はなくそモグモグ

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作品は作者の手の内の世界であるべきかどうか【究極の哲学】

たまに掲示板とかを見ていると深すぎる考察を見ることがあります。

キャラの1動作1動作に対し心理的な理由を分析して、

歯を磨くのはこういう過去があるから、ここでくしゃみをしたのはこういう過去があるからこう。みたいに

明らかに「作者はそんなこと考えて書いてないだろ」みたいなレベルの考察をよく目にします。

そして、その作品が評価されるときに「作者はそんなこと考えて書いてないだろ」というところまで評価されるのは果たしてどうなのかということです

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例えば、こんなカンジで適当な絵があるとしますよね、(作品名:もりのくまさ

俺は本当に何も考えずに適当に描いたんですけど、

 

そこに賢い人が現れてですね(この場合アホとも言えるかもしれない)

「この作品は森林の中なのにクマが一匹しかいない!地球環境問題を訴える風刺が込められている深い作品だ!」

なんて言ったとしますよね。

するとこの「もりのくまさ」(作品名)社会風刺作品としての付加価値がでるわけですよ。

そんでもって「社会風刺作品」として有名になって売れて、

本屋でも「社会学」あたりのコーナーに並べられるわけです

 

・・・。

 

これって作品の粋を超えてませんか?

 

読者の過大評価や完全に作者のフォローの範疇外の解釈によって肥大化させられている作品を作品と呼んでいいのか、

はぁ何をおっしゃっているのだこのお方はとお思いになるでしょうが、考えてみてくださいよ

「作品は作者と読者が作るもの」と考えれば聞こえはいいですが

作者の落ち度や欠点を読者が都合よく補っていたり、読者の力が強ければつよいほど、作品を作る意味というものがなくなっていくのです。

 

例えば、ぼくがさっきみたいに適当に絵を描いたりとか、

まぁ「思わせぶりな表現」を何も考えずに描いたとして

それを発表する際に、社会的に発言力のある人物、まぁ芸能人とかでもいいですけど

有名な大学の教授とかに脅したり、札束を握らせたりして

それっぽい評価をしてもらえば、「深い作品」になる可能性があるということです

そうなってしまえば作者なんていらないですよね

適当に作っても発言力のある人に「すごい」と言ってもらえれば作品たりえるんですから

そして、それは起こりつつあります、「あの〇〇先生が賞賛!」みたいな帯がありますよね

他人の評価を気にするところがいかにも日本人らしいですが、他人に一切をゆだねていると、いつかこうかいするぞ。

 

そもそも、解釈を読者におまかせする系が嫌い

いろいろとあれこれ考察するのは嫌いじゃないですけど、

最終的に作者が何も答えを用意していなかった。なんてパターンはよくありますからね

それは作品としてどうなんだよと思いますね。

解釈の差異を楽しむものだったとしても、答えのすべてを掌握していなければ

作品として破綻していると思うんですけどどうだろうか。

解釈を読者にゆだねるという時点で逃げであると

答えを出さない時点で表現者として敗北と同じだし、

広げた風呂敷を回収していないと捉えられてもおかしくない

あくまで答えを誘導する形で、最初から最後まで作者の手の内であるべきだと思います。