場所を方角で呼ぶのはナンセンスだと思う。
水の東西の本文は各自で見ていただきたい。
まず東西の西は「ヨーロッパ」、東は「日本」
ヨーロッパの人は日本を「極東」と呼び
日本の人はヨーロッパを「西洋」と呼ぶことから、
そうでなくても本文を読めばわかることですけど。
段落としては
①「鹿おどし」が動いているのを ・・・(文段落では①~②)
②私はこの「鹿おどし」を、 ・・・(文段落では③~⑤)
③日本の水は時間の流れを感じさせ・・・(文段落では⑥~⑧)
④水には形がないが、そこに日本人・・・(文段落では⑨~⑪)
①・・・ししおどしの説明
②・・・噴水の説明
③・・・両者の「伝統的」な比較
④・・・両者の「感性的」な比較
そして間違いなく取り上げられるであろう表現
「時間的な水、空間的な水」
時間的な水がししおどし
空間的な水が噴水
であることをこの記事を読まずとも理解してないと話になりません。
一段落・・・ししおどしの説明
作者はししおどしを「時間的な水」と表現している。
そして、時間と水を「流れるもの」とひとくくりにしている。
ししおどしは、ながれる水をせきとめ、それが一杯になるとカコンと音を立てて吐き出す。
勢いよくあふれ出る噴水は「水が出てる」とはっきり認識できますが
ししおどしはカコンと水を吐き出すまで「水がどれだけ入っているのか」というのが認識できない。
なので、ししおどしを通して水を楽しむ瞬間というのはこの「カコン」しかなく、
その「カコン」は一瞬で、「カコン」を認知したら、次の「カコン」まで水がたまるのを待たなければならない
そこに作者は「けだるさ」を感じている。
お茶とかゆったりとした雰囲気を楽しむのが好きな日本人らしいとも言える。
「かえって、水の流れや時の流れを強調する。」とあるが
その時間差的な仕組みが、「カコン」の一瞬で「水がたまった」「時間がたった」という現象を強調している。
僕はそうは思わないし、ししおどしはうるさいだけだと思うけど。
そんなカコンカコン聞いてるほど暇じゃねぇよ。
第二段落・・・噴水の説明
という俺の気持ちを大便するかのごとく、ヨーロッパの文化ではそんなゆったりする余裕がないわけですから、
その作業の合間にチラッと見る、あるいは乾いた空気を潤すため、そこに水は存在していた。
こまめに動く「ししおどし」とは違い、「噴水」には変化がなく、ただ盛り上がりながら吹き荒れる水がとまっているように見える。
噴水は写真で表現できるが、ししおどしは動く動画や漫画などでしかその本質を伝えることができない。と考えるとわかりやすいかもしれない
流れる水と、噴き上げる水。
流れる(上から下)噴き上げる(下から上)という対比。
三段落・・・両者の「伝統的」な比較
ここでキーとなる表現「時間的な水、空間的な水。」が出てくるわけです。
日本が「噴水」を作らなかったのは、技術が足りなかった
ローマの技術が噴水向きだったのでという面や、乾いた空気を潤すといった用途で噴水ができ、それが芸術的である。
それに比べ、ししおどしや池など地味な日本。
しかし、技術が足りないだけでなく日本人の「水への考え方」
日本では水を「自然なもの」と定義して下手にいじらなかった、ということが大きいと筆者は述べる。
だから噴水(噴き上げる)といった下から上の動作は自然には起こらず(温泉を除く)
上から下という自然な「流れ」を意識したために
滝やししおどしを嗜んだといえる。
それは外界に対する受動的な態度(噴水を作れないから指をくわえてみてる)じゃなくて積極的に、形なきものを恐れない心の現われ(あえて水をいじらない美的価値観)だと述べている。
水はそのまま、それこそありのままの姿が美しく、
噴水にしたり、技術的に細工するものではないという考えがあった。ということ。
「行雲流水」・・・流れるままに流されること。
といった言葉のとおり、水には干渉しないという考え方。
第四段落・・・両者の「感性的」な比較
「見えない水と、目に見える水。」
噴水は、派手に視覚的に訴える水だが
ししおどしは、水の流れ、竹筒に「水がたまっているか」がわからない、
カコンという音で水のたまり具合を認知するため
聴覚的に訴える水である。
そのカコンとカコンの間に、「水の流れ」を感じるものであり。
水の自然体を水を見ずに(うまいこといった)感じる仕掛けとして
カコンとカコンの間の静かな時間に、水の流れを感じるような
ししおどしは日本の伝統を体現した仕掛けだといえる。
>もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのに、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。
俺はこの「間隙」という言葉のチョイスに感激した(ドヤ顔)
というのも、間隙というのはすきまという意味だが、
空間的にも時間的にも「すきま」という表現が使える点である。
西洋はその隙間を、「噴水を見ること」でしか味わえないが
日本では「カコンとカコンの間」の「静寂」に「水の流れ」を感じることができるという点である。