はなくそモグモグ

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結局二つ予約したけど正直ポケモンやる気でない

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 11日に体験版「JUDGMENT DISC」が配信されて、従来の体験版と比べかなり製品版に踏み込んだボリュームとなっているFF15

当然ながらネタバレ注意(一般的に公開されてる情報や体験版のプレイ情報のみ、解析されたりバグによって得られた非公式な情報は取り扱わない)を明記した上で、感想を述べていこうかと思う。

 

まず、買うに値するかどうか。これは僕個人的には金と時間に余裕があるのであればぜひとも買うべき。

例えばFF13が思ったより面白くなかったのでFF15は様子を見ようと思う人にもおすすめできる、FF13でもそこそも充足している人は確実に今作が上回っていますね(戦闘システムは全く違うのでそこは考慮に入れていない)

 

まずどういうゲームかというのはトレイラーを見ていただければわかると思うんですが

www.youtube.com

2016.9.30(大嘘)

www.youtube.com

戦闘はこんな感じ

 

オープンワールド風のアクションRPG(もはやRPGってなんだよ)として

FF13の汚名を返上するべく、もう一度RPGの最前線に立つためのいわば「基点」とも言うべき本作。

前作FF13のユーザーを置いてけぼりにしたスクエニ成分強めの作風を反省し、今作はユーザーのフィードバックをかなり反映した物となっている、情報を追っていれば分かるんですが今作はかなり「寄せて」きてるんですよね。

「すべては未来の王のために」というキャッチフレーズがもともとは周りの味方による主人公であるノクティス王子への献身的ともいえる行動を意味するが、上記のことから僕的には未来の王(主人公)を操作するのはユーザーなので「すべてはユーザーのために」という意図も伺える。

 

体験版をやって、それを体験版だと加味した上での(伸びしろを考慮しての)総評としては「発展途上」という感じ。

というのも誤解はしないで欲しいんですが、今作の時点で普通に完成度が高い作品にはなっています。ただ、ディレクターが言う「AAAタイトル」「スクエニが再びRPGの最前線立つ」にはまだ及ばないかと、そういう「FF16」に期待できるという意味あいでの「発展途上」です。

そういう意味では未来の王というのはFF16を出して世界の覇権を握ったスクエニなのかもしれない、あらゆる面である種「土台」としての意味合いが強い今作。FFファン(読み方はファイファンファン)であるならば成長を見届ける意味でも購入をおすすめしたい。(この評価も、ユーザーの操り人形になった今作が最高峰になってたまるか、という僕の個人的な希望も混ざっている)

 

・ユーザーの顔色伺いすぎ

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というところで、必然的に避けられない話題となるのが「ゲーム業界はどこまでユーザーの希望を反映するべきなのか」という点。

FF13PS3で一番最初にでたFFということで購入者も多く、日本では一番売れたPS3ソフトになってるのですが。蓋を開けてみれば……不満点はいろいろと調べれば客観的に把握できるかと思います。

僕個人的には最初の固有名詞がいっぱい出てきて置いてけぼりになる感じは全然苦にならなかったんですけど、メニュー画面やロード画面で読める設定資料に目を通さなかったか、それをするレベルにはゲームに魅力がなかったからかもしれませんが。

一本道というのも、FF10は同じ感じでも名作と評される(個人的にも名作だと思う)ので、一本道=クソというわけではないのだが、FF13のシナリオは僕もクソだと思います。どこらへんがクソかというと単純に説明すると「自分の住んでた世界を滅ぼさなければならない呪いをかけられた」「そのために身近な人が犠牲になった」「呪いを解きたい、世界を滅ぼしたくない、身近な人を助けたい」この葛藤を最後まで持っていき、この問題をどう解決するのかとクライマックスのラストで「奇跡を起こして全部解決」という身も蓋もないエンディング(しかもムービーが30分くらいある)

