はなくそモグモグ

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名作(に)寄生(する)獣について

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先週の金曜ロードショー寄生獣、録画していたのを見ました。

始めにことわっておきます、僕は原作寄生獣の信者です。

この記事を書くために漫画を読み返しました、そして、原作を読んでない方、原作の内容を忘れかけている方には好評な映画らしいですが、僕の感想を言います。

 

 

 

「映画寄生獣

 

クソです。

これから10,000文字ぐらい語りたいと思います。(結果、17000文字になりました。。。)

最初に言っておきます、僕は今とても感情的です。

エンドロールが流れている時、僕は頭を抱えていました。「山崎貴」、この映画の監督ですが。彼への認識を誤っていた、失望しました。

「ALWAYS三丁目の夕日」「STAND BY ME ドラえもん」「永遠の0」と、みなさんが聞いたことのある作品が多いかと思います、彼はその監督です。

三丁目の夕日以外の映画は僕は全く見ていなくて、テレビの報道やTwitter等の表向きの媒体ではあまり悪い印象を受けませんでした。そして、「BUMP OF CHICKEN」のファンであるということもあり同じファンとしてシンパシーのようなものを勝手に感じていました。その時僕は知らなかったのです。彼がそれぞれの映画の原作厨に叩かれていることを、2chアンチスレが伸びていることを。

 

そして僕も、今日からアンチです。

(映画に関しては金曜ロードショーで見た知識しかないのでカットされた部分を知らないのでないものを叩いているかもしれません、そこは指摘していただけると助かります)

 

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寄生獣より パラサイト

 

そもそも原作の寄生獣がどんなストーリーかというと、

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まず、日本の各地に寄生生物が現れ、人間に寄生していく。人間に寄生した寄生生物は脳みそに向かっていき、脳みそに到達するとその脳を食い散らかし自分の住処にする。

脳を食われた人間は死に、その体を寄生生物が操ることになる。それが上から二番目の画像、原作でいうところの「パラサイト」である。

このパラサイトは主に人間を主食とし、人間を次々に食べていく。はたから見れば共食いである。ただ、このパラサイトは寄生した人間の栄養を得て生きるため、本体である人間の身体が死ぬと、栄養が供給されなくなり寄生生物も死ぬ。つまりパラサイトは生身との人間の戦闘ではまず負けないが、人間が武装していて、拳銃などで本体である人間の身体を潰されれば死んでしまうのである。

よってパラサイトは人間を食っていく中で知恵を身につけ、徐々に見つからないように「食事」をする。パラサイト達は学習していき、次第に人間社会に溶け込んでいく。人間を食わずとも、そして人間の食べ物を食べることでも栄養を得て生きることができることに気づき、共存する道を選ぶパラサイトも現れるが・・・

という感じの「人間」と「パラサイト」という生物同士の衝突、「生きるということは何か」についての哲学が深く盛り込まれた、不朽の名作です。

 

 

今、必死に映画の内容を思い出しながら、横に原作の漫画を置いて執筆しています。 このブログ史上最大のボリュームになるかもしれません。

 

実写化が爆死……ぐらいのことじゃ驚かなくなってんじゃないの?
山崎貴へ 浦上
 

┃全体の総評

まぁクソです。
さっきからクソクソ言うだけはなんの進展もしないと思うので
ちゃんとした根拠、ピンからキリまで武装した論理性とある程度の愛と優しさを持ってぶった斬りたいと思います。

まず、一つ言いたいのは
たった二本の映画で寄生獣が再現できるわけ無いだろと、
原作の「寄生獣」は全十巻なのですが、内容の濃さは360Bに相当します
(1BLEACH=BLEACH単行本一巻分の内容の濃さに相当)

 

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内容の濃さもそうですが、場面一つ一つにちゃんと意味があって、なくてはならないものなのでカットするにも改変するにもそれを補完するほどの理由付けが必要になる、という点では非常に再現が難しい作品だと思います

現に大幅な原作改変と、未登場のキャラが数人いました。割と重要なキャラではあるんですが、映画を見終わった感じとしては削減できる要素なの・・・かな?とは思います。
 
まぁそこは尺の関係でそこに目を瞑るにして、問題はストーリー、
これががひどすぎる。
いうなれば原作の中の名シーンをひたすら詰め込みました~みたいな内容で、観光名所巡りやアニメの聖地などを巡る際に時間がないからと駆け足で通過する旅行をしている感覚です。
なのでせめて3部作にするか、一作3時間にするべきだとは強く思いました(映画は2時間の2部作でした)
あと監督の我が強く出ていて、彼のなんというかそのなんでもかんでも「泣ける映画(笑)」に改悪するクセが全面に出ていて吐きそうになりました。
寄生獣はもとより、お涙頂戴ウイルスに寄生されていたのです。

そして最大の汚点は、「ただのお涙頂戴」にしてしまったことです。
「永遠の0」はわかりませんが、三丁目の夕日ドラえもんでは通用してきたお涙改造。
それは寄生獣では一番やっちゃいけない改変、観客というか読者の視点を一歩上にあげてから物語を魅せる作品なんだから、世間一般のアホどもがキャッキャできる大衆向けに改編するぐらいの能力なら最初から作るなと言いたい。そして別の作品でやれと思う。
これから寄生獣の新規ファンも、映画の可能性も奪われてしまったと考えると、心が痛みます。

