香を嗅ぎ得るのは香を焚き出した瞬間に限る如く、酒を味わうのは酒を飲み始めた刹那に有る如く、恋の衝動にもこういう際どい一点が時間の上に存在しているとしか思われないのです。(夏目漱石)
賢者タイムにも上の名言のような知性の一点が存在しているわけで
そんな点が紡いだ性的な話をコラム集にしてみました
・おねショタ⇔¬(ショタおね)
某巨大掲示板等でおねショタの話題になった時に「子ども側が主導権を握るのが良い」という主張を封殺する自治が行われがちで、「おねショタで検索してるのにショタ優位が出てきて萎えた」みたいなレスが目立ちますが、僕はそもそも前提が間違ってると思うんですね。
そもそも「おねショタ」とは何かと言うと、正式な記法だと(?)は「おね×ショタ」で
この「×」はカップリングされた二人の関係性を明示する論理記号みたいなものであると。
つまり「(S)×(M)」と表記すると(S)が責める側で、(M)が受ける側になるというリレーション(関係性)を定義し、よく腐向けのBL本などでは頻繁に用いられる表現であり、大体においてこの×は省略される傾向にある
例)
ナルサス→ナルトが責めでサスケが受け
マスサザ→マスオが責めでサザエが受け
という意味を内包する。
これらを踏まえると、おねショタというのはお姉さんが責めでショタが受けであることが定義されたジャンルであり、また、ショタがイニシアチブを握るのであれば「ショタおね」というジャンルとして完全に分科されてるわけです。
つまり結論として、「おねショタにショタ優位はいらない」という主張は「俺はラーメン食いに来てるんだから、ラーメン屋にケーキ置くなよ」って言ってるくらい支離滅裂なんですね。
では、なぜこのような支離滅裂な主張が起きるかというと、性教育において「おねショタ」と「ショタおね」が分科されているという社会制度の概念が下々の民に発達していないからで
虹の色が語彙によって変わったり、肉の部位がその国の言葉によって定義される、その逆として「大トロ」「中トロ」という言葉がない国の人間にとって、魚の肉が部位によって変わるということを知覚できないように、受け責めの表記が発達していない多くの集団にとって「おねショタ」と「ショタおね」が論理的な分科によって独立されたジャンルであることを知らないわけです。
そしてそれは、その無知を煽っているアダルト系のまとめサイトにも責任があるのではないでしょうか。
彼らが同じ棚にケーキとラーメンを並べるから「ケーキとラーメンは同じジャンルだったのか」という社会的順応と「いや一緒にするなよ」という本能的拒絶が混在して紛争が起きるわけです。
寝取られとは、寝取る側と寝取られる側がいて成立する。
そのどちらかの目線かによって実は排他的に定義がなされている。(寝取る側目線だと寝取り、寝取られる側目線だと寝取られというジャンルになる)
しかし、近年のアダルトコンテンツではNTRと表記することが多く、両ジャンルの区別は付きにくくなっている。
いずれにせよNTRとは、関係を示す矢印の構図によって定義される。
NTRの三角形 提供:はなくそモグモグ
北半球の中緯度地域では生息地において一年中観測される。宗教的価値観が発達した国に多く、5月から夏にかけて見ることができる。夏にはすこし減少し横ばいになるが、9月頃から再び上昇傾向にあり、11月から12月にかけてよく見られるが、1月には実家に帰省する人が増えるため減少する。そこから4月まではよく見えない。
観測の方法として、私立探偵等の専門家の協力がないと難しいが、ワイドショーやアダルトビデオ、エ口漫画でも見ることができる。
NTRの大きな特徴として、寝取られる側(観測者)の気持ちが一方通行になりがちであるということである。もともと双方向的な交際をしていた仲から対象者の気持ちが薄れていき、最終的に一方向性を示すものが王道である。
つまり上記のおねショタでも述べたように、NTRもキャラクターのリレーションの構造によってジャンルを定義できるということである。
以上のような三角形のリレーショナル構造がNTRだと定義される他に、しばしば我々のなかでNTRと対をなす言葉として「純愛」が用いられることがある。
