はなくそモグモグ

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映画『ジョーカー』は監督がジョーカーという仮面を被って作った社会派作品

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一応ネタバレ注意です。

見に行こうと思っている人は見てから読んだほうがいいです、多分見た頃にはこの記事の存在を忘れてるだろうけど。笑

あと、できるだけ一人で見に行ったほうがいいです。

カップルとか連れと見に行くと上映後ヒエヒエになって、この後飯行く?みたいな気分にならないからです。

 

予告を見た第一印象は

社会からは認められないけど自分を理解してくれる母や恋人がいて、なんだかんだそれを失った失意で社会に復讐し始める。みたいなありがちなオリジンストーリーで、ダークナイトみたいなキレキレの知能犯が人々を扇動しながら社会を翻弄していくアクションありの殺人爆発クライム映画になるんだろうなぁ

と思っていたら中身は全然違っていました

方向性としては「タクシードライバー」とか「キングオブコメディ」的な

 

「面白い」というのはまたなんか違うなぁ、と。

登場人物も基本的にホアキン・フェニックス演じるアーサー(ジョーカー)が中心で、それ以外はすべて脇役と言っても良いような、シナリオと言えるほどの論理構造はなく、言ってしまえば雰囲気映画の極地のような感じなのですが

その雰囲気の ” 圧 ” がすごい。

 

ロサンゼルス市警が陸軍とともに映画館の周りに警戒体制を敷いていたり映画館が子供に見せないようにと警告声明を出していたり、「仰々しすぎるだろ」と思っていたのですが、見ればなるほど納得

確かにこれは、学校いってきやーすと家を出たのはいいものの、何か今日だるいなーと降りるべき駅を通り過ぎて学校サボって大型デパートをブラブラしながら映画館に入った中学生とか高校生が、帰りになんか犯罪をやらかしかねないくらいの、何かそういう”圧”というか迫るものがある。

映画自体がそういう悪のカリスマ的な魅力がある。という非常に言語化しにくいものが心に深い陰りを落としてくる映画です。

 

 

本編見た感想なんですけど、これ、バットマンシリーズじゃなくても、ジョーカーじゃなくてもいい作品だと思いましたね。

本当かどうかわからないですけど「普通の社会派映画だと予算が取れないからアメコミという体で作った」と監督が言っていたとか(ソース募集)

それを聞いて納得したんですけど。

監督が続編の予定はないと言っていたことからも、今作がシリーズとしてかなり独自性の高いものであることを示しているのではないでしょうか。

だからジャック・ニコルソンだとかヒース・レジャーだとかどいつのジョーカーが一番か?みたいな論争に意味はないと思うんですよ。

ジョーカーという体だけどジョーカーじゃないみたいな。

アメコミのヴィラン(悪役)は普通超能力を持ってるんですよ、電気まとってるとか火を吹くみたいな。でもバットマンに出てくるジョーカーはそういった超能力を一切持ってなくて、その並外れた知能で力を持たないのにバットマンを追い詰めてくる。という構図が僕的には好きなのでそういうジョーカーを期待してたんですが、今作ではすべてのスケールが等身大。悪く言えばスケールが小さい。

予告では悪のカリスマみたいに言われてるけどただの自分の手に収まるレベルの殺人事件を犯してるだけの精神異常者だし、舞台となるゴッサム・シティはとんでもない治安の悪い街として常にマフィアの小競り合いや犯罪が横行しているのだが、この映画ではちょっと悪い部分を映したアメリカというスケールに収まっている。

ので、ジョーカーなら社会を巻き込んだすごい犯罪を犯すはずだ。ゴッサム・シティもとんでもない悪党が跋扈しているはずだ。というスケールを期待していた人にとっては期待はずれだったのではないでしょうか?

