はなくそモグモグ

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自殺には2種類ある。。。

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と思う。

僕の言いたいことをかなり解像度高く描いているのが夏目漱石の『こゝろ』で、まぁ高校の教科書にも載ってるんでご存知かと。

あれは上中下の3部あって、教科書に載ってるのは一番最後の下の一部なんですよ。

青空文庫でタダで全部読めるので、まぁ暇な人は隙間時間にでもいかがでしょうか。

 

あの作品には2人の人間が自殺するんですけど、それがちょうど僕の自殺の分類の見本的な感じで説明のときに引用してます。

高校の時に読んだので細かいところは記憶違いがあるかもしれませんが、大まかにあらすじを説明すると。

 

第一部(上)では、主人公である"私"がバカンス先で先生と呼ばれる人間に出会うところから始まっていて、先生との会話の中で心の陰りに気づく。それを追求するかどうかという葛藤が描かれています。

第二部(中)では、先生と別れ実家に帰った私が、病で容態の悪くなった父とそれと取り巻く家族のゴタゴタが展開します。明治天皇崩御をきっかけに父の容態は悪化し、すぐに父は亡くなります。その騒動の中で私は先生が自殺したことが記された電報と遺書が届いたことに気づき、急いで先生の住所に向かうところで終わります。

第三部(下)で私は先生の遺書を読みます。そこで皆さんご存知、先生とKの一人の女性を巡る駆け引きが行われるわけです。Kも自分と同じ女性が好きだと知った先生がKの気持ちを知りながら、Kには自分の気持ちを隠して抜け駆けて結ばれるわけです。

それが"きっかけ"でKは自殺します。

先生は叔父に騙されて父の遺産を使い込まれていたという過去があって人間不信になったのに、自分自身も他人を人間不信にした原因の存在であるという自覚を持ちます。

その"人間の罪"こそが先生の自殺の原因である。というふうに物語が終わります。(遺書デカすぎ問題)

 

これはフィクションの物語ではありますが、僕は自殺の本質はこの作品でおぼろげながら描かれているのではないかと考えています。

つまり、自殺には2種類あると僕は考えていて。

 

①衝動によるもの。

②自分を許せない過去が忘れられないなど、慢性的な死への欲求。

 

この2つに分けられると思います。

ちょっとわかりやすく書いたので僕の言いたいことを完璧に表しているわけではないんですが。詳しく書くと

①は時間軸で言うところの点、対して②は時間軸で言うところの線としてイメージすると近い。

 

つまり、①というのは瞬間的に心が折れたり挫折をした体験をすることによって、衝動的に死にたくなっていると。

しかしそのデストルドー死の欲動)は点であるから、時間が過ぎればやがて死への衝動は無くなるんですよ。(また別の出来事に起因する死への衝動が現れるかもしれないが)

 

で、②は"こゝろ"の先生のように、自分を許せなくなった過去が常に自分の頭の中をこびりついていて生きている人間。

常にデストルドーを持っていて、自死するかどうかは最後の一押しがあるかどうかでしかない。

先生の場合はそれが明治天皇崩御であったと。

 

自殺の話題には「自分で自分の死を選ぶ自由もあるだろう」という意見もあって、どっちかって言うと僕もリバタリアニズム的な思想を持っているので賛成側なんですけど、僕は①のケースの場合、一種の酔狂だと思っていて。要は酒に酔っ払っていて判断能力が低下しているようなものであると。

死への欲求が点であるから、今さえ乗り越えればやがて消える衝動なんですよ。

だからこそ、こういう人の自殺は止めるべきだと思っています。

ただし②の場合は、僕は本人の意思を尊重すべきだと思っています。

なぜなら、死への欲求というのが慢性的に存在していて、どこかにタイミングがあるにすぎないからです。こういう人の自死を止めても、次のタイミングで死ぬだけです。

 

また、①はその衝動を抱く体験や風潮、空気感といった外的要因なものが多くて

②は自分の内側から構築されていくという違いがあるような気がします。

 

