はなくそモグモグ

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無私

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虫は機械。増えるために生き、生きるために死ぬ。

子供の頃、虫を大量虐殺していた時に親に怒られた。
「あんただって自分の家を急にめちゃくちゃにされたらどう思うの?!」
そこで僕は言った、
「お母さんは虫の気持ちがわかるの?」

母は「きっと」でしか虫の気持ちを説明できなかった。
それも当然、虫が何を感じ、何を考えているのか、
ましては考えるということすらしているのか怪しい。
ことの真偽は誰にもわからない、虫を殺すことが悪になりえるのかも。

いやいや虫を殺すのは悪に決まってんだろ、お前は馬鹿か?
と思っているそこの君、考えてみてほしい。
僕らはゲームをする、コンピュータである敵キャラを倒す。その時点で敵は死ぬ。
あるいは機械を壊す、目覚ましだったりとか、光を照らすだったりの機能は想像にまかせるが、
壊した時点で、その機能は働かなくなる。
しかし、これらは悪か?といわれれば誰しもが首を傾げるだろう。

虫も同じだ、常に機械みたいな動きしかしないのに殺せば非難される。

僕は虫が怖い、何を考えているのか理解できないからだ。
よくアニメや映画で人間以外の動物が喋ったりするとキャラは驚きおののくが、普通安心するところじゃないのか?
奴らは何を考えているのかわからない、考えているのかすらわからない。

彼らは常に合理的だ、ありの大群を見て、その中で一匹を殺す。
すると他のアリは、その死体をまたぐ。誰一人として立ち止まらない、誰一人として復讐しに僕に立ち向かったりもしない
この場合、一人てはなく一匹だが(笑)

危険がせまれば逃げ、エサを見つければたべる。
安全なところに居を構え、そしてメスがいればパコる。

特定の条件を満たせばこう動く、といったトリガー式のプログラムが頭の中に埋め込まれていて、
感覚器官はその判定入力器にすぎない。
 
子孫を残すという生物共通の本能に、生物中一番従っているのではないか?
生きるために他人を殺す、人の世界ではこの上ない悪だが、
虫の世界では共食いという常識の範疇である。

赤ちゃんは脳みそが小さい、故に発達していないので、僕らは赤ん坊の記憶を思い出すことができない。
事故で脳に傷が付けば、頭のネジが外れていたり、最悪植物状態になる
知的障害者は、脳みその大きさはまるで変わらないのに発達のミスで簡単なことが考えられなくなる。

生物上で最も大きい脳みそを持つ人間ですらこのざまなのに。
そんな脳みそよりもはるかに小さい虫の脳みそで、
人間レベルの思考ができるのだろうか?

虫の動きはすべて反射だと聞いたことがある。
僕らが熱いものに触れて手を引っ込める感覚で、
彼らは歩き呼吸をしエサを食べて死んでいく。
彼らは生きているという自覚なしに

生きている自覚のない生き物が死ぬのは、果たしてかわいそうなことだろうか?
僕らは人が傷つけられていて、その人が嫌がっていればかわいそうだと感じる。
だけど機会が壊れていくさまを見て、可愛そうだとは思わない。

その判断の基準はおそらく「相手の気持ち」だろう。
相手が嫌がっていればかわいそうだと感じる。
虫も嫌がっているように見えるから、かわいそうに思えてくるだけで、それがただの機械だと知れば、躊躇なく殺せるだろう。

僕はイモムシがありの大群に食べられていて、くねくねしているのを見た。
子供の頃は痛いからもがいているのだろうと思ったが、
今はこう思う「生きるために機械的にアリを払おうとしてる」だけなのだと。

最近は虫だけでなく動物も機械に見えてきた。
自我が確立していない動物は生きるをインプットされた機械に過ぎないのだ。
そして今は、動物だけでなく人もだ、
唯我論の話ではない。
ただただ今を適当に生きて、
食べ物を与えられ、住む場所も衣服も与えられ、
そして、宿題部活勉強仕事行事と、生きる理由すらも誰かに与えられている。
考える自由を得ていながら、考えることを放棄している。
こんな人間は動物と大差ない、ただの機械だ。

人は、命を奪うのは悪だという人がいるが、
誰の命も奪わずに生きることはできない
生きるということは誰かを殺すことであり、数え切れないほどの死の上で自分は成り立っている。

その中でなお、自分は善だと信じるためには、殺してもいい命を線引きするしかない。

その基準として、命を自覚しない命を僕は提唱したい。

行動のすべてが反射で決まり、なおかつその動きに自覚がない
そんな虫は命を持っている、生きているということを感じず、飛んだり移動するときに何かを考えるわけでもない。
生まれた時からすべきことがインプットされ、
親から子へ継承されるものもDNAしかない。

そんな命と、人の命を天平にかけられるか?

トラックに引かれそうな猫をかばって死ぬなんてよくある話があるが、
猫は助けられたという認識はあるのか、罪悪感はあるのか、
トラックに轢かれて死ぬことを恐れることも、望むこともない。
そんな自覚のない命と人間を天平にかけることが、君たちの言う善なんだと。

本当は気づいてんだろ、殺してもいい、価値のない命があるってことを。

僕は職場体験で障害者施設へ行ったことがある。
その中には、思考は愚か、自分の存在を認識しているのかさえ怪しい人であふれていた。
得体の知れない恐怖を感じた、我々が虫に対して抱く、得体の知れない恐怖だ。
こんなことを書くと人権団体や自称正義の人たちに叩かれそうだが、
体験後の感想文でこそ綺麗事を書いたが、本心はこれだ。

自覚ない命に対していろいろと尽くし施してやることは正義か?
健常者と知的障害者に同じ人権があるのが僕には不思議でしょうがない、ましてや池沼のほうが優遇されている。
こんな頭のネジどころかプログラム自体がバグってる奴のしでかす犯罪を、自覚がないからと無罪にしてやる意味は何だ?
罪の意識も、わびる意識も、自分がなんでこんなことしてるのかもわからない人間を生かしておく意味はあるのか?

考えることができても意思を伝えられない人間に命の価値があるのはわかる。
そもそも、考えることができない人間に命の価値があるのだろうか?

人に危害を加える動物は殺して、人に危害を加える知的障害者を殺さない意味がわからない。
そこになんの違いがあるのだろうか、

群れを作る動物は、群れの中に障害を持った動物がいればいじめて殺すらしい。
少し前まで、世界もそうだった、重度の障害を患った赤ん坊は、看護婦にひねり殺される。

生きることを自覚できない生命体は、生きていても死んでいても感じるものは変わらない、
観測者の視点でこそ生き死にを感じ取れるが、
生きている自覚が無ければ、常に寝ている感覚と変わらない、
そんな被験体の目線で、「眠り」と「死」の感覚になんの違いがあるのだろうか。

自覚のある命と自覚ない命、価値のある命と価値のない命、命と機械、生と死。

これらを語るには、僕はまだ、若すぎた。
答えはまだ、出せそうにない。