しかしながら「FF13シリーズ」「零式」「FF15」は世界観がそれぞれ違うものの、共通するオリジナル神話があって、これを「ファブラ・ノヴァ・クリスタリス」という。この神話に基づくとFF13の糞ストーリーの真の意図に気づくというギミックがある。が、「奇跡を起こして全部解決」というのが「主人公たちを気に入った女神の助力によって全部解決」という認識に変わるだけなのでやはりウンコはウンコである。

とはいえ、FF13において「なぜ召喚獣が現われるのか」とか、一応説明しておくとルシと召喚獣は実は別の発生源で「ルシの宿命を不憫に思った女神ムインがそのルシを救済するために召喚獣を遣わせる」というもの(そのくせに死の宣告とか使ってきて完全に殺しにきてたよね)とか設定自体はスクエニ成分満載で調理の仕方によっては普通に面白くなるポテンシャルを秘めている。

また「ターン制バトル」と「映像の鮮明化」を天秤にかけたバトルシステム。つまり「リアルな画面で敵も自分も立ち止まってコマンド選択してるとシュールじゃん」というのと「ターン制バトルじゃなかったらFFらしさを損ねる」という一見相反する意見をうまく両立させたバトルシステム(だけ)は秀逸で、FF15のアクションバトルをを現場の兵士に例えるとFF13はそれを指揮する司令官のようなバトルシステム。将棋みたいなバトルが好きな俺にとっては将棋やターン制バトルにないアクティブ感をうまく取り入れつつ、判断力が戦況に左右するボードゲーム感が上手くミックスされた。ターン制バトルシステムの完成形とも言える。ここだけは本当に評価されるべき点だが、うんこの中に真珠が入ってるというか尿路結石みたいな珠玉の瓦礫にあるが如しというところが悲しい。

FF15の話題で記事書いてるのに何でFF13の話題で1000文字も語ってんだ

話題の本筋に戻ると、このFF13はブランドやトレイラーのワクワク感

やばくないか?この名作感、これもう詐欺だろ。

ここから体験版等の情報を一切発信しなかったために期待と作品の落差でFF13は叩かれているわけで、、FF13の売上自体はよかったものの前述した中身の問題で後続の「FF13-2」と「FF13 ライトニングリターンズ」の売上が壊滅的。

※体験版は序盤だけプレイできるものがあったみたいですね。

具体的な数字は

FF13  660万

FF132     310万

FF13LR    96万

(ネット調べなので信憑性に欠けるかも、上2つはWikipedia下はそのへんのサイト)

当時FF13と対になる存在「FFversus13」の情報もあって「FF13」と近い時期にリリースされるかと思われたが、この結果を受けて情報が途絶える。そして2013年に「FFversus13」が「FF15」として正式ナンバリングに追加される。(ちなみに「零式」も元々は「アギトFF13」)

FF13ブランドが崩壊したため災害起きたから年号変えるみたいな感じで現れたFF15、元versus13ともあって13の忌み数を背負いマイナススタートを強いられ今回はユーザーの意見をしっかりフィードバックし「トレイラー」や「体験版」が充実していて、開発状況が透明化されている。こんどは馴染み深い作品にするために「映画」や「アニメ」があるほどに(やりすぎだろ)

体験版を出してUI(操作感)の意見を本編に採用したり、と尽くユーザーの顔色を伺っているFF15なのだが、ぼくはそこまでしなくてもいいんじゃないか。と思う。

これからのFFナンバリングタイトルを改め直すためにも今作は試験的な意味合いが強く、それを隠すためなのか田畑ディレクターは「AAAタイトル」「極上のクオリティ」「スクエニを再びゲームの最前線へ」と今作を評しているが、僕的にはユーザーの意見を取り入れすぎるとそれは最高峰ではなくなるのではないかと思う。

 

というのも、僕含めユーザーもといこの世にいる人間の殆どが馬鹿なのである。

 

