今から数百年前、雷という概念は、鬼が太鼓叩いてヤイヤイいうことで発生してたって言ってたんだわ。そんでみんなそれをしんじてたわけよ。
それが現在ではどうだろう、科学が発展して、雷は大気中の摩擦によって起こるものだと科学的に解明されてるじゃん?んでみんなそれを信じてるじゃん?
そしたら、また数百年後、その数百年後の時はさ、雷は大気中の摩擦なんて言ってるのかな?もしかしたら違う考え方があって皆がそれを信じてるかもしれない。
ここでいいたいのは、本当の真実なんてどうでもいいんだよ。
ただ皆がそれを信じていたらそれは事実になるじゃん?
世界が100人の人間で回っているとしよう。このなかで泥棒が起きました、100中一人だけが犯人を知ってます。その人をA太郎と名づけましょう。
もちろんA太郎君は犯人を知っているので指摘します。するとどうでしょう、残りの99人はA太郎くんを疑っているのです。容疑者のいうことは例え真実だとしても信じてもらえないのです。
どうですか?本当は真実はどうでもいいんです。
皆が納得しそれで世界が回るならどんな誤情報でもかまわないのです。
ましては最初に述べた「雷」の概念についても同じです。
どんな誤情報だったとしても、後に「雷は鬼と関係はない、大気中の摩擦だ!」と言えば、雷に対する概念もコロリと変わってしまいます。
当然昔の人は、後に自分の知識が間違ってると指摘されることも知らずに死んでゆくのです。
だとしたらどうして勉強というものが存在するのだろう?
もしかしたら、数百年後にすごい科学者が現れて、
俺達が学んできたことを根底からくつがえすような理論を提唱するかもしれない。
そうすれば俺達はその間違いに気づかず、死んでゆく
または生存中にそのような科学者が理論を提唱した場合。
俺達が学校で学んできた知識を書き換えなければならない。
勉強で得られる知識というものはあまりにも儚く、脆いのである。
人間は肉体では争えないから頭で勝負する。つまり学歴社会
人間は戦わせると危険なのでルールを作った上での戦いをする。つまりスポーツ
こうして人間たちは、人間たちの優劣を決めるのである。
人間は優劣を付けたがる生き物で、
自分より下のものを見ると安心してしまう生き物である。非常に愚かだといえよう
そう勉強とは人間の「優劣つけたがりごっこ」のプロセス(過程)なのである
安全かつ合理的に優劣をつける手段ならなんでもいいのだ・・・
決められた一つのフィールド上での争いで優劣を決めたために。
勝者は優越感を感じ愚かに吠え、敗者は劣等感に苛まれ無様に悲鳴をあげる。
このくだらない「優劣つけたがりごっこ」のために世界中の人類は泣きを見ることになる
いずれ変わるかもしれない不確定要素での争い。優越。劣等
自分より劣っているものを決めたいがために、このくだらない社会が確立している
とある人物が言った「学校は社会の縮図」だと。
社会を知らない俺はわからないことなのだが、
大人になってもこんなくだらない要素一つをとって優越感に浸っているものなのだろうか?
では、テストの点数が直接頭の性能に関与しているといえますか?
答えはNOです。
なぜなら、100点をとったとしてもギリギリ勉強しまくってやっととれた100点なのか、100点以上の力量で確実にとれた100点なのかわからないからである。
脳の性能をはかるものに限界があるのは言語道断
テストのシステム一つとってしてもいかに愚かなゲームであることか。。。
その愚かなゲームごときで自分の実力を把握したつもりでいる奴らには反吐が出る
コレが現実・・・あまりにも愚かな・・・・げんじつ・・・・。
平均点あげんなや、テストなんて結局、暗記大会なんだよバーカ!
そんな程度で俺の実力を計ったつもりになんなよ!!
っつーわけでいいかげん宿題減らさね?(#^ω^)ビキビキ