それを踏まえた上で、こころを見ていくと

自殺したKは敬虔なる仏教徒なんですよ、僕もそんなに詳しくないですが仏教は「執着を捨てる」ことがテーマとなります。(仏教用語では"しゅうちゃく"ではなくて"しゅうじゃく"と読みます)

道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲せつよく禁欲きんよくは無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害さまたげになるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。

夏目漱石 こころ 下 四十一

仏教はたしか恋愛感情そのものを否定はしていなかったと記憶してます。その恋愛に執着することを捨てよ。ということなので上記引用の考えは行き過ぎた感が否めません。

そして、Kの遺書では

自分は薄志弱行はくしじゃっこうで到底行先ゆくさきの望みがないから、自殺するというだけなのです。

(中略)

私のもっとも痛切に感じたのは、最後にすみの余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。

夏目漱石 こころ 下 四十八

とあります。

この"薄志弱行"というのはKがお嬢さんへの恋心に執着している自分を客観視した故のもので、"もっと早く死ぬべきだのに"というのは仏教的価値観では「全ての執着を捨てて、魂一つのまっさらな状態で極楽浄土へ向かうべき」的な設定なので、Kはもっと早くに死んでいれば執着を全て捨てた状態で死ねたのだけれど、現在では恋したお嬢さんに対する執着を捨てきれていないことを意味すると思いました。

 

なんか"こころ"の感想文みたいになってますが、僕が言いたいのはKのデストルドーは①だと感じたということです。

作中読んでいればなんとなく共感していただけると思うのですが、Kはなんか童貞臭いんですよ。日に数珠をずっと数えていたり(輪になっているから数え終わらない)、急に「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と煽ってきたりと女の子が寄り付かない感みたいなのがあって、Kがお嬢さんに抱いた恋慕っていうのも女性免疫がないがゆえに一緒に暮らしたから好きになった。みたいな、童貞が会話しただけの女を好きになるレベルの話であると。

だからこそKのデストルドーは点であり、仏教の教えを極めていくうちにやがてお嬢さんへの執着も消えたはずで。このKの自殺は止めれば解決する自殺だなと読んで思っていました。

 

逆に、先生は②であり。

自分が軽蔑していた「他人を欺き、利己的欲求を満たす」叔父のような人間に自分がなってしまった。あるいは、人間が全員そういう一面を持っていることに気づいてしまった。

まぁKが「騙された」という感情を持っているかは謎ですけどね。(僕は持っていないと見ています。)

だからこそ、

私は過去の因果いんがで、人をうたぐりつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人でいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか

夏目漱石 こころ 上 三十一

主人公が「他人を欺き、利己的欲求を満たす」でない人間であると信じることで、自分のその結論が間違っていたと安心して死にたい。というのが先生の願いだと思うのですが。

その自分の本心(自分が"他人を欺き、利己的欲求を満たす"人間であるという部分も含めて)を最も愛する細君にすら打ち明けていない(最も愛するがゆえ、とも考えられるが)のが先生の性格だったりします。

つまり、先生は常に死に場所を探していて、自分の本質を誰にも打ち明けていないわけです。そしてきっかけとともに死ぬ。(作中では明治天皇崩御でしたが)

 

その"きっかけ"を「自殺の原因」として取り沙汰しても意味がないと思うんですよね。

きっかけを取り除いても、根本的なデストルドーが解決されておらず、やがて別のきっかけが訪れるわけですから。

そしてその希死念慮は誰にも打ち明けないわけですから、そのものを取り除いてやることもできずと。

そしてそれが自分の定義する罪(過去に起きた出来事に由来する)であるなら、過去を変えられない限り不可能なわけです。

 

そういう意味で行くと、宗教というシステムは合理的かもしれません。

②のタイプの人間が抱く慢性的なペシミズムにピンポイントでフォーカスするものですから。

なのでKが無宗教で先生が仏教徒であったなら、どちらも死ななかったのではと思うのは僕だけでしょうか?

