はなくそモグモグ

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いかなる場合でもテロは許されないのか?

覚えてきた道徳の教科書を暗証して、はなまるを貰おうとするように

「いかなる場合であってもテロは許されない」

と言う人間は多い

では例えば現在、ロシア国民の誰かが奮起してプーチンを暗殺し、それによってウクライナ戦争を集結させ、世界全体のエネルギー問題を一旦は解決したとする。

この場合においても「いかなる場合であってもテロは許されない」と怒る人間はいるだろうか?

一部はいるだろうが、多くの人間はそうならない。

身勝手な理由で他国を攻撃したのだから自業自得だ。暗殺した自国民は良い仕事をした。

となるだろう

 

ここに「いかなる場合であっても」という言葉にまず欺瞞がある。

 

また、テロルはどうだろうか?

何を持ってテロとするのか?

 

日本の法律では、「公安調査庁設置法」「組織犯罪処罰法」「テロ等準備罪の処罰に関する法律」「航空法」でテロについて言及しているが、最初から3つは組織的犯罪に言及し、「航空法」は911の文脈でハイジャックに繋がりかねない行為を禁止している。

つまりテロの定義は、その目的や実行方法によって異なるが、一般的には無差別な暴力や破壊を用いて恐怖を広め、政治的・社会的・宗教的な目的を達成しようとする行為のことを指す。

 

これはテロリズムの成り立ちを考えれば理解できる。

そもそも元々世界は政治的・社会的・宗教的な目的を達成するために要人を暗殺していた。

しかし、アメリカを始めとして多くの国の要人警護のレベルが上がり、特定の組織が要人だけをピンポイントで狙うということができなくなったために、

地下鉄サリン事件やアメリカ同時多発テロ事件のように「無差別に国民やインフラを攻撃すること」によって、「それがまたどこかで起こるかもしれない」という恐怖を広めることで政治的・社会的・宗教的主張を政府に要求する行為が00年代以降行われるようになった。

これの無差別性によって──物理的に警戒するということが不可能であることで──テロリズムは効果を持つ。

 

つまり何が言いたいのかというと、今ネットで騒がれているような、安倍晋三殺害、宮台真司殺人未遂、岸田文雄殺人未遂はテロではないと言うことだ。

それぞれの犯人は「その役割が持つ機能」に対して対象を決めているので、無差別ではない。強いて言うなら条件付き無差別といったところだろう。

そして彼らが殺されるということが「無差別に国民が狙われる」という恐怖を与える目的になく、またその機能も果たしていない。

また、その機能を果たすためには「犯人が生きて逃走する」かあるいは「組織犯罪として集団としてのメッセージが発信されている」事が必要だが、その2つも満たさない。

いずれも1人で犯行を行い、できるだけ不特定多数の国民に危害が及ばない手段を用いて、犯人は生きて逃亡することを目的としていない。また、その犯行声明もない。

 

これはテロではなく、テロ時代に突入する前の要人暗殺の時代に回帰しているだけだ

そしてそれを許してしまうほど、日本の要人警護のレベルが低いという話である。

これは「SPが無能」のような言説としてネット上では回収されてしまうがそうではない。路上演説や選挙カーなど、銃社会の先進国ではありえない露出の仕方をしている文化レベルの問題である。

 

まあその話は置いておいて、なぜこのように定義や歴史を調べれば簡単にわかる言葉の意味や機能が乱用され、空虚な議論となってしまうのか。

それは日本が《理念なき社会》先進国で言葉の意味が空洞化しているからである。

だから「テロはいかなる場合でも許されない」とは言葉通りの意味を持たない。

つまり「西洋的価値観への毀損」こそがテロであり、それはインフラが破壊されようが無差別的な国民だろうが要人が1人殺されようがテロなのである。

 

アルカイダなどの中東のテロ組織が「西洋的価値観への攻撃」を目指していたのに、「西洋的価値観への攻撃」だけがテロであるという振る舞いが彼らを刺激するように

この「テロはいかなる場合でも許されない」という思考停止の議論こそが、テロを助長していると言わざるをえない。

 

 