そして、冒頭の台詞「地球上の誰かがふと思った~」という人間殺して自然守ろう!的なセリフを田宮良子(深津絵里)に読ませたこと、
これはいけない、
挙句作中でもパラサイト田宮良子(深津絵里)に言わせたこと、
これもいけない。

あくまで「誰かが思った」体なんだから形式的に見ても登場人物に読ませるなんてありえないでしょと、さらに原作を読んでいたらことさらにありえない、普通は作中に登場しないそのへんの一般人か声だけで誰か判別できないようなモブ等に言わせるべきセリフなのである。
というのも「人間を減らそう」という方向性自体は誰かの意思じゃない、そういう自然の働きが起きて、その要素としてパラサイトがあるわけで
パラサイトが旧時代の悪役みたいに「人間は増えすぎたんだ!我々が粛清する!!」みたいな意思を持ってる事自体がおかしく、そういう描写をしてしまった時点で製作陣は原作の内容を理解していないと思われる。
生態系には生産者(植物)、消費者(動物、人間)、分解者(バクテリア等)に分類されて消費者の中にも肉食動物、草食動物と力関係がはっきりした食べる食べられるの役割がある、どっちかが減ったらどっちかが増えて、その繰り返しでまた均衡を保つようになる。でも動物たちは自覚しているわけじゃない、ウサギが「ライオン最近減ってきたな、絶滅するかもしんねぇから食べられとくか~」と明確に意思を持って食べられるわけじゃない、本気の生存競争をしてその「おなか減った、食べたい」「死にたくない、食べられたくない」がぶつかり合った結果が生態系としての自然の働きであって
パラサイトも同じで、「人間は増えすぎたから減らそう」というのは誤りで、「おなか減った、人間食うか~」でその競争の結果人間が減りましたという自然の一つの働きなのだと。パラサイトも自然の要素の一つに過ぎないのだ
そこを踏まえるとパラサイトが「人間を減らそう」的な意思を持った集団という描写をしてしまうと、人間が「僕らが牛を食べるのは牛が増えすぎたからさ!しょうがないよね、誰かが粛清しないといけないんだ!おかわり!」というような自己を正当化する詭弁にしか聞こえなくなり存在自体が悪い意味で頭の悪そうな安っぽい存在になってしまうように思う。

それとパラサイトの出現だよ、漫画は空から降ってきたのに、映画は深海からでてきた。
これに関して言えるのは、まぁ特に不満はない。むしろ人間と別の生物だが人間と同じ海から来たということで宇宙人というより地球生物としての認識が強くなるから、物語の深みを加える上ではいい改変だったと思う。
ただ整合性は抜きにしてな、写実的に考えるなら世界に点々とするはずの寄生獣が海から来たとなると海辺に近いほど寄生生物、パラサイトが多いことになっちゃうだろ。原作は空から降ってきてるからある程度のアトランダム性は確保されるが。寄生生物はそもそもどんな生物にも寄生するわけだから(原作では犬に寄生したパラサイトがいた)海からきちゃうと人間にたどり着く道中で絶対動物に会うだろうなとは思ってしまう。そこを説明していないので、その点は残念。

僕は事実原作よりの評価をして、原作という単語はこの記事の中でいくつも出てくると思いますが、
僕が原作を引き合いに出して映画を批判する点は僕自身は原作信仰をしているわけではなくて、最低限映像化する上で尊重すべき「哲学」というか物語の核の部分を伝えるためのストーリー展開を、映画は雑音を加える改変をしているという点です。
世界の絶景を今から見せるというときに観客にサングラスをかけさせるというか、いまいち寄生獣原作の伝えたかったことをろ過するようなフィルターをこの映画は作ってしまっている点を僕は批判しているのです。
なので原作厨ではないことをここで明示しておきたいと思う。
 
もう死んだんだよ。・・・爆死した映画は作品じゃない。原作の形をした肉だ。
山崎貴へ 泉新一

 

 

┃キャストに関して

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キャストに関して簡潔に言えば、文句はない。
泉新一(染谷将太)もちょっと似てるなと思ったり、フリーライター倉森(大森南朋)も小物っぽさがでてたり
そもそも、原作の絵柄が古いし、描き分けの点で言えば原作も外見上のキャラ立ちはあまりできていないので、キャラクターのイメージというもの自体ははじめからあまりなかったというのもあってそこの崩壊というのはなかったです。

ミギーの声もいろんな声がありますが(主に批判)僕はミギーの声は誰でもいいと思っています、というのもそもそも右手に寄生したパラサイトが無理やり目と声帯を構築したわけですから、母体をそのままパクった他のパラサイトは人間体の容姿、声をしているべきですが(設定上後から改造は可能、しかしパラサイト自体がさつというか身分を隠すことに無頓着であるため、元の身体をあまりいじくらない)ミギーに関して言えば誰の声でも不自然に思っても自然なのです。それより特筆すべきなのは後に記述するミギーのキャラクター描写です。これは後で言います

