤との戦闘、敗北→逃走に成功 |
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倉森、外出中に妻子を殺害される |
倉森、外出中に娘を殺される |
田宮良子、人間を甘く見るなとパラサイト達を説教 |
田宮良子、人間を甘く見るなとパラサイト達を説教 |
パラサイト3人が田村玲子を殺害しようとするが失敗、全滅する |
パラサイト3人が田村玲子を殺害しようとするが失敗、全滅する |
田宮良子、家に戻るも倉森に赤子を奪われたことに気づく |
田宮良子、家に戻るも倉森に赤子を奪われたことに気づく |
田宮良子、新一を呼ぶために自宅に行く。原作では新一の赤ん坊の写真を見ている描写がある。新一は不在たまたま通りかかった村野里美に連絡先を聞く |
田宮良子、新一を呼ぶために自宅に行く。新一は不在たまたま通りかかった村野里美に連絡先を聞く |
田宮良子、倉森を殺害し赤ん坊を回収する |
公園で田宮良子、倉森、新一、里美が合流 |
公園で、田宮良子と新一が接触 |
パラサイト殲滅のため武装部隊による市役所の制圧が並行して行われる |
警察も瀕死の倉森から情報得て新一達と合流 |
田村玲子、倉森を殺害、赤子を回収。警察が来る |
警察、田宮涼子に発砲、パラサイトと判明し集団で発砲。新一は田宮涼子を警戒し逃げようとする。田宮涼子は赤ん坊を託すために新一の母に化ける、新一は意を汲み取り銃弾の中硬化して守られた赤ん坊を託す |
田村玲子、新一に赤子を託すために警察の静止効かず歩く、よって発泡され死亡。新一に赤子を託す。 |
浦上のパラサイト探し |
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パラサイト殲滅のため武装部隊による市役所の制圧が行われる。新一は事件関係者の一般人として警官と同行する |
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市長の演説 |
市長の演説 |
武装部隊による市役所の制圧が最強のパラサイト「後藤」によって失敗したことを見る |
並行して行われていた武装部隊による市役所の制圧が最強のパラサイト「後藤」によって失敗したと報告が入り急いで駆けつける |
後藤はつかれたといって逃走する。 |
後藤が襲ってくる、新一車を奪い逃走、後藤もバイクで追う |
次襲われたら確実に殺されると恐怖の日々を過ごす新一、慰めに来た里美を慰みものにする |
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後藤が襲ってくる、新一車を奪い逃走、後藤も車で追う |
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新一とミギー二手に別れ、策を講じるも後藤に圧倒され、ミギーが時間稼ぎをする間に新一は逃走 |
新一とミギー二手に別れるも後藤に圧倒され、ミギーが時間稼ぎをする間に新一は逃走 |
田舎の民家に泊めてもらう、おばあちゃんがやさしい |
清掃工場のゴミ焼却施設に逃げ込む新一、電話を聞いて駆けつけた里美とセックス |
後藤が田舎の人を虐殺していることを知り戦いを挑む |
新一は自分の体にもミギーの破片があることで感知されることに気づく、後藤が近づいてくる。里美をかばって自分一人で後藤を引きつける |
森の中でラストバトル |
ゴミ処理場でラストバトル |
森の中に不法投棄されたごみの山で追い詰められる、スキを見てその辺に落ちていた鉄片を僅かなプロテクターのスキに差し込む、後藤はギョッとする。 |
放射能で汚染された鉄片を差し込む、後藤はギョッとする |
後藤に勝利し、とどめを刺そうとするが思いとどまる。しかし一匹の人間としてとどめを刺すことにする |
後藤に勝利し、とどめを刺そうとするが思いとどまる。しかし一匹の人間としてとどめを刺すことにする |
エピローグ |
エピローグ |
┃浦上のパラサイト探し
警察は泉新一に疑いをかけ始め、警察は人とそれ以外を見抜けると豪語する死刑囚浦上に新一がどういう人物かを見せようとする。
浦上のキャラクターはまた原作とは違うベクトルの新井浩文でしたが、「サイコキラー」というカテゴリーだったので不満はありません、
