よく人が勘違いするのは「成績がいい」ことを「頭がいい」と思っていること。
確かに、学力は頭がいい人間についてくる能力だが、
それにかぎらず頭の良くない人間にも努力するチャンスがあるということ。
記憶力薄弱な無能であっても毎日頭のいい指導者に教育されれば
テストで良い点を取れる、良い成績を収められる点から。
成績いい={頭悪い} の例があり 頭悪い≠頭いい から
成績いい≠>頭がいい
ことになる。
にも関わらず、成績の悪いものを「頭が悪い」と見下し、
自分の成績が良ければ「頭がいい」などとおごり高ぶる者は多く
それは俺の定義上で「頭が悪い」と分類している。
では頭がいいとはなんなのか。
俺の定義上で「頭がいい」のと「賢い」のと「成績がいい」のは分類されてて
そのどちらかが上だとか下だとかはない。が決して同じまたは類しているということは絶対にない
賢い・・・考えが合理的、要領がいいこと
成績がいい・・・そのまんま、テストの成績がいい
で、成績がいいからといって頭がいいわけでもなく
賢いからといって成績がいいわけでもない、
では「頭がいい人」の定義とは
俺の中では「考える人」、与えられた情報に疑問を持てる人、その上で一思考できる人
を頭がいいと定義する。
しかし、それをできる人間って本当に少ない。
大抵の人間は与えられたことを与えられたままやってる機械のような人間ばかり
勉強だって与えられた暗記物をひたすら無心に覚え続けるだけ、
だから国語などによくある「答えのない」問題をできないしやらない。
考えが無いゆえに誰かの考えに寄生している、誰かの考えに依存して
自分は頭がいいと勘違いしている人間が多すぎる、これでもかというほど多い。
そして「頭がいい」か否か、それを見分ける方法としては
”「頭がいい」のと「勉強ができる」を明瞭に区別しているかどうか”
で俺は判断している
そして俺が今まで出会った人間の中でそれができていた人間の数を数えるのに
両手もいらないぐらい少ない。(まぁあくまで俺が知ってる中でだが)
そして俺と同期でそれをできていたのは一人だけ(まぁあくまで俺が知ってる中でだが)
だからその人物に会った時は本当に驚いた、成績も俺以上だったので
たぶんほかよりワンランク上の思考しているのはそいつだけ。
あと自分より頭が悪いやつの見分け方として
その被験体の行動を読めるかどうか、こうすればこうするなってのがわかる相手は
自分と同じレベルの思考してるか、それ以下。
まぁ少なくとも自分の考えと違う行動をとっている人間は
自分より知能は上と考えた方がいい。
さらに説明が上手な人は「頭がいい」と考えていい。
知識や知力を「自分の中で完結させない」ことを知ってるから
ただ「頭がいい」→「説明が上手」とはならない
という風に今「頭のいい」人間の見分け方を提示したけど
それを「なるほど」と受け止めた人は俺の定義する中で「頭が良くない」
与えられる情報に対し、疑うことをしらない。考えない。
そういう人間というのは誰かの考えに「依存」することしか知らない
与えられた情報に対し考えることを放棄してるから持つことしかできない。
勉強だって与えられた答えを覚えることしかできないし、
「できたら買ってあげる」「将来役に立つ」など
勉強をする動機すら人に与えてもらってる、自分がこれを学んで何をするのか
その「使い道」を考えてないから学ぶことにストレスを感じてる。
例えば「嗜好」という熟語の読み方がわからないとする、
漢字をみれば「たしなむ」の嗜と「すき」の好で構成されているので
「好きで嗜むもの」なんだなとおおよそ理解できる。
しかし、そのステップを踏まずに答えを求めようとする人間がいる。
考えた上での質問ならまだしも、考えようとしない。
そういう人間はなぞなぞなどの遊びでも答えばかりを求めて考える楽しさを知り得ない
そういう人間に限って自惚れてる。
自分は頭がいいとか他者より優れてるとか思ってる、というよりそう思われたいと思ってる。俺とか
それって一番自分を卑下していると思う。
自分に自身がないから精一杯劣ってると思われないように頑張っちゃってる。
他者と違った考えを提示してそれを認められないことを恐れて考えることをしていない。
自分の考えに責任を持たない、というか持てない。
だからみんなが共通した「成績がいい=頭がいい」を疑うことなく使ってる。