そして、強いてマイナスのことを言うと僕が違和感を覚えたのは主人公新一の母である泉信子(余貴美子)と島田秀夫東出昌大)である。刑事に関しては論外。
僕は俳優とかに詳しくないゆえ、代替案を出せないので一方的に否定する形で申し訳ない。
まず、泉信子(余貴美子)。正直作中でいうところの母性をあまり感じない、原作信仰するなら「世間知らずの箱入り娘のおせっかい焼きの母さん」にすべきである。生前の彼女の過干渉、おせっかい焼きなところをうざったく思う泉新一(染谷将太)で火傷の件で思うところのある母でなければいけないところを、父をいない設定したのか、あ、それだよ。そこも後にぶった斬ります、原作ではいる父親をなぜをいない設定にしたのか。
くっそー、書けば書くほど叩きポイントが芋づる式に出てくるな。俺だって褒めたいんですよ、ほんと。(ミサワ感)
閑話休題
父がいないゆえか、主人公泉新一(染谷将太)のほうから母親にかまっていく、俗にいうマザコンっぽい演出になっているのがなんともキモい。
これも監督の言う泣ける映画(爆)なのか、僕はうざったく拒絶する新一と口うるさい母のなんとも火傷でつながった見えない絆を表現して欲しかった。そしてその火傷は映画そのものを大やけどさせるクソ改変をももたらしてくれるのであった。後述します

そして島田秀夫東出昌大)、原作の島田秀夫には感情の起伏(の演技)がなく「能面男」と噂されるほどで、映画の東出昌大の演じるニコニコぎこちない笑顔の島田秀夫ではないんですね。まぁ、その性格によって物語自体が変わるわけでもないのでどっちでもいいんですけど。あの笑顔キャラは後にでてくる三木と被る、最初東出昌大が出た時、三木か?と思うほどには。まぁあまり重要性は低いのですが一応ゲームで言ったら1ステージを総括する大ボスキャラなわけですから、僕個人的には能面男であったほうが強そう、「こいつと闘うことになるのか……」という緊張が生まれたと思います、少なくともフレンドリーな島田秀夫だと「襲って来ないんじゃないか」とすら錯覚するようになるので個人的には低評価、話の展開的に絶対敵キャラになるわけですから原作のように能面男でいつ暴走するかわからない不安定な島田秀夫でいて欲しかったですね。原作では幾多も島田秀夫が実力行使しようとしてそれを止めようとする新一の確執があってなかなかヒヤヒヤしましたから。
 
わたしの『仲間』達はただ食ってるだけだろう。
監督なら当然の行為じゃないか。
シンイチにとっては作品で食われるのがそんなに嫌なことなのか?
山崎貴へ ミギー
 

┃改変した事項

漫画と映画の比較部分を羅列した。 見る上で前提として頭においてもらいたいのが原作の項目はあくまで映画と照らした部分なのであって、原作は映画にないレベルで行と行の間にもっとストーリー展開があるということである(ヤンキーとの抗争、新一が数人の女性と絡む、島田秀夫との確執等)
原作漫画 映画
空飛ぶ犬撃破  
空き地みたいなところでミギーを勧誘するパラサイト出現、ミギーは確証が持てないと決裂させ殺害 店の厨房みたいなところでミギーを勧誘するパラサイト出現、ミギーは確証が持てないと決裂させ殺害。映画では最初に闘うパラサイトとなる
田宮涼子の出現と接触 田宮涼子(深津絵里)の出現と接触
泉新一、喫茶店で田宮良子、Aの二名と接触 泉新一、水族館で田宮良子、A、島田秀夫の三名と接触
Aが学校に攻めてくる Aが商店街みたいなところで襲ってくる
Aを撃破 Aを殺害。。。し損ねる
父と母だけで旅行に行く 母親がAを見つける
新しいパラサイトが宿主を潰してしまったので新たに寄生先を探す、その結果新一の母が寄生される。 宿主を損傷し、新たな宿主を探す。結果母に寄生する
新一、母の形をしたパラサイトと戦えず致命傷を負う 新一、母の形をしたパラサイトと戦えず致命傷を負う、映画のこのシーン長すぎ、重要なのはここじゃない。
ミギーが心臓になり一命を取り留めるも、自らの破片を右手に回収しきれず、新一の体内(主に血液中)に残留することになる。それにより新一も寄生生物並みの五感と身体能力を得る代わりに、ミギーが一日4時間ほど完全に活動停止になる期間が生まれる(原作ではここがバトル漫画としての面白い駆け引きになる) 映画にも同様の描写があったが、いまいち初見は理解できない程度の尺での説明でなおかつ、四時間睡眠のデメリットを全然上手く活かしきれてないので。この設定はなかったことにしたほうが良かったんじゃないかと思うほどである。
新一、なんとしてでも母を倒しに行き、道中で自分と同じ境遇の部分的に寄生されるも脳が残っているパラサイト兼人間「宇田守」に出会う(映画には出てこない)、そして母親の形をしたパラサイトを見つけ交戦、とどめを刺そうとするも火傷の後を見てしまい躊躇。そのスキに攻撃されかけるも宇田守(どっちかって言うと寄生生物のジョーのほう)がとどめを刺す  
原作ではここで島田秀夫が登場する パラサイト集団の演説
島田秀夫が暴走する(箇条書きにすると唐突かもしれないが数話またいでの出来事である) 島田秀夫が暴走する
島田秀夫が感知できない300m超過の遠距離から投石して殺害 遠距離からミギーが弓に変形し、鉄パイプを射て殺害
島田秀夫の死体を調査して寄生生物と人間の違い(髪の毛をちぎると寄生生物の作る髪の毛はボロボロと崩れ落ちる)が発覚する 映画では遥か前に都市伝説や噂として認知される(その判別方法で島田秀夫を特定する、しかし原作とは順序が逆であることは言うまでもない)
その後ストーリーは続いていく(パラサイト集団の演説等) 新一が母親の形をしたパラサイト、つまりAを倒す。ここで原作信者が満場一致でありえないという伝説級の暴挙(改悪)にでる。
  俺達の戦いはこれからだ、完結編に続く