僕にとってこういうイメージの犯罪者が
こうなっただけですから、連続殺人犯としての役割は変わりません
(※上の画像の犯人は殺人を犯してはいません)
このパラサイト探しのシーンは寄生獣完結編の最初にでてくるのですが、このシーン自体も数々の積み重ねであるということを監督は理解していない。
まず、原作(今回の記事でもバンバンでてきます)では、A事件、ハハコロの件、島田秀夫事件、田宮良子殺害を経て順当に新一が関係有るぞと焦点が縮んでいくのに、映画のシーンは不自然なんですよね。
だってA事件は警察が関与していないまま母親に寄生したし田宮涼子はまだ死んでいない時系列ですから、警察の新一に対するイメージが「学校に問題が起きて、母親が行方不明」ってだけの少年なんですよ。そんな人多分他にもいるだろうし、パラサイトの被害者と思っても、関係者とは絶対思わないはずなんですよね。だから初見にとってはマジで意味不明なシーンだったと思いますよ。序盤がゆえに忘れられているだけで。
┃VS.三木
ヤクザの事務所に突っ込んでいくところの描写は良かった
いい感じに尺とアクションを節約できる編集、いい感じだで。
もっとも、どこに損傷を受けたのかは三木自身に話させるべきだと思った、なぜなら三木の身体動作の練習場だから。
そして、対新一戦。ここは擁護できない。
原作では、触手を持て余して使いこなせていない敵のすきを突いた策で倒すのですが、映画は多少の変更はあってもちゃんと策を講じて倒してくれると思っていました。
なんといっても「普通と違うパラサイト」なわけですから、力関係は確実に三木>新一なわけですよ。正面で戦ったら確実にやられるタイプの敵なんですよ。だからこそミギーの機転と策によってでないと「勝てない」と思わせる緊張感が必要でした、いざフタを開けて見てみると。
ミギー「いまだ!」新一「あいよ!」
次の瞬間、バク宙して敵の首を跳ねる。
新一「やったぜ」
は?
もういっかいおかわり、
は?
なんの工夫もないんですがそれは、
なぜ森に逃げたか→左右に逃げて敵の触手をだしづらくするため(木が邪魔で走りながらだと下手に手を伸ばせない)
けど映画は→一直線に走ってバク宙首チョンパ。
森に逃げる説明も一切なし。あえて監督に聞きたい「ドラゴンボール以外のバトル漫画を知ってるか?」と、確かに主題はバトルではないし映像的なアクションということもある。
けどこの描写はあまりにも安直すぎる、愚直だと言わせてくれ。
この監督のバトルシーンには今後一切期待はしないと誓った。
┃倉森
いいと思いますよ、いい感じに小物っぷりが発揮されていて。
キャラクターはいいんですけど、展開がウンコですよね
なぜか探偵から記者に変更されている倉森、なぜか妻がいない倉森、そしてなぜか田宮良子に惚れている倉森。この変更点についてぶった斬ります。
・なぜか探偵から記者に変更されている倉森
まぁ別にこれは特に思うところはないです。
・田宮良子に惚れている倉森
原作では探偵だから田宮涼子に雇われるという形で活動しますが、
記者に変更されたために、田宮涼子に利用されることができなくなりました、その代替案として田宮涼子に惚れさせるという暴挙に出たわけですが、正直この改悪はマジで原作呼んだんか?と小一時間殴りかかりたいほどです。
まず、田宮涼子という人物は人間社会に溶けこむ知能はあっても、人間の心を揺さぶることはできません、なぜなら「人の気持ちがわからない」のですから。それによってパラサイト側とも衝突しますし人間社会でも人間に襲われる描写もちゃんとあります。だから探偵を雇うという上下関係でしか倉森を使うことができなかったのに、そこをまるで理解していない。
島田を使った時だって母親に疑われた時だって一回として人間らしさが出たことがないだろ!そんな奴がいきなり他人を惚れさせて利用するなんて高等技術できるわけないんだよ!マヌケ!
その「人の気持ちがわからない」田宮涼子が以下にして新一に赤子を預けることができたのか、そこの成長があったのに映画はその前提をぶち壊しています。
・なぜか妻がいない倉森
ここはリアルに「は?」ってなりました。あの野郎(監督)は親をどっちか殺さないと気が済まないサイコパスなのだろうか?