例えば、自分より優れた意見「なるほど」と思える意見を見た時人は感動のあまり自分の原始的印象をその人の意見で上書きしてしまう。

レビューを見ないうちは面白いと思ったものでも周りの人全員がつまらないと言えばしだいに染まっていきその逆もありうる。そして人は自分にとって都合の良い意見しか選択せず都合の悪い意見はなるべくして忘却の海へ流していく。自分にとっての結論は既に決まっていて(「買う」「買わないor買えない」)前者はその買うゲームが「良作」であることを願っていて、後者は「良作」であることをネガっている。

そうと決まればあとは自分にとって都合のいい情報を選択するだけで、賞賛や批判のための材料は後からついてくる。「ここがいい」とか「ここが悪い」というのは初心で得た印象を後から論理立てただけで、それを逆説的に考えればこの世のレビューのほとんどはその実抽象的、影の形でいかに自己を類推しても自分の本来の姿はこの目で見ることはできないんですよ

 

ネットは特にそれが歪んだ形に特化していますから、両極端な意見に陥りやすい。

四、五年前のまとめブログ全盛のときに、ゲームや漫画の話題で「なんでモンスターが金持ってるんだ」とか「民家に入って勝手に宝箱開ける犯罪者」とかお約束を揶揄する話題がしだいに「自陣に相手を助ける宝箱を置くとかナメてるよな」と本気で論ずる感じになった。

その時からちらほら聞くのが「女やガキがでかい剣振り回すのは違和感ある」みたいな意見、近いところで萌えアニメ特有の女の子が戦う作品嫌いとか

それもあってかFF15のメインパーティには女が1人もいないのだけれども、そうするとそうしたで「女を入れろ」という意見が出る。

 

FF13ではニューゲームから20分くらい導入のムービーが流れる、これだけが原因ではないがそのせいで「ムービーゲー」「プレイできる映画」みたいに言われたため、FF15では最初のムービーが3分ぐらいでほとんど説明なしにインターステート・ハイウェイにぶち込まれるところからスタートする。すると今度は「説明不足でわかりにくい」という意見が出る。

この

「女を入れるな」⇔「女を入れろ」

「ムービーとかいいから早く操作させろ」⇔「説明不足でわかりにくい」

「今更ターン制バトルはオワコン」⇔「アクションバトルとかもはやFFじゃない」

「大剣を軽々しく振り回すな」⇔「大剣アクションがもっさり」

「そのへんに宝箱あるのは違和感」⇔「アイテムは宝箱に入れてほしかった」

等の二者択一を非難されるのはしようがないというかどうしようもないのですが、開発はFF13を恐れるあまりこの領域までカバーしようとしてるんですね。

そもそもこの辺の意見に意味はなく、本来フィードバックすべきなのは「世界観、操作性、ボリュームは満足なのに戦闘シーンだけチープだな」とか「自由度は文句なしなのに操作性が悪い」とかゲームプレイの根幹に関わるレベルの小さい所だと思うんです。

だから、システムの細かい不満「魔法のコスパがよくてもっと撃ちまくることができたらいいのに」みたいな不満は改善すればそれがベストですがそもそもこういう不満はゲームに熱中してるからこそ起こるもの、それを聞きまくると終着点はマリオの「このステージをクリアしたことにしますか」になる(このシステム自体は詰みゲ防止策としてよくてきていると思う)。チートを使ってフラストレーションなくプレイした瞬間飽きるのと同じ原理で、こういう不満をどこまでフィードバックすべきかというのは非常に重要な点。

特に「女を入れろ」なんていうのは、「男同士の旅」という本作のテーマを根底から揺るがしかねない発想ですからそんなものは「次回作に期待しろ」で一蹴すればいいんですよ。

僕的にはゲームというものは開発側が上から何か落としてきてプレイヤーである我々がそれに振り回される程度がちょうどいいと思っていて、だからこそ新しい発見があったり衝撃を受けたり冨樫の漫画に反映されたりする。

