「最近の若者は甘い」「私達の世代はもっと厳しかった」
などというお年寄りの方が後を絶たないが、この批判がどれほど愚行であるかを述べていく。
これらの言動はまさに「自分が今の環境に適合できないです」と
周囲に開示しているということを自覚していないらしい。
当然、いつまでも同じ環境が続けばいい。
それは自分が適合してきたことによって住み心地がよく、
自分が一番よく知る庭であるから、いつまでたっても動きやすい。
しかし変わらぬものなど存在するはずがなく、当然時代とともに変化する。
一番身近な例を上げて「インターネット」である。
「インターネットを媒介に応酬するコミュニケーションに情はない。」
「顔も見えない人物に心を許すのは愚かである。」
「今の若者は直接話すことができない」
だからどうというのだろうか?
知能を発達させる道を選び、動物的な進化を捨ててきた人間が、
何をいまさら守ろうというのか?
パソコンや携帯など。新しいものが入って来れば、
存外の物でコミュニケーションを取っていた水面に波紋が生じる。
それらを受け入れられず適応することのできなかったご老人の断末魔であるほかなんと形容しようか。
所詮は負け犬の遠吠えである。
「携帯を持つことで話すことができなくなる。」
もっとも、このような新しいテクノロジーの普及を批判する人間の多くは
服を着、蛇口をひねり、ガスをつけ、冷蔵庫を開け、加工された食物を食べ生を繋ぐ。
温度調節ができなくなり、免疫力が低下し、添加物により寿命が縮まり、
機械無しでは火を扱えなくなり、食物を自給できなくなる
にもかかわらずだ。
そういった先人たちの苦労を軽減させるテクノロジーを
まるで人類の存続を脅かす悪魔のように叩き、批判する。
自分をテクノロジーで塗り固めて置きながら、革新を否定するのだ。
どれほど情緒的で愚かであるか。
仮にも先人である人生の経験者が、自分たちの愚かさを
たかが義務教育も終えていないゆとりに悟られるとは。
テクノロジーを否定するのは
藁で陰部を包み、食物を桑で時給するまでまだ早い