倉森に対して妻が発する「あんたは小物なんだから、小物なりにこじんまりとね」これは長年連れ添ってきた妻にしか言えないセリフです、そしてこのセリフに内心深く傷つき彼の探偵魂に火をつけます。ここは好きなシーンなんですが、
ここは記者であっても「ジャーナリズムに火をつける」展開にはできます。
しかし田宮涼子に惚れてしまったがために妻がいることは不自然になるのです。
だから「小物は~」というセリフを娘が読む羽目になります。不自然すぎますよね?父とは年齢の桁が違うガキが父親のすべてを見透かしたかのように「小物」って言うんだぜ?お前は父の何を知ってるんだよと。
一見自然に見えた「探偵から記者に変える」このちょっとした改変が物語を大きく湾曲させるひずみを生むの出会った。監督、無能。
それに家族は皆殺しされるんだから娘単品より妻子のほうが悲壮感出るのに、監督の無意味な改変によってそれも薄まるのであった。
脅迫のシーンももっとミギーと新一を対立させるべきだった。原作ならミギーはマジで消そうとしてたのに、映画では丸くなっていた。この時点ですでに視聴者の知らないうちに、精神構造がミギー=人間、新一≦人間という状態になっていた。心理描写すらもできないというのか。あのお方は。
もう、これ全体に言えるんだけどさ。なんで余計なことすんの?
原作は完成されてんだからさ、あとは削った分の整合性整えるだけで原作厨も大満足の素晴らしい作品ができるんだよ。
その超良質な素材をなんでここまでズタズタにできるのか不思議でしょうがないわ
寄生獣はお前(監督)が思ってるほど無意味な場面ってのがなくて、全部に後につながる意味が込められてるんだわ、それをプライドだかクリエイターの血(笑)だか泣ける映画(暗黒微笑)のために無意味なテコ入れして作品を汚すのやめてくれよ。マジで。
そんなに我を出したいなら自分でオリジナルでやれって、そしたら誰も文句言わねぇからさ。たぶん。
┃三人いれば勝てると思ったのか
正直ここの改変には何も驚かなかった、だって何も期待していないからだ。
ここまで見せられて原作厨の信用が少しでもあると思ったら大間違いだぞ。
まぁ怒りすら忘れてしまったけど、とりあえずぶった斬っておくかという気分ですわ。
まず先ほどの記事でも述べましたが、パラサイト自体の能力スペックに差異はないんですよ。その上で戦ったらどっちが勝つか、それを分かつのは知能の差、知的に策を講じたり、巧みに能力を使った者が勝てるという中で
田宮良子は三人のパラサイトに囲まれます、何度も言いますが基本能力は一緒です、だから不利なんですよ。この状況は、その中で田宮良子は言います
まぁ、その自信の赴くままに敵の3人のパラサイトは、田宮良子の知略に踊らされて傷ひとつ付けられずに倒されるわけですが。
ここで強く描写しなければならないのは、人間について模索し続けた彼女と、ただ人間を食べる対象とでしか見ていないパラサイト達の圧倒的なまでの知能の差なんですよ
なのにあろうことか、映画では上辺だけの「三人いれば勝てると思ったのか」のあとに、後ろから分裂させた破片をぶつけて倒すだけっていう。いやあろうことかではないですね、だって今まで見ていたらこれはやりかねないんですもの、今まで破壊し尽くした信用の差を見せつけられましたわ。
まぁ期待していないにしろ「えっ!これだけ!?」って思わせるだけ凄いですよ、すごいすごい。
尺が足りないならやらなければいいのに。。。
┃帰ってきた新一
もうこのシーン見るだけで良かったわ、
「あぁ、この監督は寄生獣を何も理解していないんだな」ってはっきりわかるから。
監督の点在する様々な改悪がこのひとシーンを最悪の悲劇に昇華させるまでの伏線として収束してるからすごい。
僕は寄生獣のテーマを「母親」だと豪語する監督に
今までの戯言全部聞き流してもいいからこれだけは真摯に受け止めて欲しい。
テーマが母親なら、寄生獣第一作はここまでやるべきだっただろ
他のどんな要素を改造して、時系列にどれだけ矛盾を作ってでも、「母親」を語るなら、田宮良子の母性が芽生えたこのワンシーンまで絶対行くべきだったって。それが最低限観客に対する礼儀だし原作の尊重でもあると思うよ。
島田秀夫とかAとかを削除してでもこれを持って来るべきだったろ・・・
中途半端に改変して結局尺が足りなくなったプロットの練りが足りてない駄作を映画だなんて観客をばかにするのも大概にしろという感じですよ。
そもそも映画に加奈を出さないなら、なぜ母親を殺したシーンで涙を流させたんだよ、馬鹿か?