 


作品は『泣けるか』より『記憶に残るか』だよ、シンイチ。
山崎貴へ ミギー

 

 

┃ミギーというキャラクター

ここはマジでひどいね、阿部サダヲの声自体は別に僕はどうこう言うつもりはない(理由は上記にて)
ただ、あの演技はいけない。監督の支持だろうが、なんというか初見で見たら早口で喋る意識高い系のミサワみたいなキャラクター、原作をアフタヌーン時代から読んでいたと豪語する監督だが、あんたホントに読んだのか?とすら思えてくるほどの改悪である。
何がいけないのか、それは二つある。

第一に「寄生生物」は、特に「ミギー」は早口ではあり得ないということである。
ミギーは合理性の高い生き物で思考原理ははっきりしている「生への執着」、生きるためには誰だって殺すし、余計な情はコントロールして封殺している、無駄を嫌う完全な合理主義者である。
その点を踏まえると、早口はあり得ない。なぜなら相手が聞き取れなかったり追いつかなかったりすると、もう一度言い直さなければならないからだ
我が国の天皇陛下もスピーチの際はゆっくり話す、聞き取りにくくて「もう一度言って」なんて記者を始めとした国民は言えないし、海外からの翻訳家への負担を減らすためとも言われる。それはそう教育を受けてきたからだ。
ミギーも同様、言語をコミュニケーションの道具としてでしか考えていないだろうし、わざと難しい言葉を使って自分をよく見せようとかそういった雑念は全くない(物語が進むに連れ学習し、新一のメンタルコントロールのために嘘をついたりするが)少なくとも意思疎通を第一とする考えは学習していくうちに強くなっていくはずである。特にミギーは新一との意思疎通は死活問題であるから、慎重にお互いの食い違いがないように話すはずであるし、ミギーは賢いので新一に合わせた話し方ができるはずである。なのにもかかわらず、映画のミギーは始終早口でまくし立てるミサワみたいなキャラクターで、全然合理性のカケラもないミギーなのであった。

第二に、視聴者の印象である。初見は特にこの早口のミサワミギーを見た時に「なんか屁理屈こねる変なやつだなぁ」という印象を抱いてしまうこと、これはいけない。
ミギー自体の愛嬌は残るが、これにより彼の発する論理や言動自体になんの説得力もなくなってしまった。
監督は泣ける映画(暗黒微笑)を作るがゆえに、どうしても観客には人間の側に立たせようとした、だからこそミギーという第三者の意見を早口にすることでおざなりに表現してしまった。
原作(この単語何回目だよ)の意を汲み取るなら、力関係はミギー>新一なのだが、あくまで論理、お互いの主義主張はミギー=新一(実はすこしだけミギーに理がある)にならなければならない。
しかし、ミギーをミサワに改悪することによって、視聴者はミギーの主張早口でまくし立てる小難しい論理としてでしか認識しないだろう、それによってお互いの主義主張は主観によってミギー<新一になってしまうのだ。
原作では、最初は圧倒的な冷酷さで新一がドン引きするほどのミギーがだんだん人間らしい考え方に寄って行って、新一は逆にどんどん考え方が寄生生物のそれに近づいていく、その対比はシーン毎に強く感じられる。だが映画はどうだろうか、ミギーの主義主張を小難しいミサワキャラとしてオモシロキャラにしてしまったために、新一の心境の変化がまるで意味の分からないことになってしまう、あの考え方は「ミギーに近づいていってる=俺は人間から離れていってるんだ」とミギーを一種の指標にして成り立っていることを製作陣は理解していない。
映画で新一自身が「価値観違いすぎなんですけど!」と言わせるのもよくない。
今風の言葉を選ぶちょっとズレた大人みたいな言葉の選び方も鼻につくがそれよりも
あくまで、新一は自分の意見(人間を殺してはいけない)が絶対だと思っている節があって、それによって作中「寄生生物に考えが似ていく」ことに対して葛藤するのであって、はじめから「価値観の違い」というのを自覚することはあり得ない。新一は「自分の命が大切、脅かすものは同種でも殺す」というミギーの合理的思考に見解の相違どころか意見として認めていないのである。それを価値観の違いだと認識するのは多少飛躍しているように思う。
 

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さらに問題なのは過剰なまでにミギーというキャラクターの形に拘ってしまったこと、上の画像を見ていただきたい。これを見れば映画だけを見た人はミギーだと思う。

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そしてこれはなにか、と言われれば寄生生物(パラサイト)と思うだろう。
そこォ!!
そこに違いがあってはいけないのだッ!!!!!
あくまでミギーは寄生に失敗した寄生生物でしかないということを忘れてはいけない、だから外見に寄生生物との明確な差異を生んでしまっては別物という認識がより強まり、読者によるミギー主観から見て「同種を殺している」という感覚が生まれなくなる。
 
