僕は中学のとき、右翼と左翼の意味が理解できなかった。
お互いがレッテルを貼るときに掲げる陣営としての機能しかもたず、僕にはどちらも同じに見えたからだ。
保守思想を貫徹するならば海外由来の新興宗教を許容することなどありえないし、革新思想を貫徹するならば自分と異なる文化を持つ相手を弾圧したり規制しようとはしないだろう。
お互いがお互いの陣営を"論破"することで自分のアイデンティティを確立しているだけにすぎない
彼らは思想めいたものの看板を掲げているが実態は何もない
ただその看板が攻撃されることによって自分のアイデンティティを脅かされることを恐れていて、それに対する防衛反応を示しているにすぎない。
「左翼」と「右翼」
僕は当時このワードをいにしえの2chでのレスバトルで頻繁に耳にしていたが、意味がわからなかった。
理由は上の通りだが、その本質は「右翼」「左翼」という分類の空虚さだ。
まぁこの分類自体が、フランス革命時代の議会の席の位置に由来するだけの話なので、民主主義という伝統のモチーフとして用いられているにすぎない。
例えばアメリカなら、何に対する右翼(保守)なのか、何に対する左翼(革新)なのかはアジェンダベースで理解できる。
アメリカにおける保守すべき理念は、建国の父達の思想を参照すれば良い。
銃規制の議論ならば、アメリカはイギリスの支配から独立して「自由の国」を掲げたように、専制化する権力に対して政権を武力で取り返す革命権を全ての市民に広く認めるというニュアンスで市民が武装することの重要性を説いていた(奴隷にはその権利が認められなかったが)
この建国の父たちの思想を参照すれば、保守すべき伝統とは何か?がわかる。
だからこそ、彼らは銃を手放せば安全な暮らしが手に入るが、アメリカ人としてのアイデンティティを失う。
つまり、ポリコレの先にあるのは男も女もアメリカ人も日本人も障がい者もゲイもレズも同じことしか言わない社会に俺たちはアメリカ人であることの意味があるのか?という議論である。
対し、日本人における日本のアイデンティティとは何だろうか?
日本会議や統一教会的なものが壊れたラジオのように繰り返している保守すべき伝統、具体的には夫婦別姓や同性婚の禁止などが挙げられるが
これらは全て明治時代以降の近代化要するに西洋の価値観を取り入れる過程で発生したものにすぎない。
つまり、外国からパクってきたものを大事そうに抱えて守っているだけに過ぎない。
「日本らしさとは何か?」これを定義するための参照点が、建国の父やキリスト教原理主義的な価値観を参照すれば良いアメリカと違って曖昧でブレているのである。
これを掘り下げると長くなるので詳しくはやらないが、このようにどの思想を参照すれば「日本のアイデンティティ」となるのかが曖昧なために、結局、自分が生まれ育ってきたやり方を維持する。というだけの脊髄反射にしかならない。
この地に足がつかないフワフワした議論が、右翼、左翼という対立に空虚さを僕に感じさせていたが、彼らが同じに見えてしまう理由の本質は以下ににある。
社会を語る上で根本的に思想を分けるならば
それは
「衆治」か「法治」か
だと思うからだ。
「人治」「法治」で分けたかったが、既に社会学ではその語が「法の支配」「人の支配」と並んで使われているため、造語を使うしかなかった。
ここで使う「法治」は元々の意味とほぼ同じである。
対し、「衆治」は法の縛りがなくとも自発的に「僕たちはこうあるべきだ」という理念によって集団が護ろうとする規範を指す。
わかりやすく言うならば、
例えば、競合他社よりも安く買えるチョコレートがあったとする。
しかしそのチョコが他よりも安いのは、それを生産する労働者を不当に安く買い叩き人権侵害レベルでこき使ってたからだ。
つまり生産者の労働力を搾取することによって、他よりも安くなっていたと。
これを知った国民の世論として
「法治」ならば、
一定の基準を設けて、XX時間以上は働かせない。働いた単位時間あたりXXだけの給与は出さなければならない。
といった法整備をすることでそのような企業を淘汰する方向に持っていく。
「衆治」ならば、
国民同士が呼びかけ合ってその商品を不買したり、それに同調した店も卸さないことでそのような商品を市場から排除することで、そのような企業を淘汰する方向に持っていく。
と言った風に、何を論拠に社会悪を制限するのか?