本来涙を流すシーンで涙を流せない、それまでに精神的に太くなってしまった新一が「俺はどんどん人間から離れていってるんじゃないか?」っていう焦りで壁に頭を打ち付ける、でこから血が流れる、それが目につたい赤い涙に見える。これこそが涙を流せない人外泉新一の悪い意味での成長を巧みに表すシーンで、
ここは映画のどこかで再現すると思っていたら、しないまま終わったからビックリするわ。
俺ならハハコロ→血の涙→田宮良コロ→新一本当の涙
を一作に詰めるね。
少なくともスーパーパワーのゴミ展開よりマシ。
正直、原作のほうが泣ける、漫画で泣いたことのない俺が今「原作は~」とくだを巻こうとして単行本8巻を手にとって例のシーンを見ただけでちょっとウルッときたもん。
パラサイトよりに考えが近づきすぎてさらに精神も強くなったために、友達の死でさえも涙を流せない新一が悲しみを取り戻した、人間としての新一が帰ってきたっていうシーンなのに、そこまでの描写がお粗末すぎるゆえに、
個々のシーンをどれだけ良く描いても、そこまでの積み重ねがウンコでしかないから重すぎるんだよね、ウンコが支えるには。
とまぁここまで時系列に対しての叩きでした
このシーンは寄生獣屈指の名シーンですからきっちり映画館で記憶に焼き付けましたよ、ここだけは絶対にぶった切ってやろうと思ってましたからね。
最初に、
・なぜ倉森を延命させたのか。
あんなもんはさっさと殺して田宮良子と新一の継承領域を作るべきだったんですよ。倉森を無駄に生かしたせいで、感動のシーンなのに警察一同みんな倉森の死体を放置して茶番しててシュールなんだよ。
原作ではすでに赤子を奪取された瀕死の倉森から助言を得て、田宮涼子を見つけるわけだけども、そこをすっ飛ばすと、だだっ広い公園でちょっとした騒ぎになってる程度の空間に警察官が一同集団行動して集まってくるなんて不自然だろうがよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
警察は田宮涼子を知らないんだぜwwwwwwなんでそれだってわかるんだよwwwwwwwwwwww
そして最後は最後でヒロインが倉森の死体を放置して主人公に泣きついてお互い泣きついてんだぜwwwwww倉森に慈悲はないのかwwwよwwwwwww
なんでこんな不憫な改変したんだよwww
・なぜ赤子を髪の毛で包んだだけなのか
原作はもっと髪の毛を統合させて盾のように硬質化させていて銃弾から確実に身を守れるだろうなと思わせるぐらいの厳重装備だったのに、
映画ではただのびた髪に包むだけ、「いやいや銃弾あたったら死ぬやんけ」と突っ込みたくなりましたよ、そこは原作通りでなんらおかしくないのになんであんな改変をしたのか謎ですよ~
ちなみにあのシーンは寄生生物としての攻撃手段をすべて防御に使っていると意識させる過剰なまでの変形描写が必要なわけで、そこでミギーは(こいつなら逃げることも戦うこともできたのになぜ逃げないんだ・・・?)と不思議に思わせることが前提にあるんですよ、そして新一だけが田宮良子は母親だと気づいている対比。そう気づくために田宮良子がいかに頑張ったかというのも映画は何一つ描写せずにただセリフと場面をなぞっているだけ。寄生獣のキャラクターのキャラクターさというものが全面に吹き出す名シーン
そこすらも理解できてないなんて本当に寄生獣を呼んだか?と私は言いたい。ただそれだけの気持ちですわ。
・なぜ赤子は泣かなかったのか
原作では赤子は盛大に泣いた、数ページに渡って「おぎゃあ」が響き渡った。その赤子の気持ちを新一が想像した時に(それまで人の気持ちは愚か、自分の気持ちもわからず死体をただの肉だと言い切ったあの新一が自ら想像したのだ、その時に)
ある一言がよぎった「かあさんが・・・死んだ。」
その時に思い出す、
そうだよ!!、ここだよ!!!!!