さらに僕が頭を抱えたのは、上の画像を見てもらうとわかる戦闘モードのミギーである、そのミギーは両手を刃物上に変形させただけ。製作陣の主観が出すぎていて、ミギーの変形自体に「人間らしさ」が生まれてしまっている。

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原作では(伝家の宝刀)

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用途に合わせて柔軟に変形している、これは「合理性を追求する」思考原理に通ずるものであり、また名前などに無頓着などから「人間と同じ拘りがない」というミギーから考えると、一定の姿形の固形でいることはミギーのキャラクターをしっかり読み取れていないと言える。

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映画の基本形態はこれである、というのも原作の中では基本新一とミギーが話す場所というのが情報漏えいの安全上新一の部屋であり、その中では基本ミギーは勉強しているのでこの形態がおおい。あくまで勉強する上で合理的な姿であってこれが基本形態なわけではない、しかも、ミギーが全身を晒せるのが新一の自室のみで勉強を兼業しているという要因でこの姿の頻度が多いだけで。

そこを考慮せずに、ただの頻度という面だけでミギーに基本形態があると勘違いしているのだとしたら、製作陣は馬鹿であるとしか言いようがない。

勉強する形態(目、口、両手)といっても原作ではかなり形状が異なるわけで(漫画だが基本話すシーンなので映像的な魅力が無いため、作者の配慮で変形に違う味を持たせているのだろうと思われる)映画でこそ、ここは魅せるべきシーンなのに予算の削減なのかミギーの基本形態をずっと維持し続けているのは、ミギーの性格上あまり好ましくない表現であるし、映像的にもつまらないはずである。

何を考えてるんだよ、監督!

 
上記を踏まえると更におかしな点が一つある。
それはミギーがジェスチャーをすることである。

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この身振り手振りが上記のミサワ感を助長させ、ミギーをウザキャラに昇華させる要因にもなっている。

原作ではミギーが手を作るときは手を使う時だけである(何かを持つ、道具を使う等)つまり、喋るだけの時は新一の顔の近くにいくための目と口だけという必要最小限の変形ですましている、これもミギーの「合理性を追求する」思考原理そのものである。

しかし、あろうことかこいつ(ついに監督をこいつ呼ばわり)は喋るときに不必要である手を出してきたのである。

そもそも人間が身振り手振りする、ろくろを回すのはなぜかというと、視覚的に話の内容をわかりやすく相手に伝えたり、話の内容を自分で整理する癖であるためだが、

人間が身振り手振りに始終するのは人間の手が手以上のものにならないからである。

というのも、人間がもし自分の腕をグニャグニャ好きに変形させられるとしたら、もっとジェスチャーは自由になるはずである。手をグーの形にせずとも車の形を細部まで表現するし、石の形にもするし、ヘリコプターにもさせるはずである。チョキの形を作らずともハサミを表現するし箸を表現するし、ペンチを表現するはずである。

そしてさらに合理的に相手に話を伝えようとするミギーならば、その考えは顕著に現れるはずである。ゆえに話すときにだだ手を出すのは合理性にかけるし、ジェスチャーを使って相手に物を伝えるなら手なんかよりもっと複雑精巧に対象物に化ければいいのに、映画のミギーはひたすら人間的なジェスチャーに拘ってしまっているのである。

そういうところを見るとミギーの挙動一つ一つが実に人為的というか、監督含む製作陣の思慮の浅さが浮き彫りになっているように思える。

 

整合性を維持できないのであれば、気づけ無いのであれば、ミギーをワンピースで言うチョッパー的なマスコットキャラクターゆるキャラ的な役割に当てはめようとするのは実にやめていただきたい。

全体的に言えることだが製作陣のオナ二ーが作品としての寄生獣に対して着実に歪を作ってしまっているのである。

ミギー一つで記事かけるなこれは(笑) (いごとではない)

まだまだ言いたいことがあるがここまでにしておく

 

自分が生きるために他の作品を犠牲にする。
クリエイターはそうやって生きているのだ。
山崎貴へ ミギー

 

 

┃空飛ぶ犬

映画では、料理店の厨房に入ると最初のパラサイトがいた!みたいな展開になっていますが、原作では最初に「空飛ぶ犬」と戦います。
つまり、映画は「空飛ぶ犬」をカットしているわけですが、僕は最初の戦闘はやはり「空飛ぶ犬」であるべきだと思うのです。僕が映画を見てこの時「察し(あっ・・・)」と思いました。
というのも、ミギーがパラサイトを殺す行動は「共食い」にあたるわけですが、でもパラサイトを殺す行動は新一にとっても「人間を共食い」することと同義になるので、最初に例外である「人でないパラサイト」と戦う必要があります。なぜなら新一主観で「同じ種族を何の躊躇もなく殺せるミギー」という価値観の違いを明らかにすることは物語の上で非常に重要であり、そこに「相手は人間でもある」という余計なノイズを残してはいけない。原作の作者はこれを意図してやったのかは分からないが、最初の敵としては非常にいい役割をしている。
 