というのも先述した通り、この映画はジョーカーという仮面を被ったバットマンとはまた別の社会風刺作品なので、観客の社会の実像をそのまま描く必要があったんですね。

ジョーカーが並外れた知能犯でないただの無敵の人なのも「誰もがジョーカーになりうる」というテーマを描きたかったからでしょう。

故に僕は、これをバットマンシリーズとしてではなく、一つの社会風刺作品として見ています。

 

 

┃ジョーカー像

まぁアメコミ自体が原作者がコロコロ変わる上に、それぞれの設定に整合性がないという極めて曖昧なものですから。「これがジョーカーだ」というものを定義するのは難しいのですが

ダークナイトが好きな人は「ジョーカーに過去なんかいらない」と、それっぽい自分語りをするけど全部デタラメという、得体のしれないカリスマであってくれ!と思うでしょうが

原作でジョーカーの過去を描いた「キリングジョーク」では全くそんなことはなく

コメディアンとして妻子を養うために生計を立てようとした男が、全く売れないまま貧しい生活が続く、そのうち日銭を稼ぐために犯罪計画を立てるが交通事故で妻を亡くす。やけくそで計画を実行するがバットマンに阻止され、逃げてるうちに薬品の入ったタンクにドボンと溺れたために髪が緑色に変色し、自分の人生に絶望した先に「俺の人生はジョークだ」と笑い狂う。

という過去があったりするので、むしろ今作のほうがダークナイトよりも実際のジョーカーに近かったりする。

派生作品を通してジョーカーの一貫した主張は「俺の存在、人生はジョークだ」ということと「この社会のほうが、俺なんかよりよっぽど狂ってる」ということ

ダークナイトではこれが転じて「皆猫かぶってるけど、本質は狂ってるってことを証明してやるよ」がテーマになっていて。

今作では「弱者への思いやりがないと狂うぞ」というテーマになっていると

ジョーカーが持つ主張自体は今作と原作シリーズと比べてあまり違いがないというか、延長線上にあるように見えますが、僕が今作を別作品だと言うのはその描き方なんですよね。

派生作品を含めた数々のシリーズのジョーカーはシンボルとして描かれているのに対して、今作のジョーカーは比喩(メタファー)になっているということです。

 

┃仮面を被ってるだけ

「皆が存在に気づき始めた」というシーン

これは社会が俺に気がついた、社会に爪痕を残してやったんだ。とアーサーフレックは言ってるでしょうが、作品がもつ意味は違っていて

金持ちやメディアが存在しないものとして扱ってきた、明確に迫害されているわけじゃないけど生きづらさを感じている人間が暴力などの事件によって顕在化してきた。と

例えばフランスでイスラム国を名乗って銃撃テロを起こしてた青年も、政治的あるいは宗教的な思想犯罪に見せかけて正体はフランスに住む普通の白人で、ただ生きづらさを感じた先の犯罪でしかない

こういう特定の立場を代表するかのように事件を起こすけど、その本質は個人的な問題だ。という先進国特有の現代社会の問題を描こうとしてるんだけど、そこに具体的な名前を出すと不謹慎厨が湧いてくるから、その団体を「ジョーカー」という仮面で比喩表現として使ってるわけです。

それはまさにトランプのワイルドカードのように、このジョーカーの仮面はどんな政治思想、宗教思想にも当てはまる。作中のトーマスが立候補した市長選のシーンではトランプ大統領デモのように見えたけど、そういう具体名を出さないための仮面なのだ。

で社会は「◯◯支持者は危険だ」という風潮を作るけど、「〇〇支持者」というのはジョーカーの仮面のようなジョークでしかなくて、彼らは社会に生きづらさを感じているだけのただの人間だっていう本質を見てくれよ。っていうメッセージ性を感じましたね。

終盤で「お前が社会をめちゃくちゃにしたんだ」って警官がアーサーを責めるシーンで逆説的にこのメッセージを浮き彫りにしている。

「いやお前らのようなやつが作った社会が変えたんだぞ」というツッコミを抱いたなら、の映画の伝えたかったことがわかるのではないでしょうか。

そういう意味ではカリスマ的シンボルというジョーカーではなく、ワイルドカードな比喩表現としてジョーカーを使っていたので、ジョーカー目線というよりかは、ジョーカーを崇拝する(ように見えるけど、自分の不満を社会にぶつけたい)貧困層目線の、自分が暴れるのに都合のいいアイドルのような、実像を捉えきれない何かとして描かれていたので、まぁバットマンという作品の枠から外れているのかな、という印象を受けました。

 

 