まぁ最近のゲームは開発費が馬鹿にならないのでそれなりに売れるゲームを作らなければならない状況下にあることもあって慎重になる現状も理解できるんですが、それゆえに開発側がユーザーの顔色を伺いすぎるとそれはそれでなろう小説のような同じパターン同じ展開に帰結して、開発が奴隷でユーザーが王みたいな接待の構図にしかならないみたいなことを危惧しています。

懐古主義的な表現になりますがPS、PS2あたりのキチガイみたいなゲームが売られてた(「蚊」とか「鈴木爆発」とか)そこから「塊魂」みたいにヒットするゲームが出たりとか。そういう多様性は不可欠で(最近で言えば「No Man's Sky」とか新しかった、あんまり僕には合わなかったですが)

そのためには「意見の取捨選択」を重要視した上で、あえて「意見を聞かない」ことも重要だと思うんすわ。

つまり何が言いたいかというと、開発陣はゲハとか雑談系のスレとかまとめブログとその愉快な子どもたちの買うかどうかもわからん層の意見をフィードバックしないでほしい。上記で述べた二者択一と同じで半分以上は実を持たない結論が先に決まっている後付の感情的理論武装でしかないわけで。「ムービー長い」→「説明不足」みたいな結局意見に合わせても批評したいやつは粗を探してくるんだから、それを聞く労力が無駄。

比較的ガキが多いと言われがちなTwitterとかストアのレビューとか聞いてる方がよっぽど建設的。

 

・そもそも「FF」とは?

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そもそもファイナルファンタジーとは何なのか?

今作目で15回目のファイナルなわけだが、派生作品を合わせると大体40回以上ファイナルしている。流石に30年前からファイナルしていることもあってファイファンファンが多く新作が出るたびに「こんなのFFじゃない」という意見が飛び交うが、みんなの言うFF像とは何なのだろうか。

僕はFFを大きく4つに分ける

 

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まず1、これが正真正銘のファイナルでありすべての始まりである

 

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そして2~5、いわゆる中世ファンタジー、正直あんまりプレイした記憶が忘却の彼方なのでここも更に分けられるだろという意見は勘弁して欲しい。懐古厨の言う「FFらしさ」はここからにじみ出るものである。

 

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そして6~9、いわゆる近未来ファンタジー、6に片鱗を見せ7で昇華した。ここからサイバーパンクな「FFじゃなくてSF」と揶揄される世界観が多くなり、9で原点回帰した感は否めないが9→10の変化がでかいので中期に分類。懐古厨の「FFらしさ」がこの辺を指す場合もあり不毛な論争が繰り広げられる。

 

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最後に10,12~13,15、ここでは世界観が作風によって微細に違うものの、キャラクターの描画がリアル調に転じた。

ネトゲは知らん。

 

なぜこのようにしてFFを分けたのか、上記のような中身の変化もあるが市場の変化や会社の方向性も大きい

1 ・・・経営不振でこのゲームを作るのが最後になるかもしれない。

2~5・・・1が売れて日本ではヒットシリーズとなった。

6~9・・・6で世界観が代わり、7で独特なスクエニ感が完成された。7は映像的な面でも(ドット→3DCG)革新的で、ここからFFブランドが海外でも人気を博す。

10~13・・・9→10の映像進化も劇的で顔等のグラフィックがデフォルメからリアル志向へと変化、しかしこの時期からスクエニRPGゲームの最前線から後退していく…

15・・・再び最前線へ・・・?

