ほんの十年前は男の娘よりふたなりのジャンルの方が勢いがあったはずなのだが
ここ最近では完全に逆転している。
純粋に「ふたなり」というジャンルそのものが好きだという人間は今も愛好しているが、その多くは男の娘に移行している
なぜ我々は「ふたなり」を愛でていたのか
僕はこのような段階を定義する
始めに断っておくが、各ジャンルに定住する人種は存在する。
この記事で問うのは彼らの話ではない
僕がいいたいのは「ふたなり→男の娘」の移行に伴って価値観が変化する遊牧民の精神性の話である。
ボーイッシュ → ┓
↓ ┃
ふたなり ┃
↓ ┃
男の娘 ┃
↓ ↓
ホモ ⇔ TS
これはこのように分けることが出来る
ボーイッシュ(タイプA)
外見:♀より 内面:♂よりの♀ 生物学的分類:♀
ボーイッシュ(タイプB)
外見:♂より 内面:♀よりの♂ 生物学的分類:♀
外見:♀ 内面:♀ 生物学的分類:♀(男性器有)
男の娘
外見:♀ 内面:♂または♀ 生物学的分類:♂
※ベットの上では♀
ホモ
外見:♂ 内面:♂または♀ 生物学的分類:♂
ふたなりと男の娘で内面的な部分の違いはない
つまりアダルトコンテンツにおいて前者と後者とで「やってることは殆ど同じ」なのである。
しかし、特異点となるのは生物学的な分類でオスかメスかという違いである。
我々遊牧民は長い年月《ある思想》に取り憑かれていた
「同性愛は特殊である」という社会通念である。
我々遊牧民は「同性愛が特殊である」つまり《男を性の対象にするのは気が引ける》という思想に囚われながらオカズ探しをしていた
その中でボーイッシュ、ふたなり、TSといったジャンルは「生物学的には女なのでセーフ」という代償的な存在であった。
いわば「男を性の対象として見る」という背徳的行為に言い訳する要素だったのだ。
しかし近年の同性愛者による権利の主張により、社会通念における建前上の正義は「同性愛は正常である」ということになった。
年齢を重ねていくに連れて「社会通念上の道徳」による支配が強く、年配者は《その域》には至っていない傾向にあるが
やがて法律さえも変わってゆき《男を性の対象にするのは気が引ける》という社会通念が現代の若者からは薄れてゆく
人間にぼんやりと備わっている「潜在的ホモ」が「社会通念」を上回る瞬間が、ふたなりの衰退と男の娘の隆盛にあるのだ
ここで一つの本を紹介したい
Biological Exuberance: Animal Homosexuality and Natural Diversity
- 作者: Bruce Bagemihl
- 出版社/メーカー: St Martins Pr
- 発売日: 1998/10/01
- メディア: ハードカバー
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正直、英語が読めないので本を紹介したのはただイキりたかっただけなのだが
この本にはこんな挿絵がある(本読めなくて挿絵しか見ない奴っているよね)
イルカのホモセッ久である
下の図はイルカの呼吸孔(頭についている鼻みたいなもん)に男性器を挿入している図である。
中々狂ったシチュエーションである
こちらは猿のオスがオスの性器を加えている図である
人間以外の動物にも本能としてこの「潜在的ホモ」が宿っていることがわかる。
このように、性癖というのは時代による集合知と育った環境によって決められる。
そして個人の性癖はその集合知に融和していく。
時代の点を見れば「マイノリティ」であるが大局的に見れば「イノベーター」なのである
しかし、人類全体の集合知(性癖)が2000年の間ずっと融和し続けてきた訳ではない。
「潜在的ホモ」が「社会通念的道徳」を越えるキャズムは歴史的にはよくあることなのだ。
古代ギリシャのアテナや古代ローマ、日本では戦国時代や江戸時代に「少年愛」という形で性癖が生物学上の性別を超えた
面白いのが性癖の融和が性別を超える時、大体いつも「性的表現の規制が強くなった時」なのだ
歌舞伎では役者の女性目当てに男がやってきて、店側も性を煽るようビジネスが洗練された時、女性を舞台に立たせることを禁止した。その時、いわば代償として美少年が舞台に立つことになった。
春画でも男女の絡みを禁止したために触手ジャンルが流行ったり、女性器の描写を禁止した時に「男の娘」が描かれることになった
まんま今の流れと全く同じなのである。
しかし、今の社会を見て分かる通り歴史的に性癖が融和し続けることはない
古代ギリシャやローマの例で行けばキリスト教の普及により人々の性癖はリセットされたり、日本でも明治政府がア◯ルセッ久を禁止する法案を通したり、二次大戦以降GHQが作った法律にも似たような規制があったりと
人の性癖の集合知はいつの日かデフォルトされてしまうのだ。
そして現代、日本における性癖の集合知に大きな影響を与えたのはAVである。
80年代に発生したアダルトビデオの歴史こそが人々の性癖の集合知を形成したといえるだろう。
驚いたことに80年代後半時点ではフ◯ラチオ自体が(当時は尺八からシャクると言った単語が用いられていた)特殊なプレイとして認識されていたのだ
騎乗位で腰を振ると経験豊富な女性として判断される時代、90年代前半ではレイプモノに女性の人権侵害だと大量の抗議がきたエピソードなど
今の性癖の集合知では考えられないような「社会通念」が存在していたことが分かる。
いずれも現代に至るまでにそのほとんどが融和し、またあるジャンルは規制された。
このような大局的歴史観において「特殊性癖か否か」という論争はいかに無意味かということが分かるだろう。
某掲示板で日夜行われている性癖論争も《 歴史を知る者 》からすればお笑い草だ
我々に出来ることは
融和していく集合知としての性癖と、それを規制する勢力との見えない戦争の中で
いつか来るであろう集合知のデフォルトを憂うことだけなのだ。