死というものの可能性は多かれ少なかれ誰もが持っていて、
今日まで元気だった人間が突然死んだとしても、
それを納得させられるほどの弾圧的な根拠を現実は持っているわけで。
歩いている時にも「死」は存在していて、
例えば歩道を走る自転車なんかは、車輪に投石してみれば車道側へ転落して死ぬ。
このように、死の可能性は誰しもが保有していて、それを誘発させられるだけの可能性をも私達は持っている。
要するに「殺せる」という可能性を私達は秘めているわけで。
踏切を待つときでさえ50センチ先には死が広がってる。
何が言いたいかというと、「明日簡単に死ねるぞ?」
明日、この記事を思い出したら考えてみろ、
「今この状況でどうやって死ねるか。」
例えば、通勤中だったら車に轢かれるとか通り魔に刺されるとか、
大体どんな状況であれ、死のうと思えば死ねる、逆に言えば殺せる。
その死の可能性を保有しながら、運良く今日まで存在できていることを知れ。
そして、もし「明日死んだ」として、「悔いはないか?」
自分の人生を物語としたらそれは売れるエンディングか?
俺は売れない。
しかも、自分の命ってよくて100年存在できるかのレベル。
あと100年経てば、俺を含め自分の周り全員が死んでる。
そして100年後、「誰がお前を覚えているか?」
曽祖父、ひいじいちゃんの性格を知っているか?。祖母の生い立ちを知っているか?
所詮はそんなもの、自分がいくら苦労して努力しても。
周りには「ほーん、で?」っていうレベルなんだよ。
その閉鎖的な存在に対していかに命の炎をともし続けられるか。
ベートーヴェンの人生は知らないけれど、曲は知ってる。
逆説的に考えれば、自分が何をしても100年後には認知されないことになるから。
犯罪をおかしてもニートしても、時代単位の目線で見ればただの塵なんだから
自分の生きたいように生きるべきだと思う。
自分の周りの人間1000人に嫌われても、残りの70億人が自分のことを嫌いである証明にはならないですから。
友人関係でのトラブルで命を落とすというのはあまりにも愚行。
進学ないし就職すればまた新しい人達の環境になるし、
人間って繋がってるようで実はその糸は脆い。
まずは自分なんぞにスポットライトは当たっていないと、
宇宙規模で見ればただの塵の反応にすぎないのだから、肩の力を抜くべき。
だからこそ、俺は創作を始め
自分は表現できなくても、作品が表現してくれる。
それが後世に残るものかはわからないけれど。
確かに俺はいたという証明にはなるだろう。
これを「死に対する逃げ」ととられてもしょうがないのだが、
不器用なりの俺の生き方としては上々だろう。
とりあえず作品1つ作るまでは死にたくない^∪^