 

このように、日本でヒットしている時期にプレイしていた80年代後半~90前半の人が抱く「FFらしさ」と、90年後半に出て海外的に認知された7以降の「FFらしさ」の差が不毛な論争を引き起こす現況となっている。

しかしながら、「本来こうあるべき」などという「FF像」は存在しないように私は思う。

なぜなら原点が「最後」であり、二作目のコンセプトが「一作目とは違うものにしよう」と常に変化を求めているからである。そう、FFとは常に「前作の否定」から始まりそのイメージは移ろいでゆくものだからだ。

だったらFINAL FANTASYの名前を使うなと思うかもしれませんが、それは僕にも否定できない。

 

もはや初期の開発陣はいなくなっており、シナリオやディレクターも作品毎に違っていて「シャネルとかプラダと名前がついているだけでデザイナー別人やんけ」というようなブランドと化したFFだが

それだけに目に見える形での固有の「FF像」というものは存在しない。

チョコボ」「サボテンダー」「バハムート」「ベヒんもス」「モルボル」といったキャラクターがスターシステムで登場するので、FFシリーズが共有されているような錯覚を抱くが「FF」であるための「らしさ」は「見た目」ではなく「概念」として存在する。

 

スクエニ

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その「FFらしい概念」の象徴として(てめぇさっき実像はねぇっつってただろ)近年生まれた「スクエニ感」が挙げられる。

スクエニ感」とはなにか。

FF7あたりから発生して、FF8で顕著に見られるようになった「厨ニ臭い」概念。ノムリッシュと似た感覚だが、このスクエニ感の根本はFF6以前の昔の作品にも通ずることからそれを分ける意味でも便宜上こう呼ばせていただく。

だがスクエニ成分と言うものは言葉で形容しがたい概念なので特にこれといって例え話が出来るわけではないのだが、あえて例えるとするならば「バナナ」を「ヴァナナ」

もう少しスクエニ成分が成熟したバナナは「ヴァナヘイム」みたいな感じで

「あれ。これノムリッシュ語じゃね?」と思うかもしれませんが、ノムリッシュ語は結果そのものであり、「スクエニ感」とはバナナがヴァナヘイムに至る過程を指す。

このなんとなくふわふわした感じも「スクエニ感」なわけですが

ちょっと待てと、「FFはエニックス関係ねぇだろにわか死ね」と思う方もいらっしゃるかもしれません。

確かにFFはスクウェアで合併した時にエニックスの人材が混ざっているとは言え、FFの要素としてエニックスの名を冠するのはどうかと。その気持はわかりますが、スクウェア感と表現すると何かしっくりこない。

僕にとってのスクウェアというのは

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こういう感じが強く

僕の言いたい概念は

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これなわけです

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これがスクウェア感で

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これがスクエニ

年代を逆にしてもそれぞれに成分があるこの感覚

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スクウェア

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スクエニ

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これは両方を兼ね備えた例ですね

このように、スクエニ感という概念がわかってきたところで本題に入りたい

 

今作のFF15はなんと

スクエニ成分が非常に少ない

確かに戦闘シーンやファンションセンスはスクエニ感満載なのだが、アメリカンなフィールドといい非常に人間臭い主人公たち。FF13を恐れるあまり、非常に感情移入しやすいように世界観が構築されていて、そのおかげでスクエニ感が薄まってしまっている。

ではスクエニ感溢れるFF15とはなにか。

僕個人的には2009年あたりのトレイラーが好きなんですけど

www.youtube.com

今見るとやべぇな、方向転換して正解だわ。

前半のフォントとか構成のファミコンからセンスが変わってない感じが笑える、後半はファブラ・ノヴァ・クリスタリスの神話を予習していると会話の内容がわかる、わかったところでスクエニ成分が摂取できるだけだが。

ノクトの表情変化がまんまライトニングなんだよな、これもう髪型変えたライトニングだろ。

ただ、俺はこのスクエニエキスに数年浸した高濃度なFFをやりたかった。確実に他のプレイヤー置き去りにするだろうけど

 

オープンワールド"風"

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ここでようやく体験版の内容に触れるわけですが、田畑氏はFF15を「オープンワールド」だと定義してしまった、僕はこれはミスなんじゃじゃないかと思う。

別名箱庭ゲー(日本では「ミニスケープ(育成シミュレーション)」と「オープンワールド」の別の意味がある)ともいわれるこのゲームシステム、やったことがある人ならわかると思うが一応説明しておくと