・寄生先の動物の環境上すぐ争いに発展する→襲ってくるのに正当な理由
・動物の環境で育ったため戦いの知恵がない→基本同じ能力での戦いで知能の差は強さに直結するため、弱い敵の描写としては説得力が強い(作者が空飛ぶ犬を採用したのはここが強いと思われる)
・新一に取っては犬、ミギーに取っては同じ種族→ミギーがいかに冷酷かをアピールする上で必要な対比
 
等、偶然と思いたいほど巧みな敵選びであるわけだが、なぜか映画ではカットし、料理店の中にいる人になってしまった。それにより上記の利点が損なわれ
 
・戦う正当な理由→なぜか襲いかかろうとする、なぜかミギーが殺す(別に捕食がバレても困ることがないし、移動の話も唐突である。)
・能力は同じ→同じ人間を素体としているので、一対一なら互角のはずである。それを力押しで倒してしまった。
・殺すことによる躊躇→ミギーが躊躇なく殺しても、新一自体にも「人間を殺したという罪悪感」というノイズが入ってしまい、ミギーの冷酷さをメインに表現できなくなっている。
 
その点を踏まえて、なんでそんな改悪をしたのか意味がわからないしだいである。

わたしの『仲間』達はただ食ってるだけだろう。
クリエイターなら当然の行為じゃないか。
シンイチにとっては作品で食われるのがそんなに嫌なことなのか?
山崎貴へ ミギー
 

┃能力バトル物としての寄生獣

能力バトル物としても寄生獣は語れるべき点がありまして、
この作品は俗に言う同一能力バトルなんですよ、登場キャラクターが全員同じ能力で繰り広げられる能力者バトル。
基本的にスペックは同じで、強弱を決める要素は戦い方の工夫だとか、策をこうじるとか宿主の身体能力で決まります。とくに寄生獣は戦い方の工夫に力を入れていて、頭を分裂させるパラサイトたちに対して、右手しか変形させられなく(そこによる不利な描写は特になかった)て残りすべてが弱点で右手と脳みそで対立があり行動しづらい主人公側は周りの能力者と頭ひとつ劣る不利な立場である。
だからこそ、その不利を脱却する策や戦術をこうじるわけだが、映画には全くそれがない。むしろミギーが無双するので見ていて全く緊張感がない。
ミギーのほうが他のパラサイトよりも一回り強いような描写をするため、そこも他の寄生生物との溝を産んでしまっている。なぜ、原作のようにミギーと寄生生物が同じ力で、日々勉強しているミギーのほうが一枚上手だったという描写ができないのか不思議てたまりません、泣ける映画(片腹大激痛)に目が眩んでほかは一切見えていなかったのでしょうか
戦いの中でミギーは弱点である新一を上手く使う(原作でのAの戦闘)し、「ミギー防御たのむ」の説得力も増すのに映画はそれを蹂躙した。
母親の形をしたパラサイトが出てきて新一が致命傷を負った時も、バトル漫画の観点からある一つの転機が訪れる。
新一がバランスタイプから、特化タイプになる点である。
新一がミギーとの戦い方を覚えてきた中でバランスが生まれた時に、この変化がまた面白いわけで、上にも述べたので完結に話すと。
メリット……右手のみがすごかった新一だが自身の身体能力が飛躍的に上がる
デメリット…メインウェポンのミギーは1日に4時間ほど完全な眠りにつくため、隙が生まれる。
これによって、今なら敵に勝てるという状況と、この状況なら確実に負けるだろう。という駆け引きが時間差で生まれる。だからこそ確実に勝てる状況でも「ミギーがもし今眠ってしまったら負けるんじゃないか・・・」という緊張感が生まれていたしその辺の描写もうまかった。
しかし映画はどうだろうか、最初からミギーが無双していたために「新一がつよくなったぞ」で?って感じですよ、もとから知恵比べせずにミギーが強かったから、これ以上強くなってどうすんの?って感じだし新一自体がアクションができるようになった点では映画にとって都合のいい描写でしかなかったねとしかならない、眠りのデメリットも母親(A)との戦闘でしか使われてないし、そもそもAは新一のボディが倒したようなもんだから、更に強くなった新一なら絶対勝てるだろうとまるで緊張が生まれなかった。正直Aとの最終戦は後に絶対来るであろう泣けるシーンが頭をよぎり勝つ以外の方向性がなかったのでバトルに時間をかける意味というのが茶番でしか無い。
 
そしてパラサイトに一歩劣る立場だった主人公側が、新一が強化されることによって知恵比べがいらずにその辺のパラサイトは瞬殺できる様になった頃に
出てくる最強のパラサイト「後藤」の強敵描写もより一層映えるだろうに。
知恵比べ要素を一切排除したためにこれらの利点をすべて失わせてしまった。
 
監督はバトル物を描いたことがないのかあるいは読んだことが無いのだろうか、そのへんの駆け引きが本当に下手すぎる、下手とかいう以前に存在していなかった。映画寄生獣の戦いに関しては。
 
あと個人的な感想になるのですが、戦闘シーンをもうちょっと早くしてもいいかもね、パラサイトの攻撃がチープだと言われてもドラゴンボールのアレみたいに素早くすべきだった、人間の目に負えないほどの速さで行われる攻撃の応酬だと、そこに入って行けば死ぬんじゃないかという不安も生まれただろうに、下手に視認できるスピードだったために、「頑張ったらかわせそうだな」というひねくれた考えを残してしまうように思えた。それなら新一が強化された時にパラサイトの動きについていけるシーンが映えたとも思う。
 