┃監督が表現したかった「笑い」

多分見ている観客は乾いた笑いしかできないような作品ですが、アーサー・フレックは作中でよく笑います。この笑いがまた「圧」がすごくて、笑っているのにすごく苦しそうな演技で役者の凄みを再認識しました。

作中のアーサーの笑いには三種類の意味が含まれていたと思います。

 

・病気としての発作的な笑い

・周りが笑っているのに合わせる笑い

・周りとはズレた笑いの感性からくる本当の笑い

 

発作的な笑いは、序盤のバスで子供を笑わせていたら親に咎められたシーンが印象的です。結局の所作中では虐待によって脳が萎縮しておかしくなったからなのか、そういう病気なのかというところが非常に曖昧で、他人と不和が生じた時とか緊張した時にとりあえず笑ってしまうのは日本人にありがちだなということで、そういう部分を誇張したのかと思ったのですが、アメリカ人がそういう性質を持ってる「あるある」ではなさそうなので的外れですね。何か意味があるのかと考えて見ましたが特に何も思いつきませんでした。

 

周りが笑っているのに合わせる笑い、これは予告でも使われた小人症の人をネタにして皆が笑っているのを見て自分も笑うんだけど廊下で一人になると途端に真顔になる

こういう周りに合わせて笑うというのはジョーカーだけでなく、弱い立場の人間なら誰しもがやっていることです。

「下ネタや人をバカにするのはウケる」とノートにメモしていたり、本人はそういうものを面白くないと感じているわけですね。

 

周りとはズレた笑いの感性からくる本当の笑い。アーサー・フレックは面白いと思って笑っても、人前では皆に合わせようとして途中でやめてしまいます。

 

この作品の大きなテーマの一つとして「笑いとは何か」というがあると思うのですよ。

というのも監督のトッド・フィリップスは「ハングオーバー」シリーズなど、コメディ作品で有名(ハングオーバー、1は面白いんですけどねぇ・・・)この監督の作品自体かなりの行き過ぎたブラックジョークがあったりして、作品は面白いんですけど、たまにある種笑えないジョークが出てくるという点ではアーサーに、あるいは観客のジョークの反応に対して自分自身を投影している側面もあるのかなと

今作品では小人症の人がチェーンに手が届かなかったり、階段で踊ってたら警察にバレて追いかけられるとか、キング・オブ・コメディの主演だったロバート・デ・ニーロがアーサーに説教するシーンだったり、そういうジョークが散りばめられている。

 

監督が「ウォークカルチャーのせいでコメディが撮れない」と言っていたり、不謹慎な笑いが成立しなくなっている現代社会で「自分の面白いと思ったものを正直に笑えよ」と終盤のコメディ番組での演説では述べている。それはジョーカーという枠を超えて作品そのものが伝えたいメッセージとしてあのメイクに憑依している。

 

トークショーみたいなところで、妻と大学教授と学生というプレイをするみたいな下ネタが披露されるシーンがあるが、おそらくアーサーというキャラクターの経済力では大学に通えていない。だから彼自身の感性とは関係のない部分で彼は「笑いどころ」を理解することができない。

また、アーサーが侵入した議員会館?みたいなところで、金持ちや政治家といったそれなりの社会的地位のある人達がチャップリンの映画『モダン・タイムス』を見て笑っている。モダン・タイムスは権力者や金持ち、社会に振り回された貧乏人があたふたするのをコミカルに描いた作品。客観的に見ると悲劇なんだけど、それがギャグとして成立していてコメディになっている。本作では「それを見て笑う金持ち達」という劇中劇の構図になっている。

このように、ある一定の社会的地位がないと「笑いどころ」すらわからない、社会にはそういう笑いに溢れていて、披露する側は観客がその前提を知っていて当然、これを知らない奴は存在しないだろうと捉えている。そういった面白さを共有できない人間に対して社会は「強調しろ」「普通でいろ」(笑え)とプレッシャーをかける。

 

「笑い」にはある種そういう傲慢さがあるということを、この作品は暴いてく。

 

