はなくそモグモグ

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ヤバイ、50m走ヤバかったけどヤバいぐらいに調子よくてヤバかった

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記号化する言語、数字で話す時代が来る。

茶色く太い枝を敷き詰めるように生える葉っはたち
それを我々が木と呼び、アメリカ人はtreeと呼んだ
それが言語の原点、実態を何かに形容することで実物なしに何かを表現する能力。

その能力は形而上のものも名状し、

「性処理のためだけに存在する奴隷のような女」を「肉便器」と表現する様に
自身の体すら省略した。


説明が長くなる文には必ずと言っていいほど熟語が存在する
「殺したくなるほどの怒り」を「殺意」
「愛しくてどうしようもない愛」を「盲愛」
「イケメンで頭が良くて運動神経抜群な人」を「俺」
と言った風に。

いつの頃から熟語が発生したのかはわかりかねるが
意味よりもあとに、文を省略する形で作られたことは確かだ。

そのうち、「空気読めない」を「KY」といった
若者言葉といわれる新たな省略形態が生まれてきた。
大抵は死語になり、前述したKYもいまは使われることは全くと言っていいほど、ない。
しかし、比較的汎用性の高い語句は生き残る傾向にある。
例が思いつかなくて申し訳ないが、
そういった語は今でこそ叩かれ、テストでは丸をもらえないが、
数百、数千年語の正しい語句として教科書に載るだろう。
省略型の語句には、そういう可能性を孕んでいる。

ただ怖いのは、意思疎通の合理性に特化しすぎた、この記号化された言語によって、表現の味がなくなってしまうことだ。
私がすごいと思っている言葉は「ヤバイ」である
やばいは元々不都合であるさまを意味する形容動詞であるが、
最近の人間が使う「ヤバイ」はそんなマイナスな意味を示唆させない。
「昨日ヤバかった。」という言葉を聞いて、「きのうすごいことが起こった(プラスの意味で)」と解釈した人間はヤバイの魔力に毒されていることでしょう。

何より汎用性の高さだけに飽き足らず、使い手の語句選択の思考停止を促す、このヤバイに
私は真の意味でのヤバさを感じざるを得ないのである。

一言で感動を伝える時、
やばい一つで嬉しい悲しい楽しい卑しい腹立だしいなど幾多の意味を持ち、
ニュアンスで相手に伝わってしまう。
その機能性に我々人間は使われてしまうのである。

今後ヤバいのような語句が栄華を誇り、世にのさばってしまえば、人々の伝達手段としての言語に効率のみを求めることになり。全ての表現がやばい一つで完結してしまうようになる。
そうなってしまえば会話や文字に個性がなくなり、言語そのものが死んでしまうだろう。
特異な言い回しが好きな私にとっては、言語の衰退は望ましくなく、
人一人ひとりが言葉を選ぶ楽しさを見出してほしいと切に願います。
そうでないと本当にヤバイので