の答えに「法治」は悪を排除する"法"を示し、「衆知」は悪を淘汰する"情"を示した。
《理念なき社会》においては、まず「この商品の安さは、生産者の労働力を搾取することで成り立っていないか?」というピティエ ━━顔も知らない誰かを自分のことのように想う、憐憫。ルソーはこれが民主主義社会に不可欠だと説いた━━ 自体が働かないという問題もあるが、今回は言及しない。
という軸で見てみると日本だけでなく世の中の「右翼」「左翼」はどちらも「法治」に偏っていることがわかる。
右翼は元々このような「法治」を是とする振る舞いにレッテルを張られることが多いので感覚的におわかりだと想うが、フェミニズムやポリコレ等を掲げて現状の社会通念を破壊しようとする左翼も、結局は「お前はこのような考えを持っているから追放する」という法で人を縛ろうとする点では変わらない。
その法が権限を持った人間の思想だったり、キャンセル運動の団結も属人的な側面があることは「衆治」の要素を含むように見えるかもしれない
しかし、結局アメリカも日本も現行法が厳格に理性的な運用をされているかと言われればそこに属人性を認められる通り、それはプラットフォームの上に立つ人間達の知性の劣化によるものとも言える。
この「衆知」と「法治」は、究極的には人の理性を信じるかどうかである。
人の理性の可能性を信じているから、法がなくとも社会はあるべき姿に向かっていける。と思える「衆治」
人の理性には限界があるから、法である程度制限しないと社会はあるべき姿に向かっていけないとする「法治」
現代社会では「民主主義がまともに機能しない、だって皆馬鹿だから」と誰しもが薄っすらと思っているから右翼も左翼も「法治」に傾く。
僕は冷笑系のモンスターだと読者には思われているかもしれないが、僕は人間の可能性を信じているので「衆治」を支持している。
ではこの世界が論理破綻したメチャクチャな言説に溢れかえっていることをどう説明するんだよ?法がなかったらもっとカオスになるだろ?
と思われるかもしれないが、僕はある程度因果は逆だと思っている。
法があるからこそ、感情や理念が劣化するという理解だ。
そもそも我々人間はなぜルールを守るのか?
それは自分の美学に順ずるからだ。
逆に言えば、自分の美学に反するからそのルールには従わない。
このような規範を間接的に漫画や音楽などのカルチャーは描いてきたが、法に美学が没落するとやがてこのように考えるようになる。
「決まりは決まりだから、そのルールには従いなさい」
これこそが思考停止を招き、人々から理念や感情を奪い、言葉はもはや意味を持たない空虚な社会を作る。
ルールがあるから人は数学を勉強するのではなく、数学の点数を取るための勉強をする。
そうして数学をツールとして使えるやつは誰一人いなくなり、空虚な社会へと没落する。
だから僕は「法治」を否定し、新自由主義者となった。
大きな政府、自転車にヘルメット着用義務化、大麻違法化、不同意性交罪、AV新法、ギャンブル依存症対策基本法案等これらを僕は心の底から軽蔑している。
人々はなぜ社会のあるべき姿を規程できないのか?
それは教育のレベルが低いからだ。
理念や感情を育むことを重視していれば、大人になって破産しないように依存症対策の法律をあーだこーだ考えることもない。
要するに法がなければ理性をコントロールできない人間が増えて社会問題になるのは教育の責任に他ならない
結局、国が弱者を救う制度を作らなくても、人々に理念があれば助け合うことができる。
それをしない企業や資本家が現れれば、国民が団結して市場から淘汰すれば良いだけのこと。
ただ、それだと「誰も助けたがらないような嫌われ者」は福祉にリーチしない。
だからそういう嫌われ者を包摂するために「法治」はある。
しかし、そのようにして個人の自己決定権や裁量を法が規定してしまうとどうなるか?