江戸時代では、仇討ち法として自力救済が制度化されており

家族が殺されたり、財産を奪われたとき、刀を持って犯人をしばきに行くことが許されていた。

つまるところ、自分がある相手によって何らかの損害を与えられたとき、その損失の補填や被害者感情の回復を自分で行っても良いという価値観だ。

面白いのが「誰々に敵討ちしにいく」と役所に届け出が必要であったこと。

 

それは置いておいて

これは国家の成熟度合いに依存する。

国家の監視の目や武力の行使が広く行き届かないレベルの機能しか持たないとき、被害者は自力救済をするしかない。

つまり「財産を奪われたなら自分で取り返しに行くしかない」ような成熟度の国家は、それ相応の価値観が根付く。

実際江戸時代には「武士たるもの、敵を討たねばならない」という義務感で仇討ちに行くものもいた。

 

この自力救済は、明治維新後の近代化によって1871年には徳川幕府の制度であった仇討ちを禁止する「仇討禁止令」が出され、さらに1876年には「廃刀令」が発令され、武士が刀を身につけることも禁止された。
これらの改革により、自力救済が次第に法的根拠を失い、日本の法制度から排除されていく。

しかし自力救済の禁止とは、適切な法治とトレードオフなのである。

 

だれかが財産を奪われたとき「暴力を使って財産を取り返すのは良くないよ」と道徳を説くのは容易い。

だが、それを言うためには「なぜなら、警察や司法に訴えればしっかりあなたの財産を取り返してくれるのだから」と言えるだけの統治や暴力システム(警察や軍隊)が国民の財産を守るはたらきをしていることが前提である。

逆に、北斗の拳的な世紀末のような統治システムが機能していない社会において「暴力を使って財産を取り返すのは良くないよ」というのは、犯罪の肯定に他ならない。

それは被害者に泣き寝入りしろと言っているのと同義であるからだ。

 

日本の襲撃事件を語る上で、この議論を無視していれば何の価値もない。

党派性とは名ばかりのレスバトル帰属性アイデンティティによる癇癪の発露にしかならないからだ。

 

それを考える上で、安倍晋三殺害事件を参照したい。

山上徹也は家庭の財産を統一教会に奪われ、また家族も何人か自死に至る。

この国の司法がまともに機能していれば、彼のいくばくかの被害者感情や損害は回復できただろう。

しかし本件において、司法も行政(警察)も立法もマスコミも世論も選挙も、まるで機能していない。

この事件の本質はそこにある。

つまり、山上徹也の自力救済を否定できるほど暴力の代行者たる統治システムが果たして機能していたのか?という問題だ。

 

立花孝志のように、やり方は賛否あるがお金を集めたり人を集める能力があれば、比較的合法的なやり方で物事を進めることができるが、その彼ですら過去に2chでこういった書き込みをしている。

このように、人望やお金が無くなった結果が山上徹也だ。

 

もちろん、これは襲撃事件を肯定するものではない。(テロは許されることではないが構文)

そもそも僕自身は日本において暴力の代行者たる統治システムがまともに機能していないことが安倍晋三1人の責任だとは全く思わないからだ。

少なくとも彼が死んだことによって多少「捕まらないような奴が逮捕されるようになった」という面では統治システムの正常化に寄与しただろうが、それは本質ではないし、山上徹也本人もそれを認めている。

苦々しくは思っていましたが、安倍は本来の敵ではないのです。
あくまでも現実世界で最も影響力のある統一教会シンパの一人に過ぎません
(中略)
安倍の死がもたらす政治的意味、結果、 最早もはや それを考える余裕は私にはありません

(山上徹也の犯行前の手紙)

 

つまり何が言いたいかというと、自力救済としての襲撃事件を善悪で語ることに何の意味もないということだ。

これは集団社会心理的な現象として、カイジの沼で押し込まれた玉が穴に入る必然として起こりうる。

この国では統治システムがまともに機能していないが故の歪によって、その被害に泣き寝入りする人はいくらでもいる。

ジャニーズ問題も赤木俊夫が自殺した森友学園問題も東京電力福島原子力発電所事故も他は思いつかないけど、こういった統治システムが被害者の損失回復に努めない事件はいくらでもあり、その中の誰かが「自力救済」に走ってもおかしくない。

 