 

正直、僕も自殺を考えたことは何回かありますが、自分の精神を分析するとその全てが①のタイプに分類されるものなんですよ。

でも何故僕は実行しないのか。衝動的な自殺願望を抱いた時、僕は「奪われた」と強く認識するようにしています。

 

①のタイプの人間って平時には普通に安定したメンタルで生きていけるわけですよ

それが「こうあるべき」という社会の圧力や常識、空気、あるいは睡眠不足、運動不足、日光不足から生じる。

つまり、僕たちは生きるモチベーションを社会によって奪われてしまったと考えるべきです。

その根源は労働にあります。

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https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/17/dl/1-3.pdf

 

アクセス稼ぎみたいになるのが嫌なのと、話題性だけで踏んで本文を読まない人にごちゃごちゃ言われるのが面倒なので、前に上げた記事同様、検索に引っかからないように両氏の名前をあえて出してないんですけど(両氏の自殺を記事を書くきっかけにしているのは事実なので善人を主張するわけでないですが)

僕は両氏の自殺にあえて原因をつけるとすれば「仕事」です

一方は仕事が減っていくことに対する焦燥、もう一方は終わりのない続く仕事に対する逃避願望。

故に両氏ともに①のタイプだとみています。(でも僕は本人の本心を知っているわけではないので合っている確証はないです。)

 

厄介なのが①のタイプでも断続的に刹那のデストルドーが点在していると、人が腕に対して横に寝かせた1本の指と縦に立てた4本の指を区別できないように、それが②のタイプのような慢性的な自殺願望だと勘違いしてしまうところで。

点が並ぶと線に見える感覚です。

それは永続的な死への欲求に見せかけて、一定間隔で衝動を誘発している原因を取り除けば解決する事が多い。でもそれが永続的な死への欲求に見えているから解決できないんじゃないかと錯覚してしまう。

 

両氏も、働かなくていい、生計を立てる必要はない、誰からも何も強いられることはない。そういう環境を手に入れたなら自死は選ばなかったという確信がある。

 

それは問題としてあまりにも基本すぎて、解決不可能だから論点にすらならないが、

若者の自殺の原因のほぼ全ては労働、

もっと具体的に言うと社会的責任を背負わされ続けることへの逃避願望。

これに尽きると思う。

 

コロ中で「経済を優先して国民の健康を蔑ろにするのか!」みたいな批判があるけど

労働はもっと多くの人間に健康被害と死をもたらしているが、これがないと経済が回らないよねって前提なのは皆黙認しちゃってるですよ。だから国は経済を優先しているというのは最初からわかっていて、国民もそれを了解しているはずなんですよ。

 

コロ中で結局金を持っていても「経営し続けなければ生きていけない」という現実に直面しつつある。労働や経済活動が"持続可能の前提"によって成り立っているから補填やらなんやらで揉めることになるし、労働者も休めないことに苦しむことになる。

この問題はいずれ真剣に議論されることになると思う。(日本は最後の方になるが)

 

人が自殺した時に「関係してたプロジェクトが~」とか「この仕事どうなるの~」みたいなのを気にする奴がいるのがすごく気味が悪い。

 

よく、嫌われている奴に「(皆お前に死んでほしいと思ってるけど)お前なんで生きてるの?」ってニュアンスの悪口があるけど、その考えは改めたほうがいい。

これは他人の死を望む感情そのものを否定しているわけじゃなくて、他人がいくら自分の死を望んでいようと、それは自分が死ぬ理由にはならない。ということが言いたい。

上記のような悪口を言う人は回り回って自分の首を閉めている。本質的に、"自分の生き死には周りの空気や時勢に従って決めるべき"という偏った考えに支配されている証拠だから。

 

他人にいくら愛されても自分が自分を愛せなきゃ意味がない。

他人の迷惑なんか関係ない。

 

それは死にたい生きたいの問題じゃない

あなたはただ社会に生きる意思を奪われたかそうでないか。

そういう問題として捉えるべき。