ここでは考察のモデルを簡略化するため、オスとメス(性別に意味はなく受け責めと理解してもらいたい) に相互の関係性があれば「純愛」と表記する。
つまり、文学チックな「純愛」のみを定義するわけではなく、快楽堕ちや相互依存など受け側の恋愛感情の有無にかかわらず、依存や堕落であっても「拒絶から受容」へと関係性が変化したものを便宜上「純愛」というくくりにする。(お互いがお互いを求めあっているという関係性に着目するため)
オスのリクエストに対するメスのレスポンスが失われている状態がNTRで、オスのリクエストとメスのリクエストがレスポンスを兼ねて相互作用している状態を純愛となる。
※厳密な定義としては先程上げたNTRの三角形が正しい、上記の部分のみだと「ただの片思い」の関係も内包するからである。しかし、純愛と比較した部分を強調するため簡略化した図である。
上記の図が示すように定義される純愛はNTRの対義語として用いられる感覚は理解してもらえたと思うが、論理構造に着目し、NTRと比較するとあるものが見えてくる
この定義されたNTRのリレーションの構造を更に細分化すると、対象者と寝取る側の間に「純愛」の構造が確立されていることがわかる。
つまり
NTRは「純愛」と「観測」によって構成されていることになる。
つまり、NTRと純愛は対義語(NTR=¯ 純愛)などではなく、NTRは純愛を含む(純愛∈NTR)ということである。
NTRの作品によっては、観測者であるはずの寝取られる側が最後まで気づかないものもある。その場合の観測者は視聴者(読者)になる。
したがって、NTRとは本質的に純愛であり、それを類別するのは観測者がいるかいないかなのである。
それは観測者効果のようなもので、現実とは完全に隔離された空間でオスとメスが盛っているとする、その状態は純愛であるが、それを見ようとした瞬間にNTRになる可能性を内包している。
つまり、すべての純愛はNTRと重ね合わせの状態にあるということだ。
私がこれに気づいたのはNTR作品を漁っているときである。
詳細については伏せるが、僕がある作品を見つけた時このような失望を抱いた。
「寝取られって自称してるけど、ただの片思いが失恋しただけやん」
その当時の資料がこちらである
ただの失恋をNTRってタイトルするのは違うんだよなぁ
— ぎ~く (@kusonote) 2019年1月7日
この後、他の作品で抜いた後の賢者タイムで気づく
「NTRとは観測者の中に存在している幻想である」と
つまるところ、僕がその作品に抱いた失望の本質はこうである。
「その作中の主人公(観測者)は、そのオスとメスの交配をNTRだと解釈した」
「読者である私(観測者)は、そのオスとメスの交配を純愛だと解釈した」
この認識のズレが感情移入を阻害したのだ。
勃起は論理に働く(いわゆる「筋満ち勃った」ってヤツ)ので、このような認識の齟齬によって簡単に萎えてしまうのである。
結論としては、NTRは観測者の幻想であり、観測者がメスに抱く感情によって純愛にもNTRにも成りうるということである。
つまり、NTRが示すものはメスに抱く観測者の特別な感情の発露であり
観測していたものは雌雄の交配ではなく、自分自身の心なのかもしれない。
・チンポピュリズム
性的嗜好ほど、人間の個体差がピーキーに反映されたものもないだろう。(ここピーキーという表現も微妙で、要は個体差が尖っているということが言いたい。エアライドのマシンの性能みたいな。こういうのを示す語彙ってないの?あったらコメントほしい)
そして個人には固有の「理想的な展開、構図、背景などの要素」を持っており、これらを満たすポルノを探している。この理想的な何かをここではイデアルフォルムを呼ぶ。
イデアルフォルム(以下、イデアと呼ぶ)と完全に合致するポルノを見つけるのは困難で「性癖ドンピシャ」と表現してもその本質は近似なだけである。
大抵は近似値の中にイデアの虚像を見出しているだけで「これが自分の理想」と思い込むための媒介としてポルノが用いられるだけである。
なぜ理想のポルノが存在しないのか。
それはイデアの実像を自分自身ですら捉えきれないことにある。