従来のゲームだとマップの端に行くたびに透明な壁で移動範囲が制限されたり、マップを切り替えることで擬似的に広い空間を演出していた、が3DCGの描画技術の向上やハードの性能向上により、リアルタイムで空間を描画し(レンダリング)例えば広大な大地の目に見える範囲だけを読み込み、「右に進めば右を読み込み左を削除する」という感じで常にプレイヤー位置から円状の広いが限定的な範囲をリアルタイムで更新していくことで広大な大地を演出する技術を採用したレベルデザインである。

それ故に、大きく場所を移動(拠点にワープ等)すると再び四方を読み込まなければならないため、場面移動にロードがかかる。

しかし、これは「オープンワールド」の定義のほんの一部でしかない。

確かに開発者目線ではこの技術がほぼすべてのウェイトを占める。だが、消費者目線でのオープンワールドというのは「空間が際限なく(シームレスに)広がっている」ことは一要素でしかなく本来の原義は「あらゆる面において自由であること」が原則なのだ。

つまり

「空間的に制限がないこと」→上記の技術で解決

「目標達成の手段に制限がないこと」→現時点からゲームクリアまでの方向性が、直線でなく点であること。多彩な手段を講じることのできるシステムで成立。

「行動選択に制限がないこと」→イベントの一つ一つに「する」「しない」が選べて、それに対する結果まで作り込まれていることにより成立。

その中の一つが「空間的な無制限」でありFF15はそれをクリアしたに過ぎない(それでも大きな偉業ではある)

そもそも「オープンワールド」の定義自体、国によって認識が違ったり個人間でも差があるものだが、大体多くの人が求めているオープンワールドは上記のような内的な広さを兼ね備えている必要があるように見える。

しかし、FFの根幹はその逆を行く

シナリオは常にリニア(一本道)で、目標達成の手段もひとつ、イベントによっては空間的な制限も生じる。

つまり、狭義のオープンワールドをFFで再現するならば本来のFFの概念を一新する必要があるほどで、そのへんの問題をクリアしていないために「オープンワールド風」と言われている。

過去作でもっともオープンワールドに近いのはFF6だろうか、前半の一本道感が否めないが後半の自由度はオープンワールドに近い。

 

僕個人的には「オープンワールド風」のままで良いと思う

FFがマルチエンディング、キャラクターカスタマイズ自由、シナリオの本筋はない。だったりしたらそれはもうFFなのかと思う。

 

FF15もシナリオの本筋が既に一直線(リニア)として存在していて、その広大な大地はあくまで寄り道のためのものであり、「オープンワールド」というと誤解が生まれる

図解すればこうなる。

画像は広がる空間で黒い線はイベントの内容、重要度やボリュームで太さを示している。

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これをオープンワールドだと定義すれば

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FF15はこれに近い(赤は移動不可範囲)

体験版の情報ですべてを判断しているので、恣意的になっている感じが強いですが、サブイベントの繋がりが薄いために「中身がスカスカ」という意見があるように思えます。

ノンリニア形式だとどこを進んでも本筋という感じなので常に密度を感じますが、リニア形式だとサブイベントはサブイベントとして処理するために密度が薄く感じられるのかと。

 

ユーザーインターフェース

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無駄にマップが広いせいで操作プレイヤーに速さが欲しくなるフラストレーションがありますが、本編だとチョコボ等乗り物を駆使できるそうなのでそれを加味すると、移動速度についてまだ批評する段階ではないように思う。

スタミナシステム、これは惜しいですね。STゲージがなくなるギリギリ、バーがSとTの間ぐらいで◯ボタン(ダッシュボタン)を離すと一瞬移動速度が早くなってスタミナが全回復する裏技的なものがある。