だから俺は「頭がいい人の定義」を「テストで点とる」とか抜かす奴とはこれ以上語りえない。
そういう人間は難しい話題を嫌う、考えようとしない。
議論を勝ち負けでしか区別できないから、議論を嫌い討論することを知らない。
それでそういう頭の悪い人間が増えるのは本当に危険。
考えないということは誰かの考えに寄生するということだから
一人が発言した考えを同調することしかしない、
同調は同調を生み、一人の考えがウイルスのように感染していく
そうやって肥大化した一人の考えが集団の民意になり客観になる。
それって考える人が考えない人を支配するようなもので
流行とかって俺から見れば恐怖でしかなくて、
ついていけないというのもあるんだけれども
流行るということはそれだけの人数が「同調した」ってことであって
面白くないことも民意で「面白い」と錯覚させられている
面白い、面白くないといった感性までもが「誰かに支配されている」
流行に限らずクリスマスとか節分とか最近ではバレンタインとか
どっかの企業が考えた「買わせる」のための風潮を
国民全体が同調している、こうやってチョコレートを買わせるように企業が支配している。
そしてそれに誰も疑問を投じない。
この例のように誰かが得するだけのかわいいものならいいが。
いじめや差別、そういったものの根底は考えない人間による同調で
こいつはいじめてもいいという”誰かの考え”がクラス全体の民意になり正義となる。
そうなったら手遅れで、
この考えを考えたものは誰なのか?なぜ?いったいなんのために?
という根本的なことすらわからないまま、わからないままに同調している。
根本的な意図を見失いながらも他者への攻撃という異常性を暴走させながら
集団がまるで一つの生き物のように動いている。
よくいじめられている人間をウイルスのように扱い、触った~感染した~
などと騒いでいるが、
俺から見ればその考えのほうが誰かに侵食されたウイルスだと思う
俺の体験談だが、文化祭の時発表があった
その中で誰かが一定のリズムに合わせて拍手するのだ
文化祭ということもあってロックやヘビメタなどではなく合唱曲などのクラシックなので
比較的落ち着いた鑑賞が推奨される環境での拍手は失礼極まりない、が
個人の拍手のはずがその拍手は一人二人と増え、やがて数百人単位の大規模な拍手になるのだ。
当然この異常な光景に教師たちは制止しようと務める
俺はそれに失望を通り越して恐怖を覚えた。
いや全員がその行為に疑問を持つのが理想だ、でも誰か一人でも疑問を持っていたら・・・
しかし、それすらも許さなかった。
考えずに同調するその行為に対する自分の考えを持たない、持とうとしない人間というのはあまりにも多すぎた。
全員が全員個々の考えを持っていたならば、「客観」が数をなして民意になるだろう
一人ひとりが「いじめ」について自分なりの考えを持っていたら
クラス全員がいじめに賛成するなどという結論には絶対に達しない。
いじめを肯定する奴がいたとしてもごく少数で。
多数が反対であればいじめになりえない。
考えが間違っていたり、人よりも考えが劣っている人を「頭が悪い」などとは俺は絶対に思わない
むしろ「頭のいい」という考えを自分で作り上げていない、
集団が形成した「頭が悪い」に他人を当てはめて貶める人のほうがよほど頭が悪い。
考えることを試みる人、結論に自分なりの考え、過程を踏んでいく人を
「頭がいい」と俺は評したい
というか頭いい人が好き
のでまずは考えて欲しい。
今の文を情緒的にひたすら読んで「俺ってアホだったんだ・・・」とか思ってる奴は総じてアホだから何も言わんが
コメントに打たずとも、この文章を感情抜きで反論しようとする人間は好感が持てる
自分の考えを確立しててそれの参考程度にこの文を流し読みしている程度が理想の「頭いい人間の像」
これが俺の定義する「頭のいい」だからアホだと罵られても気にすること無いよ。
と入ってもこれで気にするような奴は俺の定義上のアホなんだよなぁ・・・
っていうか頭がいいってのを学校の成績だけで判断する事自体が閉鎖的で愚かなんだよなぁ
俺的には机に向かってるガリ勉野郎よりも
場を盛り上げる計算高い人間のほうが頭良く見える
というか、頭のいい女の子って
普通に考えても無理な俺を相手にすることなんかマンに一つもないんじゃ・・・