イデアを正確に知覚することができるのであれば、他者の生み出すコンテンツに依存する必要はなく、自分で生み出せばよいのである。
しかしそれが叶わないのは、イデアを知覚できないが、対象物と比較してその距離を測ることしかできないからである。
人は貧乳を見て「自分はもう少し大きいほうがいい」と思うことでイデアの断片を捉える。
そして「イデアのおっぱいはもう少し大きいのではないか」という幻想が爆乳絵を生み出すのである。
イデアの実像を見出す媒介としてコンテンツは創作され、消費される。
つまり人気のポルノのというのは「多くの人間のイデアと近似である媒介」ということができる。
しかし多くの人間のイデアと近似であるためには、そのコンテンツ自体の想像的余地を残さなければならない。
つまりそのコンテンツを構成する多くの情報について、ある種の抽象性がなくてはならないということだ。
誰かの性的指向に完全に合致するものを作ったとすれば、それは対極に性癖を持つ誰かの媒介にはなりえない。
人気のポルノであるためには、より多くの人間の媒介になる余地を残す必要があるから、全体的に抽象性を孕む。
その結果、性のポピュリズムが起きる。
全員の媒介になるだけの抽象性を残しているということは、全員が固有に持つそれぞれの尖った性的指向の部分に合致しないことを示す。
よってポルノは人気であるほど、誰かが抜けるという一貫性を失う。
皆が固有の尖ったイデアを保有しているが故に、全員のイデアを満たそうとすれば、そのポルノの方向性はたちまち失ってしまう。
なんとも皮肉な話である。
・僕らは情報で抜いている
先程のNTRの項目で、ポルノのカテゴライズは一見視覚的な分類に見えて、その本質は観測者の感情次第ということを述べた。
しかしこれは色情の全体像ではない。
上記の例は認知の後に来る解釈によってポルノをカテゴライズしている。
となれば当然逆の、認知の前に来る先入観がポルノをカテゴライズするケースも存在するのだ。
例えば、男女が仲良さそうにベッドの上で情事にふけっているとする。
この動画が某rn hubに投稿されていたとして、どのようなタグが登録されていると想像できるだろうか。
無難なところで行けば「カップル」「ハメ撮り」などが想像できるだろう。
しかしそれは多角的な世界の一面に過ぎない。
僕が見た動画のケースでは、この動画には「NTR」とタグ付けされていた。
とはいえ、NTRの三角形で示すような「寝取られる側」が存在するわけではないから、客観的には寝取られであることを証明できないのである。
その逆もまたしかりで、その男女がカップルであることも証明できず、撮影された部屋もベッドも誰のものであるかが動画という制限された情報量下では確定することができない。
その男女の性行為が浮気であることを示すのは、動画のタイトルとつけられたタグのみである。
まぁ、私はその動画で抜いたのだが、実際にはただの男女が仲良くHしてるだけである。もしタイトルに、「〜〜のカップルが〜〜」などの純愛属性を含んでいれば、私は抜かなかっただろう。
上記の例が示すように、動画の内容よりもタイトルが示すシチュエーションのセットアップのほうが、ポルノにおいて大きな意味を持つ。
また、露出狂が自らの犯行について語る文章で、上記の例となるような面白い箇所があった。
露出狂は自分の恥ずかしい姿を見られたいMと、恥ずかしい姿を人に見せて嫌がらせをしたいSがいますが、私はSでした。
これも客観的な視覚情報はただ「性器を露出している」だけなのだが、露出狂の視点では「性器を見られているマゾヒズムの感情」と「性器を見せているサディズムの感情」といった多角的な感情が、その行為に意味をもたせる。
つまり人は、前を向けば見える四足歩行のケツに発情していた時代から、ただ裸を見るだけには飽き足らず、その意味を解釈しなければ興奮できないほどに知能が発達した。
コンテンツを作る側は、消費者のイデアルフォルムに向けて情報をセットアップする。それゆえ最近のアダルトコンテンツのタイトルは長いのだろう。
大人にランドセルを着せ、幻想を作ろうとする。
そして消費する側も、媒介を自身のイデアに近づけるように解釈をセットアップする。