本来生理現象であり自由であるはずの「笑う」という行為が、こういう場で「笑うな」、こういう場で「笑え」と、いつの間にか社会に感情行動を支配され

それがアーサーの中では重圧になる。

キング・オブ・コメディのオマージュである部屋の中でネタを披露するシーン。それが面白いかどうか、笑えるかどうかは別としてアーサーの中では「ノックノックノック」と ” 間 ” が作られ一人芝居が始まる。そして " オチ " には自分を射殺して自分自身の存在がジョークでしたと「笑いどころ」が生まれる。

しかし、準備をして望んだコメディ番組では「笑いどころ」を作る前にロバート・デ・ニーロに " ツッコミ " を入れられて、無理やり「笑いどころ」を作られてしまう。

これは番組としてこの時間間隔にこれだけの笑いがなくてはいけない。という社会の「笑いの強要」の象徴であり、ピエロの格好をするなであったり、デニーロの説教が始まったりするのが社会の「笑ってはいけないの強要」の象徴なのだ。

「自分らしく笑え」と社会の重圧そのものを射殺したアーサーは、パトカーの中から社会が壊れていくのを見て、やっと自由意志で笑うことができるのである。

 

「今まで自分の人生は悲劇だと思っていたが違った、これは喜劇(コメディ)だ」というセリフ。これはチャップリンの名言である

 

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くで見ると喜劇である

(Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.)

 

(この「近く」「遠く」が原文では「クローズアップ」と「ロングショット」でカメラワークの用語になってるのが脚本家っぽくてすこなんですけどもね)

を意識したセリフだと思うんですけど、これは「自分の人生笑える」という自暴自棄のセリフにも聞こえますが、僕は自分の人生を「遠くで見ることにした」という真面目に生きるのをや~めた!っていう宣言だと思うんですね。

そこからアーサー・フレックという個人の人生ではなく、ジョーカーとしての人生が始まるわけですが、これはそのまんま無敵の人の発想そのものなわけです。いま社会で生きづらさを感じている人は自分の人生を悲劇(近くで)捉えているわけですけど、あるきっかけでそれがプッツンして喜劇(他人事のように)捉えるて生きることをジョークのように考え始める可能性が誰しもにあるんじゃないかという警鐘を鳴らしてると思うんですね。

 

┃ポリコレへのアンチテーゼ

先程、監督が「ウォークカルチャーのせいでコメディが撮れない」と言っていたと述べたとおり「誰かの立場で考えたらそれは不謹慎だよね」というポリコレやリベラリズムの思想が「笑い」や作品を作りづらくなっている現代社会の風潮に中指を突き立てるようなメッセージ性が込められている。

現代社会ではLGBTや障害者のような社会的マイノリティを受け入れろ。という主張がある種の力を持っていて、それが作品そのもののシナリオやキャスティングを変えてしまったりと、監督目線ではそういう生きづらさを感じているのではないでしょうか。

なので監督のトッド・フィリップスは、小人症の人を使ってドアに手が届かないネタをやったり

「アーサーのような人間でも仲間に入れてやれるのか?」とポリコレ支持層に石を投げかけます。

 

アーサー・フレックというキャラクターは終盤の猟奇性を抜きにしても、映画の序盤からすでに「可哀想だとは思うけど、自分が助けるかといえば・・・」という微妙な人感をムンムンに醸し出しています。

クラスにいる障害者が困ってたら助けるけど、ずっと机でブツブツ独り言言ってなんか手遊びしてるみたいな同級生に手を差し伸べるかといえば・・・みたいな。

重度の障害者だったり明確に国や社会の保証が充実した社会に認められた”社会的弱者”ではなく、言い方が悪いですけどギリ健のようなギリギリ社会人やれてる(もしくはやれてない)けど、国や社会が保護するには至らない人たち。

そういう人たちが現実でもテロリズムや事件を起こしたから(日本でも)

「皆も存在に気づき始めた」そういう人。

 

アーサーという人間は、対して会話も成立していない近隣住民のシングルマザーを勝手に脳内で恋人にして、ストーキングして勝手に家に上がってくるヤベーやつです。

ようは社会的弱者で助けを求めているんだけど、一度手を差し伸べてしまえば異常に執着され、助ける側が一生疲弊し続ける。そういう人間として描いている。

そういう意味では自己責任論者の人はこの作品を見て「このジョーカーには感情移入できない、感情的な精神病質者が社会に迷惑かけているだけで胸糞だった」という感想を抱いたのではないでしょうか。僕には「そういう風」に描いている側面もあるように見えました。

