よく考えて見れば、夜の街には途方も無いくらいの明かりが存在していて、
それら全てに人がいて、それら全てに人生がある。
どれだけ遠くから見てもその手には収まらない光に、僕は触れゆく可能性を持っていて
僕にはそれが眩しかった。
この世界には限りないほどの人生があり、
その一つ一つに「幸福」と「不幸」がおおよそ等分配されている。
しかしその配分を見る限り、神などという絶対者の存在は認識し得ない。
なぜなら、
僕という健康と時間、それなりの才能に恵まれていながら
多々ある時間を喰い潰すだけのクソムシがいる一方で、
健康、時間に蝕まれていながら、より一層の努力を尽くし、その運命に抗う者がいた。
もし神がいるならば、
なぜ僕にぬるま湯を与え、そのような可能性のあるものの足を引っ張る真似をするのだろうか。
話はそれたが、人一人一人に人生があって、倫理的に欠けてはならないとされる。
しかし、人間というものは強く「不幸」に値する人間でも
端から見れば、「幸福」側の人間と変わらない、”ふつうの人”なのである。
だが人に触れることでその人生の内面、そのパーソナルな部分に片足を突っ込むことになる。
それが醜いものなのか果てしなく甘いモノなのか、
そしてそれらの見えやすさ、というのも人によってそれぞれだが
「他者の人生」は他人に触れることでしか見ることはできない。
少なくとも、”他者の人生に触れる”ということは相手の人生の波長に影響を及ぼすのと同義であり。
場合によっては狂わせてしまうこともあり、その行為は慎重を要する。
その影響とは、身近な例を上げれば「恋」が相当する。
もっとも、「自人生に対する他者の介入」を安易に許す人間は多くなく、
たいていは心を閉ざすことがおおい。
その点を踏まえ、僕は今後、どれだけの人生に触れることが出来るのか
ないしどれほどの人生の波長に影響を与えていくのかはわからないが
夜でなくとも輝く光になりたい。
もっとも「幸福」「不幸」を感知するセンサーは精度が悪く、
他者の人生はおろか、自分の人生すらも図り得ないポンコツである^^