道で出会って知り合いになった作品が、
ある日突然死んでいた。
そんな時、なんで悲しくなるんだろう
山崎貴へ 泉新一
 
 

┃母の死を受け入れられない新一

長すぎ
日本よ、これが「泣ける映画」か?
初見の方は驚かれると思うが映画ではクライマックスのこのシーン、原作ではまだ2巻の中間ぐらいなのである。しかも新一が錯乱するシーンは6ページほど
これを映画は長い尺を取ってしまった、普通に考えて新一が泣きながら母親に感謝の言葉を述べてる間にパラサイトが待ってくれているのも滑稽である。しかも、確実に敵意を向けて戦った末に人間部分にやられるという屈辱を受けて怒っても不思議ではない、すぐに攻撃してもおかしくないシーンでこのお涙頂戴をやるのである。
正直このシーンは新一が母親は殺せないよという精神状態の位置づけだけでよかったのにだらだら尺を使ったのである。泣ける映画を作るにしても結局母親を倒しに行くシーンがあるんだからそこに感動シーンを作ればいいのに、わざわざ視聴者の涙を分散させることもよくわからない
そんなに監督は視聴者の涙が欲しかったのだろうか。特殊な性癖を疑うレベルである。
僕主観で言えば、ここも涙を貯めて、母親を倒すシーンでも貯めて、田宮涼子の死亡シーンでカタルシスを産めばいいのに、無駄に涙を乱射する結果になったことはクソとか評価する以前にちょっと意味がわからない。
 
叩く!   はやく!
一秒でもはやく!

かあさん(寄生獣)!   かあさん寄生獣いま!
その化け物を切り離してやるからね!
山崎貴へ 泉新一
 

┃弓矢

島田秀夫を殺害する手段として、漫画では投石だったが映画では弓矢になっていた。
最初見た時は「映画だし派手でいいんじゃない?」と思っていたけど、原作をもう一度読み直すとここもひどい点でした。
というのも漫画版では分業になっているのだ、ミギーが命中コントロールに集中するため新一は信頼して全力投球できるのである。ここが明らかに他の戦闘と違うのは、完全にミギーに頼ってきた新一が強化されたことによって初めて同じ立場に立てたと同時に強化された新一の強さを誇示する一つのポイントであるのだ。
にもかかわらず映画はミギーが一方的に矢を調達して一方的に弓になってしまった、そこに新一が入る余地はなく、ただ引いて放つだけという新一がせっかく得た人外のパワーを活かすポイントがなくなってしまっている点である。これでは協力が一方的な援助になってしまう。しかもミギーは自由自在に変形できるのだからそもそも新一が引く必要もないし大砲になれば新一は要らないのである。あくまで役割を均等に分配することを考えれば絶対投石といかなくても弓矢はちょっとないのである。
 
わたしがこの映画を見たとき 1つの『命令』がきたぞ……
“この『◯◯』を◯◯◯◯”だ!
山崎貴へ 田宮良子
 
 

┃大やけど

あの演出はマジでない
原作信者を何人集めようともその全員が口をそろえてボロクソに言うだろう。
山崎貴最大のオナ二ーシーンである。というのは母親の母体を完全に乗っ取ったAと新一と戦っている最中に、ミラクルパワーが働いて母親のやけどした手が、勝手に動いて奇跡的にパラサイトの攻撃を守ってくれました、母さんが守ってくれたんだウワーンという最大にして最悪のゴッミカッスゲボクソドハゲチンカスコイキングヒマナッツウンチッチバナナうんこ型そびえ立つうんこはなくそモグモグ(タイトル回収)寄生虫描写なのである。
まず、設定からおさらいするとこのシーンはあり得ない。寄生生物は脳みそを完全に食い散らかして宿にするわけですから母親の自我は微塵も残っていないのである。あいつ(監督)が人間は脳みそ以外のどこかで物を考えられると勘違いしているのかもしれないが、そうでないとするとこのシーンそのものは原作に対する冒涜以外の何ものでもないということだ。
 
確かに、確、か、に「母親のスーパーパワー」は映画、作品共に一つのテーマではある、あるからそういう展開にしたくなるのも五億歩譲ってわかるとしよう。
でもそのスーパーパワーは人間の範囲でしようや。
せっかく積み上げてきた無力な人間個人とパラサイト個人の強さの表現と、人間部分を破損させたらパラサイトが死ぬという部分も人間に寄生したゆえの弱さ。だし人間の非力さは散々訴えてきたし、その人間という狭い枠組みでどれだけ努力するのか、その非力ながらにも伝わる芯の強さを表現しろよと。
目に見える形でこうでした~感動~なんて高校の文化祭でも再現できるレベルなんじゃボケ。
これが許されるなら、素体を破壊されたパラサイトが生に執着するミラクルパワーで新一をボコボコにだってできるわけだし、島田秀夫だってバレたくない思い出ミラクルパワーでちぎった髪の毛が原型を保っていたっておかしくない。
その根底を覆す最悪の改変であることはもはや語るまでもないだろう。
 