思い出したわ、書くの忘れるところだった。
このクソ映画あろうことか火傷のシーンをはぶきやがったんだよ。そこは母親よりも思い出すべきシーンなんだって!!!このシーンで重要なのは母親が死ぬことじゃない、そんなもんは倉森程度でも経験しとるからな。重要なのは母親が誰をかばい誰を生かせたかなんだよ。寄生生物が作中で何度も不思議がっていた「人間はなぜ他者をかばうのか」(映画は全然描写しないけどな)という答えを出さないまま、田宮良子は献身して死んだ。
前作で「スーパーパワーで母親の意思が人間の枠を超えて新一を助けた」なんてくっさいシーンいれるなら。ここで献身を強調すべきだろうがよ!!!!!!!!!!タカシィ!!!!!!!!!!!
おどれ何も考えてなかったんかいワレェ!!!!!!!
まるで意味を理解していないし、込めてもいないただの名シーンをなぞっただけのBGM映像集を映画と言うんだから失笑片腹痛しですわ。
┃後藤
由来は「五つの頭」「五頭」「後藤」
後藤が最終形態にならない人間のままであること自体に不満の声がいくつか上がっていますが、僕にとってそれは非常にどうでもいい。
後藤が最終形態になったからといって、この監督に面白い戦いが描けますか?
結局これに尽きるんですよ、だからその点に関して残念だという感情は何一つないです。
それよりも後藤はあり得ないことを言いました
「この種を食い殺せ」
さてここがなぜおかしいかわかりますか~~?
答えはここ
寄生獣10巻の129~130ページのセリフ、引用します
ミギー
すさまじい怒りだ・・・・・・
だがこの怒りは単に戦いで不覚を取ったということだけではないだろう
ヤツの体に充満する怒りの正体・・・・・・
それは脳を奪わなかったわたしには存在しない感情だ
すなわち”この種を食い殺せ”
その感情が数匹分寄り集まることによって増幅し
結果戦いを求め続ける戦闘マシーンが完成した
そして9巻
ページは128~129、後藤ははっきり独白しています
「田宮良子がよく言っていた我々が生きる意味が何なのか」
「どうでもいいが一つわかったことがある」
「俺にとっては戦いこそが・・・」
後藤にとって、もはや「この種を食い殺せ」なんてレベルじゃないんですよ、目に入った物すべてを攻撃しても収まらない強い怒りを抱いているその原理は「この種を食い殺せ」でその単純計算で五倍もの強い感情であるから。
その意志の強さが他のパラサイトと一つ違う点なんですよ。
で、ここを強調する意味というのはちゃんとあります、それは「共存できるかどうか」なんですよ「この種を食い殺せ」だと田宮良子と同じ土台でしかない。それよりもワンランク上の敵意でまず「こいつと共存はできないな」というのを強調する必要がある、それが最後に殺すか殺さざるかの二択で活きてくるんですから、それがラスボスが後藤である最大の理由だと思いますよ。
それをただ「この種を食い殺せ」を連呼するマシーンに変えたのは僕を初めとした他の人を納得させるほどの論理があるんでしょうか、ないですよね、じゃあ改編するなといいたい。私はそう言いたいですね。
┃弁慶の抜きどころ
まさかマジでやるとは思ってませんでしたよ。
この映画の抜きどころは二つあります、まず田宮良子(深津絵里)の授乳シーン、チンピク度53といったところです。肩をはだけさせるところも女体を強調してすごくエッチです。おっぱいを飲んでる赤ちゃんと替わりたいと強く思いました。原作にはないですがとても良いシーンですね。
そして、原作でもあった里美ちゃんとセックスするシーン。
漫画は絵柄が古過ぎて、古ボッキできなかったんですが。映画では不覚にも生殖器をボッキさせてしまいました。
まず後藤にやられて、ミギーを失った新一は清掃工場のゴミ焼却施設に逃げ込みます、そこに電話をかけて察した村野里美(橋本愛)が新一を慰めに来る。
新一はただ里美に泣きつきます、「私の知ってる新一くんだ!」とかわけのわからないこと言い出す。その件は田宮良子が死ぬまでに終わらせとけよと。
まぁそんなことはいい、そこまではいいんですよ?いいんですよ。
そしてその勢いでキスをする、これもわかる、衝突しかなかった二人がどこに妥協点を見つけたのか初見は全くもって意味がわからないとおもいますが、唐突に結ばれ始めました。そして思ったよりもキスが長い。一回のキスで長時間べろべろしてるんじゃないんですよ、ちょっと唇を合わせてチュッをしては離す、チュゥをしては顔を遠ざけるを延々とやってんですよ。何がしたいんだよ!エロゲーをタッチペン代わりにキスするキモオタかよォ!!!(なんでこんな比喩が出てくるのかはお察し)
(キスなげぇよ、エロゲーをタッチペン代わりにキスするキモオタかよ・・・)
と思った瞬間、とんでもない行動に出ました。
なんと二人がいきなり服を脱ぎ始めたのです。
あまりにも唐突というか、まぁある程度予測はしてたんだけど一つ言わせて?