ポルノに意味をもたせるのは、見せる側と見る側の幻想なのだ。
だからこそ、視覚的なポルノを規制せんとする団体や、規制に精を出す権力を滑稽に思う。
彼らの論点は常に「何を見せないか」に始終している。
本質は形而下には存在せず、その物体に抱く幻想にあることに誰一人気づいていないのだ。
そしてその結果、対象に規制という幻想を与える。
それが、ポルノを生み出す行為と知らずに。
勃起とは、幻想と解釈なのだ。
・言語を介して失ったもの
多くの男性が理解できないこととして、下心がなければヌードデッサンでは勃起しない(描く側の男が)というものがある。
これはつまり、美術的感性を育んだものは「女体を見るという行為」に対して「劣情的解釈」と「美術的解釈」の2つの意味を与えることができる。
これは先程の行為の中で、発情するために1つのポルノ的解釈を選択するのと比べ、性的嗜好と性的でない解釈の中から女体に意味を見出している。発情する以外を目的とした解釈が選択肢として存在するのである。
四足歩行のケツに発情していた時代と比べて、人類は女体を視認してから「ポルノかそうでないか」の択が存在している。すなわち、「 " 女体がそこにある " ということがポルノとは限らない」というのが人類の認知世界である。
しかし人類だけでなく、この認知世界はおそらく動物にも存在しているだろう。
なぜなら動物は衣服を着用していないからだ。この選択肢が存在していないと、オスはメスを視認するたびに性行為に走ることになる。
そしてそれらの動物が女体に意味を与えるのは、発情期やフェロモン、習性としての求愛行動といった先天的に遺伝子にプログラムされた本能的なものだ。
おそらくその本能の名残が、ヒトの行う多世界解釈に発展したのだろう。
だが現代社会においては、公的な空間で発情した女性が裸で誘惑したとしても性的興奮よりも先に恐怖による警戒心が勝る。
このことから、動物と比べたときの人類には、動物的な性の意味づけが形骸化していることがわかる。
動物はメスの身体に対して「特定の条件下でポルノを見出し、それ以外の条件で女体はただの背景になる」ということだ。つまり「通常はフラグが0として背景と同化された女体が、特定の条件下でのみ発情の対象となり、フラグが1であることを示す」という特定の時期、環境において反応を満たすという反射的特性があるのに対し、人間は女体に対して背景として認識する(家族の裸体など)ケースとは別に、「美術的なモデルとして認知する」といった、性的な目的以外の解釈を選択できるという点である。
そうなるともはや、サピエンスのオスにとってメスの体の起伏は常に背景であり、ポルノとは思考の中に存在する幻想でしかない。
おそらくこれは人類固有のもので、その発展に寄与したものとしては言語の存在が大きいだろう。
概念や感情を語彙によってパッケージ化することで、人類は自らの形而上に存在するイデアルフォルムに近づくための術を得た。(そもそもイデアルフォルム自体、言語によってポルノをカテゴライズできるようになったことによる副次的産物なのかもしれないが。)
言語のない世界では、すべての女体は等しく同値であるからだ。
人類は言語を獲得したことでわずかな個体差を精緻化することができ、自らの思考をイデアに近付けようとした。そして現代では同じ女体でも、意味の選択を間違えると情動を失うまでに複雑化された。
つまり視覚的情報の差分だけでなく、分岐された解釈を正しくたどるように言及しなければヒトは正常に勃起できないということだ。
つまりヒトは言語を介するようになったことで「女体がそこにある」ということだけが興奮を満たす十分条件にならなくなったのだ。
ED(勃起不全)は「勃起機能の低下」を意味する英語Erectile Dysfunctionの略であるが、言語を介して感受性を緻密化した人類は総じて本質的に「勃起機能の低下」に苛まれているのではないか。
「食べ物なら何でも美味しくいただける」状態から「特定の味以外でなければ満足できない」と遷移することは
舌が発達し、感受性が発達したと言えるが
はたして、人間的にはそれは「進化」なのだろうか。。。