そもそも、完全に人間ではなくなったパラサイトに対して新一は「母親」という人間扱いする対比に思うところがあるのであって、本当に母親部分が残っていたらあの哀愁は全く違った別の何かになってしまう。
というわけでこのシーンはあまりにひどすぎて机を蹴ってしまうほどひどい{二重否定(ちがう)}
僕ならせめて主人公が不利になるように母親に化けさせてまさかと油断させますけどね。
あくまで母親は人間で新一は半人外、パラサイトは完全人外という枠組みがあるわけだからさ、そのボーダーは守れよ。超えちゃいけないラインがあるだろう。
監督が「母性愛」を強く謳うなら、母親が人間の範囲内でどれだけ尽くしてくれるのかどれだけ強いのかを表現して欲しかったですね。
脳みそがなくなっても動き続けるのが監督の表現したかった母性か?ならばあまりにもサイコすぎるだろう。
愛の力で超人になるなんて半世紀生きた大人が表現するものじゃないでしょ、本当に。それだけ生きてきて安っぽい感動しか表現できないのなら本気で才能ないと思いますね、僕は。
 
ごめん・・・・・・人違いでした
山崎貴へ 村野里美
 
 

┃母性愛

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そしてすべてのロジックを吐き出したこの状況で、テーマである「母親」を満を持してぶった斬りたいと思います。
 
上の画像を見た時僕は怒りが収まりませんでした、母親を描いた作品はたっくさんあるけれど人間的なものの根源に訴える作品は少ない。この考えこそが寄生獣を駄作たらしめた最大の根源なのだと強く怒りを覚えます。こいつは原作をただの自己を主張する踏み台、パレットにしか思ってないというのが強くわかりますよ。
オリジナルで勝負してみろよ貴ィ!!、間違いなく売れねぇから、俺がそれを全て見たうえでまたぶった切ってやるよォ!!!
 
まず母子家庭にしないと母親を強調できないというのも意味が分かりません
僕は逆に父親が気づかないところを母親に気づかせ、父下げ母上げといった表現ができるとおもいますが?現に原作はそういう描写がいくつかありましたよ。
個人的に「新一、お前ひょっとして鉄で出来てるんじゃないのか」というシーンは新一が人外たらしめる決定的なシーンだったのに、チチコロしてしまったゆえにそのシーンもなくなってしまった。親に存在を疑われるという決定的なシーンは「母親」を描く今回のパターンでは父親にしかできない役割だったのに。
 
そして更に解せないのが、母親を強調するために父親を殺すようなアスペも真っ青なこだわりを見せた映画で、なぜ、田宮涼子の家に両親が来たのかということです。
解説しますと、見作ではパラサイト田宮良子の家に田宮涼子の母親が来るんですよ。そして会話をするうちに見破られてしまう「あんた誰なの?」という風に、そしてパラサイト田宮良子は驚きます「完全に化けていたのになぜだ。母親とは一体・・・?」というシーンがあるんですよ
しかし、映画でパラサイト田宮良子の家に来たのは母親、に加えて父親も来るんですね。はっきりってまるで意味がわからない。
バレても両親が来たからとスーパーパワーが分散されてしまう。
「母親」をそんなに強調したいのならこここそ母親だけに来させるべきだろと。
なぜ主人公側は母親を強調するためにチチコロするほどなのに、田宮涼子の母親は父まで付き添ってきたのか本当に意味がわからない。言ってることとやってることが違いすぎる、そこまで原作を遵守するのがそんなにイヤか?山崎貴
 
寄生獣原作のテーマである「母親」が新一の母親だけに適応されるものと錯覚していたのであればホンマモンのアホでっせ、こいつこそ寄生獣そのものですよ。
 
 …………この前人間のまねをして…………
2chのスレで大声で叩いてみた……
………………なかなか気分がよかったぞ……
 山崎貴へ 田宮良子
 
 

┃パラサイト山崎貴監督へ

最後に、オリジナルで勝負してみませんか?
あなたは名作請負人として高い評価を得ているようですが、僕は一切を認めない。
あなたのオリジナル映画待ってますよ、ぜひとも完全に中立の立場で評価させていただきたい。
名作を踏み台に人形劇をしているうちは、名声や富が得られるでしょうが、正直あなたは一過性のクリエイターにすぎないんですよ。寄生獣のように数十年も読まれ続けるロングセラーにはならない。それはなぜか、明快、名作に頼ってでしか自分の存在を誇示できないからですよ
多くの初見に受ける駄作づくり、これからも頑張って下さい。それに付随する原作厨のヘイトは必ずついて回りますが、正面から受けるとさすがにまずいので、底辺の嫉妬として斜めの角度で弾いていただきたいと思います
 
企業1種の繁栄よりも原作厨を含めた観客全体を考える!!
そうしてこそ名作の請負人だ!!
原作のためとほざく製作陣(きさまら)!!
これ以上の改悪がどこにあるか!!
作品に寄生し関係者を叩きまくりバランスを保つ役割を担う我々から比べれば
製作陣どもこそ地球を蝕む寄生虫!!
いや……寄生獣か!
山崎貴へ 市長より

 

というわけで終わりにしたいと思います

トゥデイズギ~クポイント!!

今回の、この寄生獣の点数は・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原作、100点です!!!!!!!!

(パチパチSE)

 

寄生獣(1)

寄生獣(1)

 

 

 

P.S.

時間返せボケ