ポリコレ層は多様性を受け入れることを訴えていますが、こういう受け入れるだけでもかなり疲弊するアーサーのような多様性を受け入れてみろよ。と挑発します。

作中でも事件が起きているからピエロの格好をするな。であったりとか、メタ視点でいえばアーサーがひたすらずっとタバコを吸っているのも「タバコ吸ってる人を映してはいけない」という表現規制に対してひたすら唾を吐きかけ続けていると。

 

なのでこういうリベラリストやポリコレ支持層はこの映画に対してかなり否定的な評価をかけると思うのですが、それこそが監督の狙いだと思うんですよ。

この映画は、アーサーのような多様性を受け入れてみろよと喧嘩を売ると同時に、アーサーというキャラクターがある側面でポリコレ支持者的に描かれている。

「社会は俺を受け入れろ、認めろ」と銃で人々を弾圧する様は、ポリコレのメタファーとも解釈できるわけです。ペンは銃よりも強しということで、言論(ペン)で自分たちの存在を無理やり受け入れさせてくるポリコレを揶揄するかのように、銃で俺たちの存在を受け入れさせようとするジョーカーと愉快な犯罪者たち。

ポリコレやリベラルがジョーカーを叩くと、それが間接的に自分自身の言動を否定しているという滑稽な構図が浮き上がってくる。そういう「ジョーク」を監督は描きたかったのではないかと思うのは、少し深読みが過ぎるでしょうか。

 

そういう社会の閉塞感をぶち抜けるカタルシスがこの映画にはあるので、見る人によってはどんよりとした陰鬱感、そしてある人にはある種の高揚感というかすっきり感が上映後に残ります。

僕は陰キャなので後者でした。

 

┃"ただそこにいること"が認められない社会

 広告とか感想とか見ていると「社会に追い詰められた~」とか「銃を持つことで~」みたいな表現が多いですが、個人的には彼がジョーカーになった「理由」は少し違います。

 

それを語る上で彼の妄想癖についての話題は避けられません

本作はアーサーの一人称視点の物語なのですが中盤に明らかにあるシーンが妄想だったとわかる描写があり、それ以降作品を構成するシーンすべてが信頼できない語り手として嘘か本当かわからない状態になっています。

唯一、嘘が確定的なのはアーサー自身が「認められる」シーン。

恋人(妄想)が自分の殺人を肯定したり、コメディ番組で観客席にいた自分がスポットライトにあたり母親を介護して暮らしていることを肯定されたり。

周りが自分を認めたり褒めてくれるシーンは基本妄想です。なので最後に暴徒に担ぎ上げられるところも本当か怪しいです。

撃った銃弾が7,8発だったり、ピエロの仮面かもしれないと報道されていたりということから、最初の射殺のシーンすら妄想という説もあります。

 

それはさておき、彼の中には社会に認められたいという承認欲求があります。それと同時に「コメディアンになりたい」というこだわりもある。才能はないけど・・・

父親はトーマス・ウェインなのか?それともただの妄想なのか?という議論があって、作中では精神病質者の妄言に見えますが、「笑顔が素敵だね T・W」と描かれた写真があることで真偽が不明になる。

これについて僕的には虚言だと思っています。

なぜなら、妄想だと明らかなデニーロが司会をやっているコメディ番組の観客席のシーンで、デニーロに呼ばれたアーサーが舞台に立ち「息子のように誇りに思う」みたいな感じのセリフを言われる所から、アーサーは「社会的地位のある父親がいれば、自分は社会に認められる」と考えているからです。

つまりそれなりの立場であれば、彼にとって父親は誰でもいいわけです。

 

アーサーは母親の言う通り「会社員」もギリギリやれる人間だったと思うんですよ。

それでも、いわゆる普通の職につかずに、やりたいことをやって生きている。

そういう自分を認めてもらいたいというのが彼の思想の根底にある。

そして序盤では社会的にはフェアなやり方で(このフェアというのが社会の持つ欺瞞や奢りに溢れているんだけど)自分を社会に認めさせようとしている。具体的には、地道に小児科で営業したり、看板を持って宣伝したり、トークショーに出演したり。

