はなくそモグモグ

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狭い視野による可能性の断絶

なぜ英語を学ぶのか

もちろんグローバル化する世界の中で

世界共通語である英語を話せるかによって立ち位置が変わってくるから

それもあるが、もっとも

「日本との文化の違いを学ぶ学問」

と私は考えています

 

なら、英語によって得られる文化の違いとは何か。

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ここにひとつのリンゴが有ります(わざわざ描いた

これを日本語では「リンゴ」といいます。

しかし英語では「Apple」ではなく「An apple」なのです

英語には物の名前を言う時、それが誰のものなのか

あるいは何のリンゴなのか、そういう定義付けをしていかなくてはならないのです

(ちなみにそれを冠詞といいます)

日本語では「コンビニ行こうぜ」が「Let's go to the conveni with me.」

と、明らかに二人の中では共通に定義されている、二人の中で通じる単語にも

theをつけます(実際のアメリカの口語ではどうなってるか知らん)

これを中学一年で指導されますが、三年になってもこれを付け忘れる人がいます。

それはなぜなのか、単純な話、

日本に冠詞をつけるという文化が無いからです

文化にない異質の類を受け入れるにはある程度大人びた思考性と柔軟性が必要になります。それを身につけていないから間違えるのです。

これらは我々は英語を学ばなければ気づけなかったものです。

モノに冠詞をつける文化があったのか、そういう考え方もあるのか。

こういう考え方を言語を通して身につけなければならないのです。

英語が日本語に翻訳されたり、日本語に比較するのも、

文化の違いを明確に定義付けてそこから何を学ぶのか、

というところが根強いのかもしれません

 

イギリスの建物の一階をグランドフロアとし、二階を一階とする文化。

一階をゼロとする考え方、そういう国もあるんだなぁ、

そういう国の文化を受け入れる学問、それが「英語」です。

 

そういう自分と違うものを受け入れる柔軟性

それが身についていないとどうなるのか

例を上げれば「黒人」です。

ブラックな話になるのですが(上手いこと言った

白人だらけの欧米が土地を開拓するうちに黒人を見つけました。

そして白人たちは自分と肌の色が違う、異質の類である黒人を差別しました。

差別とはもちろん黒人を見下し服従させたのです

なぜそうなったのか、自分と違うものに恐れたから、自分と違うものが不気味だった

いろいろあるでしょうが、これらに共通して言えることは

昔の人間は「視野が狭かった」

自分とは違う肌の黒い人種を受け入れられなかった

受け入れようとする努力をしなかったからです。

これは現代の日本にも言えます

「いじめ」

おとなしく抵抗しない人間を受け入れられない

自分を主張することが苦手な人を受け入れられない、拒否したから

このようなことが生まれたのです。

 

もし宇宙人が存在して、地球に降りてきたとすれば

人間はまずそれを殺すでしょう。

地球を滅ぼしに来た、よくわからないから危険。

だから殺すのです。

宇宙人が友好的に人と協定を結びに来たのかもしれない。

あるいは日本に革新的な影響をもたらすかもしれない。

それらの可能性を「視野の狭さ」が断絶するのです。

 

普段はおとなしく、自己主張しない人間であっても

ユーモアにとんだおもしろい人間かもしれない、

それらを主張できず、心のうちに秘めているかもしれない

その人物を受け入れられず否定することは

その人物に秘めている可能性を断ち切ることなのです。

 

もし昔の人が

ハチは危険だからといって絶滅させていれば

いまの人類に「はちみつ」はなかった

手出しできなかったとはいえ、共存する道を選んだ、ハチを受け入れたからこそ

「はちみつ」があるのです。

 

そのむかし、地球が中心であり地球の周りを太陽やら月やらが回ってたという考え方

天動説が主流でした、もちろん現代の科学ではそれは否定されています

その否定される原因とも言える人物がガリレオ・ガリレイです

彼は太陽や月が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているのだ。とする地動説を唱えました。

そして彼はそれを証明するために「望遠鏡」を作り

科学者たちにそれを見せました。

しかし科学者たちはその望遠鏡を見ようとはしなかった。

「そんなものはありはしない」と

太陽や月が回っている天動説、その「常識」が異質の類である「地動説」を受け入れられなかったのです。

頭がよくても視野の狭い人物というのはたくさんいるのです

しかし、誰かが望遠鏡を覗きこみ、異質のたぐいである「地動説」を受け入れ、

それを評価したからこそ、今の現代の科学が存在している。

 

「常識」「思いこみ」「見た目」

これらが排他的な視野の狭さを生み、それらが可能性という架け橋をぶった切っている

 

いかなるものにでも何か能力はある。

それを見た目や安易な決め付けによって受け入れることを拒否すれば

そのものの持つ可能性全てを断ち切ることになる

 

視野が狭いと周りが見えない。見えないものに恐怖し触れることをやめる

 

非常に愚かだと言える。

触れてもいないのにどうして危険だとわかるというのだ