人間が多種多様な考えを持つ以上、追い詰められれば牙をむく人間は必ずいてそれはガチャのようなものである。

たとえその確率が0.01%だったとしても、統治システムの不作為によって泣き寝入りを強いられる被害者を次から次へと出して行けばいずれ当たる

道徳を説いてその確率を→0.005%にしたって同じことだ。

それは確率論的必然として必ず起こる。

だからこそ、誰が引き金を引いたのか?について考えても意味がない、「なぜ火薬が詰められていたのか?」を考えることが重要なのである。

 

これは我々国民の責任とも言える。

我々国民がこのような法治システムの不作為によって泣き寝入りした被害者をなかったことにしていた。

「暴力を使って財産を取り返すのは良くないよ」とは達者に言うが、では誰が変わりに財産を取り返してくれるのか?

その議論がないと「運が悪かったと取られた財産は諦めろ」と言っているに過ぎない。

実際そう思っている国民も多いだろう。

その議論を進めないまま同じことを壊れたラジオのように繰り返し、何もしない国民があふれているからこそ、このような襲撃事件が起きる。

 

このような愚昧は、日本という国がどういう国であるかを理解していない事による認識の誤謬によって発生する。

少なくともこと統一教会問題においては、山上徹也の被害を救済する統治システムが存在していなかった。つまり彼の代わりに財産を取り返してくれる国のシステムがあっただろうか?という問題だ。

しかし、多くの国民は「それがあったはずだ」と思っている。

だからこそ、「暴力を使って財産を取り返すのは良くないよ」としたり顔で平気に言えてしまう。

それは暴力の代行者たる統治システムが機能していない条件下においては「泣き寝入りしてタヒね」と同義であることに、おそらく自覚がない。

つまり、「なぜあなたの財産は国家にコールすれば取り返してくれるのに、わざわざ暴力で取り返しに行こうとするの?」という認識で生きているのだ。

 

ある社会において、そこから排除されたものは2択を迫られる。

自分が包摂される共同体を探すか、その社会を変えるかである。

後者において、それが合法的な手段で達成することが望み薄だとわかると、過激な方法で社会を攻撃するしかない。

これは善悪ではなく、必然的にそうなるということだ。

その結果がナチスドイツであり、それをモチーフに進撃の巨人が描いてきたものだ。

つまり排除された属性は究極的には2択なのだ

 

①泣き寝入りしてタヒぬ

②排除する社会そのものを破壊する。

 

エレンは①を選ぶ生き方を軽蔑し、激しく怒る。そして世界を攻撃する。

二次大戦以降そうならないために、欧米はマイノリティを包摂する社会を目指す。

その結果ジョックヤングが指摘したような過剰包摂社会といった問題が生じたりするが、いかにして迷える子羊を見つけて手当することができるのか?というのが現代社会のメインのテーマの一つである。

しかし日本人は《理念なき社会》先進国であるため、その第一症状として公共心がない。

つまりマイノリティに生まれてきたのが悪い、自己責任だ。として排除を肯定する。

 

そのようにしてこの国では「排除されるのが当然」とされる属性はいくらでもある。

このような統治システムを肯定しながら「いかなる場合もテロは許されない」とすることは、そういう人たちが言うテロが蔓延する社会土壌を肯定するに他ならない。

 

「いかなる場合もテロは許されない」と高らかに言えるだけの、公平公正な暴力の代行者がこの国には存在しているのだろうか?

ということをもう一度考えるべきではないだろうか?

 

P.S.

正直、この社会がおかしな方向に行っている感覚は全く無い。

現に犯罪件数は過去最低を更新し続けているし、無敵の人の矛先が無差別な国民に向くよりは政治家に向かうほうがマシだと思っているからだ。

これは餌を与えられなかった動物園のライオンが来客に襲いかかれば悲劇だが、動物園の職員に向かえばそれは管理を怠った職業責任とも言えるのと同じである。

 

こういう事を言うと僕の倫理感が疑われそうだが

弱者男性がこういう事件を起こせば非難轟々だが、女性が貧困などを理由に育児放棄したり出生児を遺棄すれば同情の声が集まるという非対称性を持っているあなた達のほうが僕より非論理的だと思う。

せめて、両方叩くか両方社会のせいにするか主張に一貫性を持って欲しい。