「ただそこにいること」さえ社会が認めていれば、アーサーはどんなにうまくいかなかったとしてもその枠の中で地道に頑張ることを諦めない。そういう人間だったのだけれど、ついに事務所をクビになることで「ただそこにいること」すら否定されてしまった。どれだけ結果が伴わなくても機会さえあれば彼は報われないまでも社会の一員として生きていけた、しかし社会は「社会的にフェアなやり方で地道に頑張ること」さえ許してくれなかった。

それこそが、会社員3人を撃った引き金だと思うんですよ。

 

「社会的にフェアなやり方で地道に頑張ること」を否定されたアーサーは、社会的地位のある人間が父親であることで「ただそこにいること」を認めてほしかった。そこでトーマスと接触するけどうまく行かなった(当然だけど)

そのうち、カウンセリングの施設も政府の予算の都合上打ち切られ、母親も対して自分を愛していなかったことを知り、アーサーは「ただそこにいること」を認めてくれる何かがどんどん失われていく。

そして偶然、デニーロの番組に呼ばれたアーサーは

・ネタを披露して観客を沸かせ、コメディアンとして「社会的にフェアなやり方で」社会的に認められるチャンス

デニーロが息子のように自分のことを認めてくれ「ただそこにいること」が社会的に認められるチャンス

を得たわけです。

ですが、作中の通りそれは成功しなかった。

挙げ句デニーロには「人殺しなんかではなく、社会的にフェアなやり方で地道に頑張れば良かったんですよ」と説教される。そしてジョーカーは「社会的にフェアなやり方で地道に頑張ることを否定したのはお前ら社会だろ」と銃を向ける。

 

この映画のメッセージの本質はそこなんじゃないかと

やりたいことがあるけど、それは経済的に何も産まないし、マネタイズのセンスもない。そんなことをひたすらやっていると「真面目に働け」と社会に参加することを求められる。世の中にはそういう驕りに満ちていて、それが生きづらい人がいる。

そういう人に対して、支援も、手を差し伸べることも、話しかけてあげることも、そういった思いやりもいらないということがメッセージとして込められている。

そんな人間が「ただそこにいること」たったそれだけを認めてくれるだけでいい。

殺されなかった小人症の人や、シングルマザーの人も、特にこれと言ってアーサーに何もしてないんですよ。

シングルマザーの人は勝手に部屋に入ってきたアーサーに対して「部屋間違ってますよ」っていう相手が悪いやつだ、変な奴だっていう決めつけから入っていない普通の人間として接した。小人症の人も銃を持ってたアーサーになにかの間違いだと疑わなかった。

「ただそこにいること」を当たり前のように認めてくれる人をアーサーは殺さなかった。

そういう人が生きててくれないと、自分は社会とまた一歩遠のくと思っているから。「ただそこにいること」を認めてくれる人が一人でも多い社会であってほしいと思ってるからでしょう。

だからこそ社会が壊れていてくれれば、壊れた自分がいてもそこにいることを誰も疑問視しない、そういう居心地の良さを感じて彼は素で静かに笑うわけですね。

 

このようなメッセージ性が潜在的に「社会に何も貢献しないけど何も求めない、そんな僕がただ生きていることを認めてくれないか」と、社会が何かでいることを自分に強要してくることに疲れた人間の心にストンと入ってきて、ラストのアナーキーなシーンである種の爽快感を得るわけです。逆にその社会を作っている側にとってはすごく陰惨なダークな作品に見えると思います。

 

この映画でそういうアナーキズムな思想を植え付けられた人が何かやらかすのかもしれないと警察が警戒していますが、たしかに僕も、映画館を出た瞬間に過激なデモが起きてるようなそんなカオスな帰り道だったらいいなと思ったりしたけど。

 

まとめると、アーサーのようなヤバイやつには何か特別な施しも称賛も肯定なんかいらなくて

「ただそこにいる」それを認めてあげられる思いやりが現代社会にかけてるんじゃないか

というのがテーマだったと感じました。

 

ということで世の中がカオスにならないためにも、まずは僕が働かずに引きこもることを社会は認めてみませんか。

映画『ジョーカー』そんな感じの作品でした。