はなくそモグモグ

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友情努力勝利をモットーにするジャンプだが努力と勝利を追求すれば自然と友情はなくなる

有名な野球選手のイチローは、少年時代友達と遊ばずに野球の練習に没頭していた。

その野球の練習が、彼にとっての「努力」なのか?

わかりやすい例で言えば、

格闘ゲームが得意なA君が、なぜ格闘ゲームが強いかを調べたところ

毎日、格闘ゲームばっかりやっているから強いのだという

これを勉強に当てはめてみよう

勉強が得意なB君が、なぜテストの点数がいいのかを調べた所

毎日、勉強ばっかりやってるから高いのだという

 

「A君ゲームが得意、なぜならゲームを毎日やっているから。」

こう聞いた時、大抵の人間はゲームをやるという行為を「努力している」

などとは思わないだろう。

A君自身も好きでやっているのだから「上達したい」という意志を持ってして

「努力」をしているわけではない

これがB君の場合だとどうだろう

「B君テストの点数がいいのは毎日勉強をしているから」

こうすると、たいていの人間は勉強するという行為を「努力している」

と評価するのではないか?

B君が勉強を好きか嫌いかがどうであれ人は努力をしていると評価するだろう

B君が勉強すること、学ぶことが好きであるかもかかわらずにだ

 

つまり、努力というものは周りが勝手に評価しているにすぎないということだ。

 

スポーツ選手が、スポーツの練習をしていることを「努力している」と評価する時に

私たちが「勉強している努力」と同意義の意味合いで評価しているか?

スポーツ選手は苦しみながらもスポーツを楽しんでいる

勉強を苦にしている我々が、勉強を楽しんでいない時点で

この二つの「努力」は同義にて相反しているといえる。

 

A君もB君も「上達する手段」という意味合いでは「努力している」といえるが

主観的客観で言えばA君は努力として認められない

 

努力というものは、他人が評価する形でしか存在できない

客観的概念であるといえよう。

 

そして、数値的な努力の定義はなんだ?

「結果を残すこと」が努力していると判断できる基準なのか?

ハナクソほじってキーボード叩きながら取った100点と

それこそB君のように必死で勉強してとった50点と

結果を残すことが定義であるならばハナクソほじって取った100点を

努力しているといえよう。

 

そう、努力しているかを正確に測ることなど非常に困難なのだ。

勉強で当てはめるなら勉強するはずであろう生徒の行動を

四六時中監視しなければならない。

それを、形而下における紙一枚で評価しようものなのだから愚かなものだ

 

 

 

 

 

 

 

 

「努力」を成績として評価する教師たちよ。

お前たちに何がわかる?