このおかげでスタミナはあってないようなものなのだが、ゲージの残り5%以下あたりで離すというのが微妙にシビアで、STゲージを注視していないと感覚で成功させるにはかなり苦労する。すると移動は常にSTゲージとにらめっこになりますから、せっかくきれいな景色や遠景からの索敵等楽しめる要素があるのにその部分を潰している感はいなめない

 

・会話

プレイヤーが移動中、戦闘中、釣り中、ドライブ中、一定間隔で仲間が話しかけてくる。

例えば動物虐待してる時は「今日の晩飯にすっか!」とか、キャンプしたときに安価な料理を選択すると翌日愚痴を言ったりそれに対して「材料無いんだから仕方ねぇだろ」という食料に関する話題とか

シドニーに会いてぇ」「あいつ彼氏いんのかな」といったちんぽ脳の会話も聞けたり

ショップが近くなったら「調味料を買っておきたい」とか「回復アイテムを揃えておこう」とか忠告してくれたり

敵と戦闘中に「距離を取れ」とか「敵が強いなら逃げろ」とか(夜になると普通に勝てない敵がぞろぞろ出てくる)アドバイスしてくれるんだけど、ノクトが「はいはいはいわかったわかった」みたいな人間らしい返事をする。

覚えてるだけでも結構羅列できるくらいには会話のボリュームがすごい、が、スクエニ特有の一般との感覚のズレが時々目立つ。

 

例えば、プロンプト(劣化クラウドみたいな容姿のやつ)が「シドニー彼氏いんのかなぁ」ってつぶやく、するとグラディオ(DQNみたいなヤツ)が「そりゃいないだろ」と続けて「ガードが硬そうだからな」って言う、するとノクティスが「なんでわかるんだ?」って聞くとグラディオが「そりゃあ、服装見ればわかるだろ」って言う

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んー。どこが?

防御力1ぐらいの装備やん

 

 

あと、だんだん会話のネタがなくなってくるのか

ノクト「だるいな」 イグニス(メガネかけたヤツ)「そうだな」

ノクト「熱いな」  プロンプト「そだね」

ノクト「疲れたな」 グラディオ「そうだな」

プロンプト「靴に砂入った」 ノクト「じゃあとれよ」 プロンプト「うん」

プロンプト「眠いね」 ノクト「だな」

 

 

おじいちゃんかな

ベンチ座って雲眺めてるのんきジジイの会話やん。

 

あと釣りしてる時、釣り上げた魚に対して

グラディオが「お前の見てぇだな」  ノクト「うっせ」

って会話があって、男旅ということで下ネタがある事自体は安堵したんだが(無い方が逆にキモい)まだ、何かを守ってるね。

女子校みたいに異性を意識しなくなった環境だと、性に対してもっとキチガイになれる。

「俺が男優デビューしたらどんな名前つけるか」とかを話題にしたり、プロンプトが撮った写真の中に女のケツとかおっぱいが混じっててそれに対してツッコミを入れるとか逆に「いいね~」って乗ってきたりとか、全く女しか写真に撮らない日があったりとか

ちなみに僕が男優デビューすれば「生物兵器アナルヴァイパー」にします。

コンセプトとしては男の友情、旅ということで「女がパーティにいない」ことで変に異性を意識せずに行動できるというのは僕も賛成ですが 

な~んかゲームの中の女は意識してないんですが、第四の壁の外、つまりプレイヤーが女であることを想定した守りに入ってる感じが否めないんですよね。結局プレイヤーの女に配慮して言葉選んでるなら、それはもう女がパーティにいるのと一緒だろと。

別にどぎつい下ネタを入れろという話ではないんですが、なんとなくオタクの女の理想の男同士の絡みを見せられている感が否めないんですよね。

キャラクターの内面を深く掘り下げていく本作のディテールの面で少し不満があります。

かと言って今更プレイヤーキャラに女を入れるのはナシで。

 

 

・ワールドどりぶん

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目的地に

 

・戦闘システム

・BGM

あと40分くらい話そうかな

 

 プレイ後の感想:

kyanoscreate.hatenablog.com