おまえら猿かよォ!!!
なんで、っ誰が使ってるかも分からない清掃工場のゴミ焼却施設だぞォ??
誰か入ってもおかしくないそんな他人の私有地に、勝手に住処にされて勝手に女連れて勝手に裸で寝てんだぜ??
従業員が入ってきたらどうするつもりだったんだよ、「おう、借りてるぜ」って腕に女乗せて言うつもりだったのかよォ!!
誰が許可したんだよ!!ホームレスも真っ青な図々しさだよ!!どんなに生活困ったホームレスでもそこはわきまえるって!!!!
新一くんその一点だけはあんたパラサイト並の精神力だよ、村野里美ちゃんも露出狂のド変態と思われても仕方が無いよォ!??
あとエッチも長げぇんだよ、どんだけアンアン言ってんだよ。
私事ですが、その日映画見に行くまでに2回ほど自慰行為をすでに行っていたのですが、不覚にもボッキしてしまいました・・・・・・
┃鉄片を指す、そして問題のシーンへ
後藤との再戦、途中後藤は高くジャンプするシーンがあったのですが最低限逆関節っぽくしていたのは評価に値します。
その評価を更に上回る問題をラストに残すのであった。
その布石とも言える、鉄片を指すシーン。
なぜ、銃弾が効かない後藤が鉄片だけ刺さったのかという疑問が生まれた。
それは「斜めの角度で弾く」をしなかったことにより一層増す、というのも初見から見れば、銃弾や爆発、ミギーの攻撃も効かない後藤がなぜ新一の攻撃だけ深く食らったのかという問題である。
後藤が腕だけ何も効かない設定だったのかという好意的解釈ができなくもないが初見にとっては深く引っかかる部分だろう。
原作通りプロテクターの説明をしていれば伏線込みで納得させられることができただろうに。なんでこんな意味のない改悪をするのか本当に謎で仕方がありません。
┃放射能汚染
まず、原作をおさらいしておきます。
後藤は新一に鉄片を刺されました、後藤は効かないと思っていたが、有機塩素化合物まぁ環境に悪い毒が含まれてたとだけ言えばいいたったそれだけのシーン。その毒により後藤は原型を保てなくなり(これは一応、寄生生物が化学兵器に弱いというのは島田秀夫によって実証されている)後藤を倒す逆転の一手となった
その有機塩素化合物は主にダイオキシンとかの系統のアレです(よくわかってない)
まぁ連載当時の一昔前に騒がれた環境汚染物質と言えばわかりやすいでしょうか
現在ではダイオキシンが発生しない焼却方法技術があるのであまり騒がれません。
無駄な改悪ばかりする監督もここに謎のこだわりを見せたのか
その有機塩素化合物を現代風にアレンジするつもりだったのか知らないが「放射性物質」と改変した。そんなところ誰も意識してねぇよ、もっと変えるべきところがあるだろと切に思うのですが、この放射性物質というチョイスが特にひどい。
まず放射能を浴びてる鉄片を刺したから体内に染みこむなんてことはない、放射性物質が害たるゆえんは放射線を放っているからである、というのも体に悪い放射性物質なら近づくだけで危ないのである。わざわざ刺したからといって被害に代わりはない、近くにあるというだけで、すでに害なのである。
その素人目でも「あれ?」とわかるような無知で馬鹿な整合性のカケラもない編集はなにか政治的な意図を感じざるを得ません
前作の母親の超人行動にしろ、これにしろ、何か一つでも問題シーンを入れないと気がすまないのでしょうか、これが俗にいう炎上商法なのでしょうか。
とりあえず明らかに悪意があると取られてもおかしくないレベルで、原作ファンを挑発しているとしか思えない脚本はわざとなのでしょうか。
これを無意識にやっているとしたらよほど頭が悪いとしか言えません。
監督にはオッサンの考える「今風」全部スベってますよ?と言いたい
┃打倒後藤
ここで満を持して黙っていたことを言います
「なぜラストバトルステージを焼却炉にしたんだ」と
監督は寄生獣を舐めすぎている、あの作者が最終バトルに選ぶステージに意味がないわけがないだろと。
原作では、最後戦うところは森です。これは自然を象徴しています。
そして戦っていくうちにあるステージにたどり着きます、それは森に不法投棄されたゴミの山です。そこで鉄片を見つけてクライマックスに辿り着くのですが。
まぁここまで聞いてもまだ「結局ゴミの山行くんだからいいやん?」と思うと思います。
バカヤロー!!!