つまり、例えば自転車やバイクに乗るのにヘルメットをつけるかどうかなど、個人が決めれば良い。
風を感じたければ外しても良い。ただしそのリスクは自己責任である。
逆に安全に運転したければ、つけるのも個人の意思だ。
こんなことは自由(愚行権)を考える上で当然の論理だが、「法治」の社会では「事故が起きたときの死傷率が高いから、国民の安全に寄与するため」という理由でそれが正当化されてしまう。
「労働力を失いたくないから」という国家の都合によって個人のヘルメットを付けないという自己決定権を侵害されている。
これ自体は「衆治」か「法治」かの違いでしかない。
問題は国民が「そりゃヘルメットをつけてる方が安全だから、その法整備は妥当だ。つけないやつは馬鹿」という理解をすることにある。
これが法に没落するということだ。
民主主義社会というのは個々人に美学があり、その美学に引っ張られることによって法を導いていく。
だからこそイギリスを始めとした英米法体系には慣習法と成文法があり、コモン・ローとエクイティがあるのである。
しかし、法治社会では個々人が美学を持たなくても社会をある程度運用できてしまう。
集合知の側面を持つ「法」が"てこ"のような役割を果たすため、力を入れなくても作用してしまうのだ。
そこに「法治」の寿命が存在する。
法に没落すると「これはルールなのだから、ルールに従わなければならない」と言い始める。
これが《理念なき社会》の始まりであり、人々の理念と感情の劣化をもたらす。
しかし、「法治」とはそれを導く美学や理念が国民に備わっているからこそあるべき形へメンテナンス出来るのであり、《理念なき社会》に突入すると次々とでたらめな法律が制定されることになる。
そして新しい法律はきわめておごそかに発布すべきです。また法律が神聖で尊敬すべきものとなるのは、なによりもその古さによるところが大きいのですから、もしも法律が日々変更されるのに慣れてしまうと、人民は法律を軽蔑するようになるでしょう。
そして法律を改善するという名目のもとで、古い慣習を無視するようになったり、ごく小さな欠陥を改善するために、きわめて大きな悪をもたらすようになったりするものです。
ですから人民は統治体制が揺らぐ前から、[その法律が要であることを]確信できるような時間的な余裕をもてることが望ましいのです。
人間不平等起源論 / ジャン=ジャック・ルソー
やがて人は法というものを「守る価値のないもの」とみなし、極端な犯罪が起きる。
僕は今までこのように考え、知的営為の劣化は「法治」によるものだと考えてきた。
しかし最近では、結局「法治」だろうと「衆治」だろうと、民衆のリテラシーがないとあるべき形を維持できないと悟ってしまった。
これが僕の大いなる絶望である。
法治であれば、法律の運用や立法に対して適切に監視する国民のリテラシーがないと気づかぬうちにどんどんと改悪されてしまう。
衆治であってもそれは同じで、国民のリテラシーがないと団結するための理念や美学を掲げることができない。
例えば、投資とは投票なのである。
どの企業や団体の活動を「社会に残したいか」を問う営為だが、そこに理念がないと他人が買い募る銘柄に群がり、自分は先に売り抜ける。
こういった「出し抜く」ことが自分は優れた人間だと再確認することに消費され、社会に害をもたらす企業を残していまう。
これは普段の購買行動でも同じである。
ある飲食店が「とても安い」とする。
しかし、その安さは店員のワンオペや低賃金の過剰労働による-労働者の搾取-によって成り立っている。
現代社会ではこういう店を利用することが「コスパ」とライフハックとして消費される(コスパって乱用されすぎてて単なる安いだけのものにも使われるようになってるよね)
ランニングコストは安く買い叩くことが「賢い生き方」とされる。
しかし、このような労働者の搾取によって成り立っている企業は競争にとても強く、理念やコンプライアンスを守っている競合を駆逐する。
そして「賢い生き方」をしていたはずの誰かが就職するときには、まともな労働環境の企業はもはや残っていない。といったことが起きる。
このように「衆治」で運用するにもリテラシーが必要なのだ。
理念や情動を育む営みを全く重視していない日本の教育とメディアには僕は心の底から軽蔑している。
そしてそのリテラシーは「法治」においても不可欠なのだが、法治がそのリテラシーを腐らせるのではなく、リテラシーが腐っていても「法治」ではある程度機能してしまうというのが最近気づいた僕の答えだ。
「衆治」では集団の理念や情緒が劣化した瞬間すぐに社会はガタガタになるので、その劣化を可視化しやすい。
しかし「法治」では問題が可視化されようと社会は回っていく、そして緩やかに確実に蝕む。
どうせあるアジェンダが致命的に社会をズタズタにするのなら、早い方がいい。
なぜなら人生は短いからだ。
僕は不思議でしょうがない、人間が元気でいられる時間などたかだか数十年しかないのになぜ社会の諸問題に対してダラダラ取り組んでいて、それを許容できるのか。
政治の不作為によってダラダラ先延ばしにした結果、ロスジェネのような人生ごと持って行かれる世代もいる。
だったら早めに社会は壊した方がいい。
じゃないと誰も社会をあるべき姿に持っていくことができない。
また結局「衆治」だろうと「法治」だろうと国民のリテラシーがなければあるべき形に規定出来ないのであれば、「衆知」のほうが誰かの自由を侵害しないぶんマシである。
しかし、日本では現状存在する全ての公党は「法治」に傾いていて「衆治」の概念がない。
それこそが僕の大いなる絶望なのである。