はなくそモグモグ

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幸せになりたいのか、幸せに思われたいのか

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学生の時に思っていたのは「幸せの押し付け」がひどい。

「部活入って友達と汗をかくべき」とか「勉強していい学校に入るべき」とか

「~であること」が「絶対的な幸福」だと言わんばかりのおしつけ。

部活をすること、友だちをつくること、恋人を作ること、結婚すること

それぞれが絶対に幸せだからそうあるべき。みたいな風潮が日本社会全体に根付いてると思う。

青春とかいう言葉に吐き気をもよおす、朝飯がこんにちはしそうになる。

これ言っちゃ姉妹ですが、幸せは人それぞれなんですよね

もっと極端な話、主観的客観でいう「不幸」が幸せと感じる人もいる

具体的に言うと、貧乏生活で苦労することに生きがいを感じる人もいるということ。

それぞれがそれぞれの幸せの定義を持ってるはずなのに

「友達いっぱいいる奴は幸せ」「彼女いる奴は幸せ」「結婚してる奴は幸せ」

みたいに幸せの定義を社会が作ってしまったから、見せかけの幸せを手にする人が増えた。

いつも他人が基準 

まるで幸せというのが評価になってるよね。

他人に幸せと思わせることで自分が幸せになった気になってるというか、

まぁ本人が幸せならそれも幸せのかたちとしてアリなのかなと思ってしまうけれど

逆にそれは不幸の裏返しでもあるということを忘れないで欲しい。

「友達いっぱいいる奴は幸せ」「彼女いる奴は幸せ」「結婚してる奴は幸せ」

みたいなのを幸せの不変の定義みたいに思ってしまうと、逆説的に

「友達いない奴は不幸」「彼女いない奴は不幸」「結婚してない奴は不幸」

みたいな思考に陥る危険性があるということ。

この間近所で自殺した人がいるのだけれども(詳しくは言わない)その人も

これに陥ったのかなと思います(結構調べた上での結論)

LINEとかでも「友達とどこどこ言って楽しかったー」とかプロフィールで彼氏彼女の画像載せてる奴とか

客観的に見れてるのか妬みかはわからないけれど僕は「幸せですよアピール」にしか見えない。

ひょっとしたら「幸せの定義」を作ってしまったがゆえに

「不幸である自分」をより強調させてしまったのではないか。

 

自分が本当に幸せならひっそりと幸せするのでわ?

自分が幸せなのを発信しちゃう人って絶対満たされてないがゆえの行為だよね

本当に幸せならひっそり幸せになっていればいい話で、

承認欲求が強いのかはわからないけれど、「幸せだと思われたい」意識が強いと思う

けど「本当に幸せだと思う人は他人に自分の幸せをアピールしない」とも言い切れない。

自慢したい、羨ましがられたい、という目的で幸せであるにもかかわらずそれを発信する奴はいるかもしれない

でもそれは、欲求不満の裏返しだとも思う。

 

エゴイズムという言葉

正直、犯罪者とか人生得してると思う。

理性も他人の目を気にしない結果、自分の好きなことができたんだからね

結局、大半の人間は幸せを比べたいだけで相対的に幸せであることに優越感を得ているというか

幸せという得点競技で以下に高得点を叩きだすかみたいな

だからブランド品貸出サービスとかが成立している世の中に笑っちゃうし

幸せに見せるために、人一倍苦労するとかバカバカしくてウンコもれる。

 

結論:引きこもって楽しんでる俺に同情の眼差しを向けるのはやめてくれ

 

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