この違いがわかんないなんて、
わからないなんて
バカヤローだよ!!!
映画のゴミ処理場と漫画の不法投棄されたゴミの山には灼然たる違いがあります
ゴミ処理場は社会通念上認められたエコロジーです
ですがゴミの不法投棄は反エコロジー、社会の敵です
そこになぜゴミがあったかということが非常に重要なのです。
というのも、新一たち人間側は「エコ」を謳っています。
ゴミの不法投棄やめろ、リサイクルしろ!とうるさく言っています。
でも、新一はその社会通念上の悪である「ゴミの不法投棄」に助けられたのである。もし、人間が皆真面目で、皆が皆エコのために日々切磋琢磨していたら。
新一達は後藤に勝てなかったのです。
人間が不真面目で、自己中で、自然のことなんか一切わきまえない馬鹿であまつさえそれを行動に起こす愚か者だったからこそ、新一は後藤に勝てたのです。
その強いアイロニーを映画はゴミ処理場に変えることによってその哲学の一切を破壊したのであります。
まるで自分の映画がゴミだと暗示するかのようにラストはゴミ処理場です。以下に美しくゴミ処理を描画しようとも映画がゴミであることは変わりません。
そして、僕の中ですごく印象に残った言葉が映画ではカットされていました
ミギー「
私は恥ずかしげもなく「地球のために」と言う人間が嫌いだ・・・・・・
なぜなら地球ははじめから泣きも笑いもしないからな」
「なにしろ地球で最初の生命体は煮えた硫化水素の中で生まれたんだそうだ」
もうこの一文だけで記事一つ書けそうですよ、それぐらい深いセリフだったのに映画はカットしやがった。
いや、カットされただけましか。
中途半端な監督に上辺だけでこのセリフを語ってほしくないからな
人間が自然にとって有害と決めつけるものの全ては時代的に点でしかなくて。
大昔の生物にとっては酸素は吸っただけで死ぬほどの毒だった、そしてその毒に適応できる生命が生まれ始め今ではそれが主流になってる。
結局何が有害で何が正しいのかなんてその人の受け取り方次第なんだって。絶滅した動物だって過去を遡るほどにたくさんいる。人間ごときが管理できるものでもないんだって、適合できなければそうなるように進化するだけ。飾るな人間、人間は弱くて脆い愚かな生き物なんだって寄生獣は教えてくれるんですよ。
最後、後藤を殺すかどうかだって慎一は最初地球のことを考えたら・・・なんて壮大な目線で語るけど、結局これから家族を担う一人間として後藤を殺すことにする
後藤を倒すことができたのは
人間が愚かだったこと
新一が等身代の人間だったこと
そこを映画は理解していない、飾らない等身大の人間を見せるべきなのに
愛の力で人智を超えた力を得る母や、生態系の役割を理解しているパラサイトたちと映画はまるで理解していない
┃エピローグ
なんでここで浦上と初対面なんだよ、ある程度接触させとけよ。
序盤のシーンでマジックミラーにする意味なかったろ。
まぁ最後は比較的原作に沿ってなぞられていたので不満はないです。
ただ一点気になったことは最後に新一がサイコキラー新井をぶん殴ったあとに、里見をすくい上げて腕枕するシーンですが、新井が確実に死んだとわかる描写が映画にはないので所見の人は「あいつまだ生きてんじゃないの?襲いかかってきそう」という不安を残したままになると思うんですよね
まぁあえていう必要も無さそうだけど、映画はこのエピローグの意味を理解して無さそう
確かに後藤を倒せたのは人間が愚かゆえだが、その愚かさは時に人にも牙を向く、人が人である以上、人間が向き合うべき敵はまた人間なのだと、そして人を殺して、強敵から逃げる悪が人間社会には生き残るようになってる。その象徴がサイコキラー新井で、最後の最後にほんのちょっとだけ寄生生物の存在を肯定したくなる最終回なのが寄生獣なのだと
監督には寄生獣1000回音読の系に処したいですね