日常生活で使われている言葉の中であまり好きではない言葉がある
「イケてる」や「ダサい」だ。
まず言葉の響きだが
「イケてる」全然イケてない響き。「ダサい」それこそださい響き。
それだけじゃない
「〇〇がイケてるグループから追い出された」や「お前ダサくみえるからやめろ」
基本的な用法なのだが、これらの文章に俺が嫌悪するのは
第三者からの評価を不自然なく尊重してる点
>「〇〇がイケてるグループから追い出された」
そもそもグループという言い方自体おかしいことに気づかない周りがおかしい
同一理念を持って活動する集団であれば「イケてる」などという第三者からの客観的評価を名前に使ってる事自体おかしい
てめぇらは「イケてる」ために集団に属すのか?集団を形成するのか?と問いたい
学校にヒエラルキーが生じるのも
こういう第三者的な評価で周囲が階級付ける風潮に誰も疑問を持たないからだ
「あっちはイケてるグループこっちはイケてないグループ」
そんな第三者の評価によって転属したり卑下したりするほど弱い結束力なのか?
と問いたい
スクールカーストを否定しておきながら言葉の潜在的な所から優劣の存在を認めているという矛盾
コレが人間を不幸にするスパイラルを形成していることに
誰も気づかない、思考力が足りていないから不幸になる。
先日、とある事情で追われている状況になった時、
将棋部の部室にかくまってもらうことになった。
あまり言いたくないのだが、言葉を借りればイケてない集団
スクールカーストの底辺に属するような、休み時間に教室の隅で読書をするような人間たちだった
だがその人達は俺のような異物を違和感なく受け入れてくれた。
偏見にすぎないが、これがもし世間体を気にする「イケてる」などという言葉を使うような人間の集まりであれば、俺は排他的に心の壁で隔離されていただろう
その中で短い時間だがその人達と将棋をしながら交流した
将棋は負けた
しかし、普段はおとなしい人間もすごくいきいきしていたのだ
「ぼっち属性のやつって学校来るのが苦痛でかわいそうだなぁ」などと考えていた
俺の価値観はムチ(無知)を叩きつけられ崩壊した。
世間体を気にしないスタンス、オタクと蔑まれる有象無象に関心を示さない強固な結束力に感動を覚えた瞬間だ。
そういう人間たちが高成績をおさめるのも根本的に脳の構造が付和雷同な周囲とは違うからなのかもしれない
よって
「イケてる」ということを意識することが自分自身の幸福を妨げていることは紛れもない事実であり
幸せ、楽しいを主軸に置くとこの考え方がいかに非合理的であるか
もう一度考えてほしい。
馴れ合い、相手のご機嫌取りを応酬する関係を「友だち」と呼ぶ人間たちによって
「イケてる」という言葉が構成されたのだ
続いて「ダサい」
コレも先ほどと同様
第三者によって評価されているに過ぎない
ファッション、言動、思考など様々な状態に使われる言葉だが
「お前は自分よりも周囲を正しいと思うのか?自分の感性が信じられないのか?」
と問いたい。
服装にしろ言動思想にしても絶対な正解があるわけでもなく
ましては客観的な「型」が正しい訳でもない
なのに人は流行や道徳などという「型」を提示し
思考停止したマジョリティの中で数という正義をかざし
誰かの考えをまるで自分のもののようにかつ馬鹿の一つ覚えのように正しいと主張し
それ以外の新しい型を発見することも、開拓することも、創造することも
考えようとすることさえも出来ないくせに
多様性を認めず、新しいものを存外の型に当てはめ集団の考えに自分も寄生する形でしか評価できない人間の発する言葉の象徴がこの「ダサい」なのだ
「ダサい」かの基準は雑誌か何か「自分以外のモノの感性」
そんな思考停止した人間に借り物の評価をされても
気にする必要はない
所詮、服なんか体温調節の観点から生まれたただの利便的な道具にすぎなく
デザイン性を重視して夏に熱い思いをするものでもない
俺が芸術的に考えて一番デザイン性に優れると思う服装は